ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

トールキンが「指輪物語」の中で描いた「キリスト教的なもの」

2004年10月07日 | 指輪物語&トールキン

今日の写真は、モーダレンカレッジのルイスの部屋があったニュービルディングの裏側です。アディソン遊歩道から撮りました。

さて、今日も原作の話です。
私が初めて「指輪物語」を読んだ時は、トールキンがかなり熱心なカトリック教徒だという事実は知りませんでした。知らずに読んで、最初の印象からは、特にキリスト教的なものは感じませんでした。むしろ、ヴァラールの存在でわかるように、多神教の、異教的な雰囲気を感じていました。
登場人物たちの、少々浮世離れしているかもしれない清廉潔白なところや、深い思いやりの精神なども、宗教的には感じず、一般的な道徳的?な考え方によるものだと思いました。実際、キリスト教徒ならぬ私自身がその登場人物たちに感動したのですから。
なので、トールキンのカトリックへの妄執的とまでいえる(!?)こだわりを知った時はかなりびっくりしてしまったものです。
トールキンとカトリックの関係(?)を知ってから改めて読むと、なるほど、「指輪物語」の中にはキリスト教精神が貫かれているなあ、というのが納得されたのですが。
でも、だからと言ってマーク・エディ・スミス著「指輪物語の真実」のように、無理やり聖書の教えと「指輪」の中のエピソードを結び付けられて解釈されてしまうと、やっぱり非キリスト教徒な私は違和感というか、反発を覚えてしまうのですが・・・
思うに、「寓意」を嫌ったトールキンは、自らのキリスト教徒としての宗教観をそのまま表すのは嫌ったのではないかと思います。もちろん、自分の作品を通して、キリスト教の精神を説こうとするなんてもってのほか、だったのではないかと想像されます。
トールキンがC.S.ルイスが書いた「ナルニア国ものがたり」を気に入らなかったという理由もなんとなくわかります。実は私自身、あまりにもキリスト教よりすぎて、ちょっと引いてしまうんですよね(汗)アスラン=イエス・キリスト、という構図が、比喩でもなんでもなくてそのままだった、とわかったあたりから・・・(汗)
それでも、もちろんトールキンもキリスト教的なものを「指輪」の中で書いていると思いますが、それはキリスト教徒ではない私にも美しいと思えるものでした。
例えば、私は物語の中で、登場人物たちが何か大いなる存在に導かれているような感じを受けます。特にサムがそうなのですが・・・
「王の帰還」終盤のサムは、それまでの素朴なホビットからは考えられなかったような力を見せます。それは、サム自身が持っていた資質が姿を現した、とも考えられますが、私には、サムは「何か」に導かれているように思えました。
オークの塔で、絶望的な状況にいるにもかかわらず、サムの口をついて出た、西の国の春の歌。夜空に輝くエアレンディルの光を目にして、全ての苦悩を一時は忘れて心安らかに眠ることができたこと。サムがガラドリエルに「光と水を」と願ったら本当に水に出会い、空が少し明るくなったこと。
私にはこういうことが、サムが何者かに見守られている証のように思えるのです。
もしかしたら、見守られていたのはサムではなく、サムが助けなければならなかったフロドなのかもしれませんが・・・いや、両方なのかも。
ひとつ間違えばご都合主義の偶然になりかねないこういったことが、不思議と美しく思えるのは、もしかしたら神を信じていたトールキンだからこそなのかもしれない、と最近は思っています。
そして、サムが最後までやり通せたのは、サムが何者かに見守られていたからだ、と思うことは、「サムが偉かったからやり通せたのだ」という、「サム英雄説」(!?)に対する私の違和感も説明してくれるような気がします。
こうして考えると、「指輪物語」が、影響を受けた後続のファンタジーと決定的に違う点もまた、キリスト教的な視点にあるのかな、と思えたりもします。
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「指輪物語」の「友情と信頼」

2004年10月06日 | 指輪物語&トールキン


今日の写真から昨年8月のイギリス旅行のものになります。これはThe Eagle and Childのインクリングスの溜まり場だったRabbit Roomの中の装飾です。トールキンやC.S.ルイスの写真、インクリングスのメンバーの直筆サインなども。写真が小さくてごめんなさいですが・・・(goo blogでアップロードできるのはこの程度の大きさが限度なのです・・・)
左上のサインではトールキンのサインは一番下のものてす。(下から三番目にはクリストファー氏の名前も)右下のランプの下は若い頃のトールキンの写真、左下の右下の写真の左側は大学のロープを着たトールキンです。

