このブログの冒頭の「禅的直観と論理世界」という記事の中で、私は次のように述べた。
≪ 現実はあくまで現実であり、この「当たり前の世界」以外に我々が受け入れるべき世界は無い ≫
「柳は緑花は紅」というのは、この世界が当たり前であることを意味する。この当たり前の世界を受け入れることを「あるがまま」というのである。今回はこの「あるがまま」を抹香くさくなく、論理的に説明したい。
私たちは日常的なこの世界の中に、時として看過できない非日常性を見出す。常識的だとばかり思っていたこの世界が全然常識的でないことに気付く。あらためて、この世界の無根拠性に気がついて驚くのである。そういうところから哲学が生じてくるのだと思う。
だから哲学者というのは時々とてつもないことを言いだすのである。
「この世界は過去の記憶とともに5分前に創られた。」
「この世界はブラフマンの見ている夢である。」
もともと世界は無根拠(たとえ根拠があったとしても、我々には認識できない)であるから、矛盾のない理論はいくらでも作ることができる。
仏教においても、一旦はこの世界を否定する。それが「色即是空」ということである。この世界は無根拠であり、我らがすがるべき絶対性というものはどこにもないということである。
だから、「この世界は5分前に創られたんだよ」と言われても、我々は反論できない。
しかし、どうだろう。一切皆空というなら、五分前世界創造説もまた空でしかない。世界の無根拠性に対する不安もまた空であるはずだ。
世界の無根拠性に対する不安は「考える」ことから生まれるのである。本来我々の思考は、有りうべき現実に対処するためのものである。そもそも哲学にしても、本来はこのありありとした現実を説明するために思考を進めていったのではなかったのか? その結果、このありありとした現実を否定するような結果を導き出しているのなら、なにかが転倒していると言わざるを得ない。
ひょっとしたら、この世界は5分前につくられたものかもしれない。もしかしたら、この世界はブラフマンの見ている夢かもしれない。しかし、いずれにしろ我々はこの「現実」を生きるしか方途はないのである。
世界の無根拠性に気づいた時、我々のとるべき態度は三つある。
①そのことを忘れ、気がつかなかったことにする。
②そのことを儚く思い不安の中で暮らす。
③無根拠性の上に成立しているこの世界の奇跡性に感謝する。
③が仏教の選んだ道であり、この奇跡性を「妙」と呼ぶ。仏教は一旦この世界を否定はしても、最終的には肯定するのである。それが「あるがまま」を受け入れるということである。
「妙」はこの世界の積極的評価であるが、この世界はやはり無根拠なのである。仏教は、現実の中において我々は何らかの絶対性に守られているわけではない、とも教える。それが無常ということである。
だから、10秒後に富士山が大爆発して、日本全体が大津波に襲われて阿鼻叫喚地獄となったとしても、我々に文句を言う権利はない。我々はさながら無常の大海に漂う木の葉の上の蟻のような存在である。現実にはそのような理不尽もある。それでも現実は現実として積極的に受け入れていかなくてはならないのである。
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