こんにちは。
『桃林』『スタジオ』『遺跡発掘』『道路標識』と過去に経験した職場のことを書いて来ましたが今日は番外編。
1995年1月から10月までの10ヶ月間、『新聞配達』のバイトをしていました。
この頃は『桃林』と(居酒屋“つぼ八”もやってたっけな?)と掛け持ちで働いていてさ。
ルーマニアとブルガリアを旅するため、兎に角、お金を貯めたくてさ。
近くの朝日新聞へ行って即採用。と言うか面接をしたんだろうけど記憶にない。
初勤務の前日の昼間(朝刊と夕刊の配達の間のヒマな時間)に先輩職員と一緒に回り、順路を教わる。
そして翌早朝2時に配達所に行って一人で配達開始!
(拾い画像)
この順路帳と言うものを見ながら、(配達する道順と、どの家になに新聞を入れるかを確認)配達するのだが、昼間に教わって何となく覚えても深夜は真っ暗なので、昼間に目印にしていたものが見えなかったりする。
ちなみに上のは『ハム=はす向かい』『ト=となり』『経=経済新聞』『ア=朝日新聞』『ス=スポーツ新聞』とかそんな略語です。
途中で分からなくなって公衆電話から(当時は携帯電話がない)配達所に電話しても、みんな配達に出ているから誰もいないし、途方に暮れても兎に角、配達しなくちゃいけないから、間違っていても最後まで配り切った記憶があります。
ボクは自転車で200~240部の朝刊&スポーツ新聞を配達していたんだれど。
配達にかかる時間は2時間~3時間くらい。
新聞広告のない日や選挙の翌日は新聞が薄いので燃料(新聞)補給のためにピット(配達所)に1回戻れば良いのだが、新聞広告が大量にある日は何度もピットに戻らないといけないので時間がかかった。
雪の朝は手足の指先が凍傷になって、もの凄く辛かったけれど…やっぱり一番大変なのは雨の日だった。
1回の配達が終わると体重が2~3kgは減っていたのでかなりの重労働だったと思う。
自転車で配達していたのも辛かったけれど良い想い出。
休刊日以外は1日も休まなかったから肉体的にも精神的にもタフになれた期間だったと思う。
10月に入りルーマニアとブルガリアに旅することが決まり、『新聞配達』を辞めることを伝えると配達所の人達に『戻って来たらまた頑張ろうよ。ここでフルに働けば10年で家が建つよ。』と言われたのも懐かしい。
そうそう。トップの写真ね。(新聞配達をしていた時の写真はない。多分。)
その頃は『桃林』でバイトをした後、UNO君やH氏と朝方まで遊んでそのまま『新聞配達』に行っていたんだけれど。
夜な夜なカード・ゲームをやっては罰ゲームで大量の水を一気飲みする遊びがあってw。
ビール(アルコール)なら大量に飲めるのに、水を大量に飲むって思った以上に過酷なことで。
動けないくらい腹(膀胱)がパンパンになる訳です。
大変なのはその後で、配達中に尿意がかなり頻繁に来るのでまぁ…ねw。
これは11月29日の職場の最寄駅付近。
今日から12月ですね。
今月もしっかりと目標を持って頑張らなきゃ。
ケセラセラ☆