さて、話がどうも一日おきになってるような感がありますが(汗)再びPJ映画と原作の違いの話です。
私がRotKを初めて見た時に感じた微妙な違和感の大もとは、何度か書いてもいるのですが、「なんだか安っぽくなった」というものでした。
どうしてそうなのか・・・色々理由はあると思います。ペレンノール野の戦いがなんだか冗談のようなものになってしまったこと、サウロンの目があまりにもわかりやすい形になっていたこと(汗)そんなことも原因にあったと思います。
でも、一番の理由は(私にとって、ですが・・・)RotKに至って、この物語の最も大きい主題が「友情と信頼」であるかのような結論に収束してしまったから、だったのではないかと思います。
原作を読んでいない人たちのRotKを見終わっての感想をあちこちでみかけましたが、どうも「友情と信頼の物語だと思った」という人が多かったように思えて、違和感を感じていました。知り合いの人にも一言感想を求めたら「友情っていいね、と思わされた」と言っていました。
これは、一昨日の日記に書いた、「皆が主人公」という考え方と通じるものがあると思うのですが・・・
「友情と信頼」というのは、確かに原作の「指輪物語」の中でも大切な要素だと思います。実を言えば、私が「指輪物語」の中で一番好きな部分でもあります。
なのに、それが前面に押し出されている映画のどこがいけないのか・・・ということに、自分でもすぐには答えを出せないでいました。
でも、今はその答えを掴んだような気がしています。
私が原作を初めて読み終えて感じた感想は、少なくとも「友情っていいね」ではありませんでした。一番の衝撃は、やはり指輪の棄てられ方、そしてフロドが中つ国を去ってしまうという辛い事実でした。
それから、ガンダルフやエルフたちが去って行くという、物悲しさ。一回目ではまだよく理解できていない部分も多かったのですが、よくわからないながらも、物語全体に通奏低音のように流れる物悲しさ、というものに惹かれていました。そういう世界観の中で「友情と信頼」が描かれていたからこそ、心を動かされたのではないかと思うのです。
FotRにはそれが確かにあったし、TTT前半にもまだ残っていたように思います。それがTTT後半から「あれ?」という方向に転がってしまい、最終的にあのRotKになった、という印象があります。
映画でも「黒門開く」のあたりは、サントラが好きなのもあって(汗)よく泣かされたりして、好きな面もあります。
でも一方で、アラゴルンの檄とか、「For Frodo」とかはまだいいんですが(でもちょっとやり過ぎな気がするし、実はこのあたりには感動はしません(汗))、アラゴルンがトロルに踏み潰されそうになるあたりになるともう「・・・・・・」ですね(汗)
「指輪物語」の中で、「友情と信頼」は大切な要素だけれど、唯一の主題ではないし、最大の主題でもない。むしろ一番分かり易くて(だから最初に惹かれる部分でもあったのですが)、一番浅い主題なのではないかと思うのです。それを前面に押し出したことで、物語の核が違う方向に行ってしまった、そんな気がします。いや、そもそも違う方向に行っていたからこそそうなった、というべきなのでしょうか。
原作未読の人の中でも、(しかも特にファンでない人で)「3作目は子供っぽい感じになってがっかりした」という感想の人がいました。おそらく、私がなんとなく感じたことと同じことを感じていたのではないかな、なんて想像しました。そういう意味では、私も原作を読んでいなかったとしても同じように感じていたような気かします。
そして、私が一番衝撃を受けた、指輪の棄てられ方と、灰色港からの旅立ちについて、原作未読の人はどう思ったのかな、ととても興味があったのですが、驚くくらいそういう感想をみかけませんでした。
灰色港は、まあわかりづらいから仕方ないかな、と思うのですが、指輪がゴラムによって棄てられるという結果についての感想がとくにみあたらないという事実に、映画ではどうも指輪の棄却は「友情と信頼」ほどには印象に残らなかったのかな、と思ってしまいました。
レンバス事件などを作って、フロドとサムとゴラムの関係をあんなに分かり易く描いておいて、最終的な指輪の棄却というクライマックスにインパクトを与えられなかったのだとしたら、これは大失敗なんじゃあないでしょうか・・・(汗)
映画は原作と別物、というのはどうしても仕方ないことだと思います。でも、おそらく、映画しか見ていない人にとって、「指輪物語」は原作とはかなり違う印象になってしまっているでしょう。そして、映画だけ見た人の方が原作を読んだ人よりも圧倒的に多いという事実を考えると、やっぱり深刻な問題だよなあ、と思ってしまうのでした。
・・・とか言いながらも、DVD見れば泣くんですけどね(笑)自分が見る分には、脳内補完・脳内変換で好きなように解釈して見られてしまいますので・・・
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LotRサントラ特集号よりその7 やっぱり「蛾のテーマ」だった!?

