私たちは通常、「お金が無い」とか「恋人がいない」とか言う。なにかの対象物があることを期待して、その期待が満たされない時に「無い」というのである。この我々が普通に使っている「無」は「有」に対するものとして、「相対無」と呼ばれているらしい。
「相対無」と言うからには「絶対無」という概念がある。これは西田幾多郎の造語である。西田はこの概念を説明するために、
「どこまでも述語となって主語とならないもの」
と表現している。今回はこの絶対無をとり上げてみたい。
これは、アリストテレスが実体としての「個物」を示すための「主語となって、述語にはなりえないもの」という表現を逆転させたものである。
「アリストテレスは哲学者である。」という文の主語であるアリストテレスは述語にはならない、だからアリストテレスは個物であるというのだ。
いや、「ギリシャ第一の論理学者はアリストテレスだ」という文では述語になっているではないか言うかもしれないが、意味上の特殊と一般の関係について言っているのであって、当該の文は意味的には「アリストテレスはギリシャ第一の論理学者だ。」ということであり、やはりアリストテレスが主語である。
では、「どこまでも述語となって主語とならないもの」というのはなにを指しているのだろうか。
「アリストテレスは哲学者である。」、「哲学者は学者である。」、「学者は人間である。」、「人間は動物である」‥‥‥ という方向性の究極にそれがある、と西田は言っているのである。
つまり究極の一般性である。そこにはいかなる限定もない。ということはいかなる性質も帯びていない、いかなるものでもないということである。
こう言ってしまうと簡単だが、これはかなり厄介な話である。「いかなるものでもないもの」という表現自体がパラドックスになっているからである。「いかなるものでもないもの」とはいかなる表現もできないものである。それは何の性質も帯びていないから、私たちは認識できない。それを「いかなるものでもないもの」と対象化したつもりになった時点で、それは別のものに変質しているのである。
このことは禅の公案によく似ている。瓢鯰図という絵が京都の妙心寺に伝えられている。瓢箪で鯰を捕まえようとしている様子を描いたものだが、瓢箪で鯰をいくら押さえつけてもぬらりくらりとすりぬけてしまう、そういう絵である。禅の修行者は砂をかむような思いで坐禅をしながら、常に対象化し得ないものを追い求めているのである。
「どこまでも述語となって主語とならないもの」というのは理解しにくい表現だが、対象化し得ないものを表現するには、回りくどい極限概念によって指し示すしかないのである。
(つづく)
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