人は、言葉には客観的な世界の秩序が反映されていると思いがちである。「犬」や「猫」という言葉には、当然それにふさわしい対象が客観的に存在すると思っているのである。しかし現代言語学ではそのような考えは否定される。
「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(ソシュール『一般言語学講義』)
つまり、「犬」という言葉は、この世界を「犬」と「犬以外」の領域に分節するだけだと言っているのである。しかもその領域を分ける境界は(その時々の関心や意識などの)観点によって恣意的に設けられるとまで言う。これは仏教でいう析空観そのものと言っても良い。龍樹はこのことをソシュールに先立つこと千七百年前から知っていた。海や山と呼ばれるものが世界にもともとあるのではない。わたしたち自身が、わたしたちの関心に応じて、世界を海や山という言葉で分節しているのである。
ちなみに、日本一低い山をご存じだろうか。仙台にある日和山という山で標高3mだそうだ。二番目が大阪の天保山で、こちらは4.53m。ちなみに2011年までは天保山が第一位だったのが、東日本大震災の津波で削られたため日和山の方が低くなったらしい。このような話を聞くと、「うちの裏庭の盛り土の方が低い」と言いたくなる御仁もいるのではなかろうか。山と盛り土を区別する境界というものは客観的には存在しないのである。
私達は無意識のうちに世界の中の差異からパターンを読み取り、分類し抽象概念を作り出す。これを分別という。その分別を一旦停止してみる。それが空観である。空観を通して、分別というものが本質的に恣意的であることを免れ得ないと知るのである。それを無分別智とか無差別智と言う。
「山は山に非ず、これを山と名づく」
というのはそういうことである。
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