2004年10月05日 | 指輪物語&トールキン

今日の写真は指輪サイトの方にupしてる写真のボツになったやつです。山ほど撮ったのですが(笑)upするのはこのくらいでやめとこうかと思います(笑)

さて、相変わらずmusic from the MOVIESのLotRサントラ特集号読み終わりません(汗)フィリッパ・ボウエンズのインタビューが終わり、その後にはディヴィッド・サロ、コーラスの指揮をしたテリー・エドワース、プロデューサーにレコーディングエンジニアに・・・とマニアックな人たちのインタビューが続いています。
ちょっとディヴィッド・サロ氏のインタビューを読み始めましたが、これから延々スタッフのインタビュー読むのも辛いなあと、思い切って飛ばしてRotKのショアとPJのインタビューを先に読んじゃおう、と決意?しました。
それも順番に読むのが待ちきれず(汗)ちょろっと拾い読みしていたら、思わぬ発言に遭遇。
FotRでオルサンクに囚われたガンダルフのところに蛾が飛んでくるシーンで流れる少年のソロのメロディ、私は当初「蛾のテーマ」と呼んでいました。
そのメロディがTTTでも再び出てきたのにはびっくりしましたねー! (「ゴンドールのテーマ」の次くらいにびっくりでした(笑))
このテーマ、メリーとピピンが木々の声を聞く場面と、エントの行進の場面に使われていて、ショアはDVDのコメンタリーでこのテーマを「中つ国の自然と深く結びついたテーマだ」と言っていて、なるほど、という感じでした。
しかし、ひとつ疑問が残っています。このテーマ、ロヒアリムの突撃の場面にも使われているんですよね。それもTTTでもRotKでも。
このことについて、DVDでも明らかにされなかったので、サントラ特集号を楽しみにしていたのですが、TTTのところでは全く触れられてなくて、謎のままでした。
ところが、意外なところでこのテーマのことが語られていたんですね。
「黒門開く」のあの斬新な音楽がどうやって生まれたのかに興味があって拾い読みしていたら、思いがけずこのテーマについての話が出ていました。
黒門前では、またあの蛾が登場しますが、その時にあのテーマが流れます。ショアはこのテーマのことを"Nature Moth Theme"と言ったのです。ええー、それじゃあ「蛾のテーマ」で合ってたの!?(汗)
ショアが言うには、このテーマの本当の名前は"Nature Theme"だけれど、ここでは"Nature Moth Theme"なんだそうです。蛾が登場する時の音楽だから、ですよね。
しかし、ここでも、なんでロヒアリムの場面にこのテーマが使われるかは明かされないままでした。うーん、RotKのコメンタリーでは明らかになるかなあ・・・それともサントラボックスセットに入るらしいDoug Adams氏の本でわかるでしょうか?
それにしても、"Nature Theme"ってまた訳しにくいテーマ名つけてくれたなあ(汗)どうもショアのネーミングセンスにはついて行けないことがままあります(汗)「銀のトランペットのテーマ」もどうかと思うし(汗)「指輪の歴史のテーマ」って誰もそんな呼び方してないよー(汗)
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「指輪物語」の主人公は・・・

2004年10月04日 | 指輪物語&トールキン

今日の写真は、モーダレン・カレッジのアディソン・ウォーク入り口そばの花壇の花です。巨大ネギ坊主あざみが色鮮やかで綺麗です。日本の春も綺麗だと思いますが、また違った色合いのイギリスの春は素敵でしたね。

