禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的時間論

2014-02-08 08:44:41 | 哲学

以前、「百丈野鴨子」と言う記事では、パリもニューヨークも実質をもたず単なる記号でしかなく、空間的位置概念は空であると述べた。今回は時間をとり上げたい。

まず、1憶年の時間というものを想いうかべてみよう。一億年前は恐竜の全盛期であることが知られているが、そういう知識抜きに一億年前あるいは一億年の時間の長さというものが想起できるだろうか?
次に、一万年ならどうだろう? もし、それらを想起したら比較してみよう。
比較できるだろうか? できないはずだ。歴史的知識がなければ一億年も一万年も空疎なものとなる。一億年は一万年の一万倍も長いのに等しく空疎である。

もし年表的知識というものを排除すれば、一億年も一万年も我々にとっては同じことであるということが理解していただけるだろうか。

一億年とか一万年というのは我々の経験を超越しているから想起できないが、一年とか一時間という経験内の時間なら想起できる、と言い分もありえると思う。

そうだろうか? 時間というのは主観的には早く過ぎ去ったり、異常に長く感じることがある。なぜだろう?

言えることは、なにか目安になるものがなければ我々は正確に時間の経過を決して知ることはできないということだ。

私は今までに全身麻酔の手術を2度経験している。笑気ガスのマスクをあてがわれると2、3秒で意識がなくなる。そして次の瞬間、手術台の照明が見えてきたときにはすでに手術が終わっていた。その間の時間の経過というものは全然分からなかった。

「時間は流れる」とはよく言われるが、我々が時間そのものを見ることはない。手術を終えた私が経過した時間を知るには時計を見るしかない。時間が流れた証跡は時計にしかないのである。つまり私は時間が流れた跡を直接見ることはできない、時計の動いた跡を見るのである。よくよく反省するならば、我々は時計の動きそのものを時間と称しているのである。

時間という概念が生じるのはおそらくいろんなプロセスが同期するからに違いない。一定の長さの振り子の振動を単位にすれば、あらゆるプロセスを時間という量的なものに換算できる。その意味で時間概念は有効であり、「時間」は存在すると言っても良いかもしれない。しかし、そこから純粋な時間を抽出しようとしても決してできない。結局我々は時計の運動そのものを時間と同一視することになってしまうのである。

あなたが亜光速のロケットに乗って宇宙旅行したとする。そして一年間経過して、地球に戻って来たときはウラシマ効果ですでに地球上では5年間経過していたならば、あなたはもとの世界から4年後の未来の世界に行ってしまった、と言えるだろうか?

あなたは決して未来の世界に行ったわけではない。亜光速で飛行しながらも、その間ずっとあなたは地球にいる私たちと同じ世界にいたのである。この間、私たちは同じ世界にいながら共通の時間流というものは存在しなかったということに注目したい。ただ、高速で飛行する宇宙船の中ではあらゆるプロセスがゆっくり進む。私たちはプロセス(例えば時計の運動)の進行そのものを時間とみなしているから、宇宙船の中の「時間は遅れる」と表現するのである。

どのように我々の周りを見回しても「時間」を見つけることはできない。結局、我々はいろいろなプロセスの結果を時間の証跡であると見做しているだけであるということが分かる。

過去はイベントの記憶の集積であり、未来は逆に起こり得るイベントの想像である。決して過去の世界や未来の世界は実在しない、すべては今ここで記憶や想像を想起しているだけのことである。

つまり、時間も過去も未来もすべて記号で成り立っているということなのだ。それゆえ、概念を弄ばない禅者にとって時間は空であり、過去や未来もまた空である。だから禅者は「今とここしかない」というのである。

物理的時間は「未来から過去に流れる」という見方と「過去から未来に流れる」という見方の2通りの説があるようだ。いずれにしても、幅の無い点である現在が過去と未来にはさまれている構造になっており、現在という点は過去から未来の方向に絶えず移動している。

ロケットを飛ばすための計算をするにはそれで十分であるが、我々の実感とは大きくかけ離れている。

数直線モデルの時間軸では、現在が現在である時間は0である。現在は「時間を経ないで」過去になってしまうのである。

私の好きなベートーベンの交響曲第5番は、誰もが知っているあの「ジャジャジャジャーン」で始まる。しかし時間が物理学的時間であると考えてしまうと名曲もじっくり聴いておれなくなる。時間が過去・現在・未来で成り立っているとすれば、2番目の「ジャ」がなっている時は既に最初の「ジャ」は過去の音になっている。つまり、この「ジャジャジャジャーン」という一連の音は私たちの記憶の中で鳴っているとしか考えられなくなってしまう。その記憶を想起するのだって時間の中で行うわけであるから、最初の「ジャ」を想起している時にはまだ2番目の「ジャ」は想起できないし、2番目の「ジャ」を想起している時には最初の「ジャ」の想起は過ぎ去ってしまう。

ここはひとつ、是非実際にレコードをかけて聴いてもらいたい。実際に聴いてみれば、「ジャジャジャジャーン」がそれは記憶などではないことがはっきりとわかるはずだ。この臨場ということが禅でいう「ただ今」ということである。

禅では「恁麼(いんも)」という言葉をよく使う。「このように」というような意味である。ものごとはすべて恁麼であるとしか言いようがないというのが結論である。つまり、見たとおり聴いたとおりだということである。「ジャジャジャジャーン」は畢竟「ジャジャジャジャーン」でしかない。それは実際に聞けばわかることであり、実は誰もが了解していることでもある。

何も説明になってないではないか? といわれればその通りである。禅ではこのようなことを説明したりはしない。既に了解済みのことであるからである。しかし、了解済みであることを自覚するのが難しい。そこで、禅的哲学では、説明が不要であることをくどくどと説明することになるのである。

 

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