「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、天才哲学者ウィトゲンシュタインが生前著した唯一の哲学書「論理哲学論考」の結びの言葉である。なんとなく格好いいので哲学愛好家にはよく知られているが、なかなかその真意というのは分かりにくい。
ウィトゲンシュタインは「我々は論理に従ってしか考えることはできない」と言う。非論理的なことは考えることも想像することもできないというのである。というのを聞いて、「いや、俺なんかいつも非論理的なことを考えているぞ。」と言う人もいるかもしれないが、哲学者の言う「論理」というのは日常語と少しニュアンスが違う。ここで言う論理に背いて考えるというのは矛盾のあることを考えたり思い浮かべたりすることを意味する。
例えば、「円い三角」を思い浮かべることができるだろうか? 鈴木君と山本君が一緒に家に遊びに来たら訪問者は2人である、決して1人しか来ていないと考えることはできない。ソクラテスが人であり、かつ人は必ず死ぬということを信じているなら、あなたはもはやソクラテスが永遠に生き続けると考えることはできないはずだ。
以上のようなことを指して、人の思考は論理に支配されていると言うのである。「豚が空を飛ぶ」とか「太陽が西から昇る」というようなことは非現実ではあるが非論理的というわけではない。頭に思い浮かべることができるようなことは、奇跡的ではあるが絶対不可能というわけではないのである。大隕石が地球と衝突したために、地球の自転の方向が逆向きになれば太陽は西から昇ることも考えられるが、「円い三角」は絶対実現しそうにない。
人間が論理に反して考えられないのであれば、どうして間違ってばかりいるのだろうという疑問がわく。それはおそらく我々が言語を媒介にして思考するからに違いない。お父さんとお母さんから飴玉を一つずつもらえば、私の飴玉は必ず2つあると認識する。「1+1=2 」は必然である。しかし、私達は「1+1=1 」と書き間違えてしまうことはよくある。私達は円い三角を認識できないにもかかわらず。「円い三角がある。」と言葉にはできる。
私達は論理に従ってしか考えることはできないが、言語を誤用することがある。ウィトゲンシュタインは哲学上の問題のほとんどが言語の誤用によるものだと考え、「論理哲学論考」によって哲学上の問題は本質的にすべて解決されたとして、彼自身が本当に一時は哲学をやめてしまった。後に自ら「論考」の誤りを認めて哲学を再開するが、その「論考」は多くの哲学者に今も影響を与え着続けている。
「語りえぬもの」とは言葉の誤用を指すのであろう。具体的にどのようなものかについて考えてみよう。「命題」というのは言語や式によって表した一つの判断の内容のことである。その判断内容が意味あるものであるためには必ず真または偽となるものでなくてはならない。哲学上の言葉が有意味でなくてはならないのは言うまでもない話である。
【 宇宙には始まりがある 】
上記の文は有意味な命題であると言えるだろうか? そう言えるためにはその内容が真偽判定できるものでなくてはならない。宇宙がある時点で始まったとしたら真であると言えるのは間違いない。しかし、問題はどういう事態を観測すれば『宇宙が始まった』と言えるかということである。その命題の意味を理解しているということは、その命題の真偽条件を知っているということでなくてはならないはずである。もし発話者が、なにをもって宇宙の始まりとするかを知っていなければ、「宇宙には始まりがある」という言葉の意味を彼自身が分かっていないことになる。
一見有意味であるように見えながら、実は誰もその言葉の意味を理解していないということがあるのである。仏教においては経験の到達し得ない形而上の問題には言及しないという原則がある。いわゆる『無記』である。「語りえぬものについては沈黙すべし」というのはそういう意味だと思う。
この世界はあくまで具体的かつ明晰である。( 大雄山最乗寺にて )
丘沢静也さんなども、そのように訳していたかと記憶しています。私自身はどちらでもよいと考えています。
そもそも語ることができないはずのことが語られている、という観点からすれば「沈黙すべし」もありかなと思います。
「語っているつもりかもしれないけれど、実は語れていないよ。」というニュアンスでとらえるなら、「沈黙するしかない」となりますね。