日本臨済宗の実質的な総本山である妙心寺の御開山である関山慧玄国師は、死について問われた時、「慧玄が会裏に生死なし」と答えたと伝えられている。我々が普段語っている「死」は他人の死について語っているのであって、決して自分の死についてではない。自分の死について語ろうとしても、それはどうしても他人の死から連想した死のイメージでしかないのである。
一応、自分の死を矛盾なく定義することはできる。例えば「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」というふうに。しかし、それには直観が伴わない、いわば空疎な概念である。どんなに頑張ってみても、「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」を想像することは私達にはできない。
「それは感覚のない世界だから、暗黒と静寂の世界ではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、すでに「暗黒」と「無音」ということを自分の感覚で想像しているのである。なにも認識できないのなら、それは暗黒でも静寂でもないはずである。
しかし、哲学や宗教の中で、人々はさんざん死について語ってきたのではなかったか? 一体、それはなにについて語られてきたのだろうか?ということになる。おそらく、それは分からない。人は死について語るとき、自分が何について語っているかを知らないで語っているのである。
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( 今年はいつもより、レッドロビンの色が鮮やかに見える。 )
「現存在の終わりとしての死は、現存在の最も固有な、没交渉的な、確実な、しかもそのようなものとして無規定な、追い越しえない可能性である。と、死は現存在の終わりとしておのれの終わりへとかかわるこの存在者の内で存在している。」・・・Martin Heidegger
死が生きているわけです。
そのことについては理解できます。しかし、その謎が「死」にまつわるものであるかどうかは疑問であると私は考えます。
それは「生」そのもの、あるいは「世界が私の世界である」と表現したくなる、そのような衝動に通底するものです。そのこと自体は私は否定しません。むしろ、そのことこそ仏教の「妙」に通じることでありましょう。
ただ、私は端的に、人が死について語っている時、その「死」という言葉の指示対象はあやしい、と言っているだけのことです。いくら語りたいと思っても、語ってしまえばそれはたぶん頓珍漢なことを言っているのだと思います。たとえ語っているのがハイデガーだとしてもです。
>「死は現存在の終わりとしておのれの終わりへとかかわるこの存在者の内で存在している。」
「死」を「現存在の終わり」と規定しているけれど、「現存在の終わり」をどのように把握しているのでしょうか? どう考えてもそのことに関する直観は得られないと思います。
「‥‥この存在者の内で存在している。」とありますが、「この存在者」とはいったい何を指すのでしょうか?
現存在はおろか、死そのものも生そのものも存在者ではない、と言うのが私の考えです。
強いて言うならそれ以外に方法はないわけです。
おそらく存在者を存在者たらしめているものを考える糸口がそこにあるのではないでしょうか。
「生きる側の作用」というものを存在者として抽出できますか?