ほとんどの人は失恋の1回や2回は経験していると思う。平和な社会に育った人にとって、失恋ほどつらい体験はそれほどあるものではない。悲嘆にくれ、自分を全否定されたほど落ち込んでしまい、生きる気力を無くしてしまいそうになる。そういう時に、自分が相手を好きになったほど相手も同じほど自分を好きになる、というふうな仕組みに世界がなっていたらどんなにか良かっただろう、と思ったことがある。現実はそうはなっていない。なぜか?
このことについて西洋では、世界は超越的な意志(つまり、神)によって創造されたという考えが主流である。だからこの世のすみずみまで神の理性(ロゴス)が行き渡っているとみる。一見この世界は不条理に見えても、すべてを神様が見ていて下さって必ず(あの世で)帳尻合わせをしてくれるのである。
そういう考え方は東洋にもあって、死んだら閻魔大王の決裁によって極楽行きか地獄行きに振り分けられる、というようなことを子供の時分に教えられた人が多いと思う。しかし、それは本来の仏教的な考え方ではなく、いわゆる方便として伝えられたものである。仏教では超越的な神というものを考えない。たぶんこの世界は偶然できたものであるとする。「偶然」というのは、なんらかの意志によって意図的に計画されたものではないということである。だから、この世界は人間のご都合に合わせて設計されているわけではない、つまりこの世界が不条理であるのはある意味当然なのである。
仏教における無常観というのもこの偶然というところから出てくるのである。キリスト教世界ではすべてが神さまの思し召しであるが、仏教においてはそのような超自然的な存在はないので、われわれの運命を差配するものは何もないのである。つまり、われわれの運命を保障するものは何もないということになる。そこに実存的な不安がある、それが無常観である。
キリスト教を信じることが出来る人、それはそれで幸せである。神の意志に従って善根を積めば、必ず報われることが保証されているからそこには何の不安もない。信仰深い人は迷いのない力強い一生を過ごすことが出来る。では、神さまのいない仏教徒はどうすればよいのか? せっかく良いことをしても神様が見てくれているわけではない。なんの報酬もなく働けと言われているようで、なんか損するような気がする。確か、仏教においても因果応報とか善因善果と言っていたのではないのか? 多分それは方便として言われているような気がする。残念ながら神さまがいない以上、仏教には契約関係における因果応報というようなものはありえない。将来的な見返りが有ろうとなかろうと、善いことをしなさいと言うのが釈尊の教えである。
そういう意味では、仏教は性善説と言える。困っている人がいたら助けてあげたくなる、それが「慈悲」、現代語でいうところの「愛」である。助けてあげて、その人が幸せになったら自分まで幸せな気分になる。それが仏教本来の因果応報、善因善果である。将来の見返りを期待して善行を施すというのは、仏教的見地から言えば、単なるビジネスでしかない。私たちにはこの世界をあるがままに受け入れなくてはならない。「世界はかくあるべし」とこの世界に自分の恣意を押し付けることは出来ないのである。
美しい女性を好きになったら、その人に自分を好きになって欲しいと願うのは当然のことである。なんとか自分のことを振り返ってもらうために、スポーツを一生懸命やって格好いいスタイルになるとか、勉強を一生懸命して一流大学に入るとか、一生懸命働いて大金持ちになるとか、そういう努力をするのもいいだろう。しかし、どんなに頑張ってみても、その人が自分以外の人を好きになってしまうということがある。どれほど好きであってもあきらめなければならないことと云うのはあるのである。人は現実を受け入れなくてはならない。「自分はこれほどあの人を好きなのだから絶対あきらめることはできない」というのは執着に他ならない。執着が煩悩を生むのである。
「世界をあるがまま受け入れる」とは無常の理を知るということである。「この世界が不条理」であるのは自分の恣意的な価値観を世界に押し付けているからである。世界が無常であるということを骨の髄から理解した時、その不条理は解消され、この世界の絶妙さを理解することが出来るのである。考えてみれば、それほど人を好きになれることができたこと、そのこと自体が素晴らしいことに違いないのである。私たちはそういう世界に生きていることに気づくべきだと思う。