「誰も知らない世界のことわざ」(エラ・フランシス・サンダース著)より引用します。
≪カラスが飛び去るから梨が落ちる? それとも、梨が落ちるせいでカラスが飛び去る? このことわざは、いかにも関係がありそうな2つのことがらの間に、必ずしも因果関係があるわけではないことを表しています。けれども、2つのことが同時に起きるとき、私たちの頭の中では、気軽に「意味あり」と結びつけられてしまうのです。関係性の判断ミスは、経済や政治、それに哲学の上では大問題。哲学では、このことにapophenia(アポフェニア)≫という洒落た名前をつけています。一言で言えば、私たち人間には、意味のない情報から、意味のあるパターンを見出そうとする傾向があるのです。≫
[カラスが飛び立った時に梨が落ちる確率] が [カラスが飛び立たない時に梨が落ちる確率] より大きい場合には、「カラスが飛び立つ」ことと「梨が落ちる」ことの間になんらかの因果関係があると考えられる。しかし、このことわざはそういう統計情報に基づいた話ではなく、近接した事象を関係づけたがる我々の傾向性を指摘しているのだろう。
「アポフェニア」を検索してみると、「無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用のことである。」という意味らしい。「無意味なノイズや偶然の存在を信じてしまうこと」という説明もあり、どちらかと言うとネガティブなニュアンスがある。
しかし、われわれに与えられる情報というのは、もともとすべて無作為で無意味なのではなかろうか? アポフェニアというのは、視覚で言えばゲシュタルトを模索する操作に相当するものだろう。
ルビンの壺の図というのはご存知だと思う。見方によって壺に見えたり、向かい合っている人の顔に見えたりする。どちらが正しいという根拠を持つわけではない。この図形を見ることを通してわかるのは、われわれが無意識のうちに全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、まとまりのある構造として見ようとしていることである。それがなければ私たちの視野はカオスになってしまい、ものを視認することができなくなってしまうだろう。
それと同様に、もしアポフィニアというものがなければ、われわれは因果関係というものに実感を持てないような気がするのだがどうだろうか? 我々はこの世界の事象について思考を巡らせる場合には、すでに無根拠ななんらかの文脈に拘束されていると見るべきだろう。また、そうでなければ我々はこの世界を解釈できなくなってしまうだろう。
※(公案解説はこちらを参照 ==> 「公案インデックス」)
カラスが飛び去るから梨が落ちる、これは前提
その対偶は
梨が落ちないのは、カラスが飛び去らないからだ。う~ん、これはおかしいので偽かな?
もう一つ
梨が落ちるせいでカラスが飛び去る。これは前提
その対偶は
カラスが飛び去らないのは梨が落ちないせいである。
これは全くおかしいので偽である。
結果、どちらもおかしな文章である。
私は善とは、正しいとはを探求しているものです、良ければブログを見てください。
コメントを、ありがとうございます。
日常言語の接続詞を使うと意味があいまいになりますね。
原命題 : (カラスが飛び去る) → (梨が落ちる)
対偶 : (梨が落ちない) → (カラスが飛び去らない)
でよいのではないでしょうか。
もともと偽ですね。