昨日は久しぶりに映画を観た。平日の午前中とあって観客はとても少なかった。小劇場とは言え、7、80人程入るところ私を含めて7人しかなかった。その中に年配のご婦人が3人いたのが印象的だった。当時の女性活動家だったのだろうか?
団塊の世代でもある私は当時の現役学生で、三島由紀夫と東大全共闘の対談のニュースもリアルタイムで耳にしていたはずなのだが、明瞭な記憶としては残っていない。当時の私は、無気力と自堕落を絵に描いたような学生で、勉強にも学生運動にもともに興味が持てなかった。 もう少し頭が良ければ熱心な学生運動家になっていたような気もするが、その当時の彼らが熱情を込めて語る吉本隆明やサルトルが難しすぎて全然理解できなかったのだ。この映画を観て、あれほど難解だった彼らの言っていたこと(というより議論のスタイル)が少し理解できるようになった。
私の目には、両者の議論は初めから滑っているように見えた。どちらも滑っているからそれなりに噛みあっているところが妙である。学生がいきなり「あなたにとって他者とは何ですか?」と切り出す。それを受けて、三島は「サルトル曰く、最高にエロティックなものは拘束された裸の女‥‥」と語りだす。(一体なんなんだ?) 哲学における他者論と言うのはとても難しいもので、何でここでそれが飛び出すという感があるが、社会を変革しようとしている両者にとって、それは大衆を意識したものでなくてはならないはずなのに、しょっぱなから芸術論にすり替わっている。
両者とも芸術家であると考えれば彼らの議論はとても腑に落ちる。社会を変革するという目標を目指しながら、実は自分たちの主体性を最も躍動させる場を求めているだけなのだ。一方は「天皇」、もう一方は「大衆」を大義として掲げているが、それは単なる記号でしかない。だから彼らはお互いに共感しあえるが、結局それは社会から遊離したものとならざるを得ないことは必然である。
映画評を見ると、高い知性のぶつかり合いに対して共感を示すものが結構多いが、私はあまり評価する気にはなれない。高い知性と言うのは時に幼稚でもある。彼らの対話は社会運動のリーダーとしては抽象的過ぎるのである。このような議論で大衆を動かせると信じているのなら、ナイーブすぎるというしかないだろう。純粋でナイーブな思想というものはとても危険なものである。三島由紀夫と全共闘、どちらが社会を先導してもその社会が危険なものとなるのは間違いないと私は考える。
あがたの森と思誠寮 (長野県松本市) 記事とは関係ありません。
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