昨日、某所で「『ロード・オブ・ザ・リング』の主人公は誰なのでしょうか」という質問を見かけて衝撃を受けました・・・(汗)
「皆が主人公だと思うけれど、誰か一人決まった主人公もいるのでしょうか」というものだったのですが、いや、「フロドが主人公」という大前提のもと、「でも皆が主人公とも言えるのでは」というのならわかりますが、この方は本気で「皆が主人公」と思っていたようなのですね(汗)
それに対する答えの中にも、「アラゴルンがもう一方の主人公だと思う」とか・・・
うーん、これPJ映画のかなりの悪影響なのではないでしょうか・・・
原作では、仲間たちが分かれた当初から、常に皆フロドのことを思っていました。角笛城の戦いのあたりからもう、「戦うことでサウロンの目をフロドから逸らす」という考えはもう示されていましたから、アラゴルンは、ゴンドールの復興や人間の世界を救うためと同時に、フロドのためにも戦っていたのですよね。
メリーもピピンも、自分たちのことに必死になりながらも、フロドのことを思っています。メリーが、自分のことで必死になっていてフロドとサムのことを忘れていたことに気づき、「僕はあの二人のことを忘れてた! 僕たちすべての中で一番大事なのに」と思う場面なんかとても好きなのですが。
常に物語の中心にはフロドと指輪の運命があって、登場人物たちはフロドとサムへと思いを向けながら、それぞれに頑張っていたのだと思うのですが・・・
PJ映画ではこのあたりが、おそらくわざとだと思うのですが、TTTラストからRotKでようやく現れ、RotK最後で収束して来ます。映画の見せ方としてそれもまたありかなあとは思いますが、このために「皆が主人公」というイメージができてしまったのなら、困ったことだなあと思います・・・もちろん、「フロドの影が薄い」というのが一番の理由なのでしょうが(汗)
「アラゴルンがもう一方の主人公」という見方もどうなんでしょうか。原作だけ読んでいてそういう印象は、少なくとも私はなかったのですが・・・
原作のアラゴルンは、本来なら英雄物語の主人公になり得る人物なのに、フロドを助けるため、敢えて脇に徹していたような印象があります。偉大な王であるアラゴルンが見せるホビットたちへの思いやりが、原作のアラゴルンの最大の魅力だったと思うのですが・・・(私がホビット贔屓だからかもしれないけど(汗))
という訳で映画の「アラゴルン主人公化計画」にはもううんざりしていた私なんですが(汗)だってそのためにセオデンもデネソールも貶められてしまったのではないんでしょうか・・・セオデンはRotKで挽回したとは言っても・・・
そして、セオデンのことはまあいいとして(汗)やはり問題は、アラゴルンがあまりに主人公然としてしまったために、フロドの影が薄くなってしまったことなのではないでしょうか・・・
映画として作る上で、やむを得ない変更というのはあるでしょう。でも、そのために、原作の「指輪物語」のイメージまでも変えられてしまったのだとしたら、やはり深刻だなあと思うのでした・・・(映画を見てから原作を読んでも、映画のイメージのまま読んでしまう人も結構多いようなので・・・)
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ヨハン・デ・メイ交響曲第一番「指輪物語」を聴いて

2004年10月03日 | 指輪物語&トールキン
今日の写真は、モーダレン・カレッジのホール(食堂)です。ハリポタのロケで有名なクライストチャーチ・カレッジのホールと比べるとかなりこじんまりしてますが(汗)その代わり、観光客が列になってたりしないのがいいかも。(ただし中には入れませんが(汗))

さて、先日ハワード・ショアのインタビューでバルトークが好きだったとか書いてあったのを読んで、「そう言えばオケコン(管弦楽のための協奏曲)のCDがあったなあ」と発掘して(汗)久々に聴いてみました。
で、その後、ふと思い立って、ヨハン・デ・メイの交響曲第一番を聴いてみました。
私が持っているのはロンドン・シンフォニー演奏のオーケストラ版なんですが、一昨年CD店でサントラコーナーにLotRサントラと一緒に置いてあるのを見つけて買いました。
実はこれ、あんまり聴きこんでないんですよね・・・(汗)
最初に聴いた時に思ったのは、なんだか妙にテンションが高いというか派手だなあ、というものでした(汗)
その後、もともと吹奏楽の作品なのだと知って納得。言われてみればそんな感じです。
しかし、なんだか今ひとつ惹かれるものがなく(汗)何度も聞き込んだりしないまま現在に至っていました。
久々にまた聴きなおしてみましたが、やはりあまり印象が変わるものではありませんでした(汗)
一番違和感を感じるのは、モチーフとして描かれているガンダルフにしろロスロリアンにしろゴラムにしろホビットにしろ、なんだかとても表層的なイメージが表現されているだけに思えるのですね。
冒頭から出てくる輝かしいガンダルフのテーマはカッコイイですが、あまりに輝かしすぎて、今ひとつ私の持つガンダルフのイメージと重なりません。強いて言えば、バクシアニメのポスターのガンダルフっぽいかな?
第一楽章に出てくる飛蔭のモチーフも、なんかただの速い馬って感じ(汗)
第三楽章のゴラムは、不気味な部分、コミカルな部分しか表現されていなくて、ゴラムの持つ哀しさや恐ろしさまでは表現されていなかったのが不満です・・・
第五楽章に出てくるホビットのダンスの音楽も、かわいいんですが、ただ明るいって感じで、ハワード・ショアが作った、明るいけれどどこか郷愁を感じさせる「ホビット庄のテーマ」には及ばないなあ、とか・・・
とまあ色々物足りないのですが、最後が灰色港で、静かに消えて行くように終わるのはいいなあと思います。「ジャーン!」と終わられると何か違うので・・・(映画のサントラはちょっとそういう終わり方で、やや不満ありなんですが、実は(汗))
でも、もう一度聴きなおす気は起きなくて、その後はまたバルトークのオケコンを聴いてしまいましした(汗)
いや、でもこの曲、吹奏楽としては名曲なんだそうですね。「指輪物語」の曲だということを抜きに、純粋に吹奏楽の曲として聴いたらまたイメージ変わるかもしれませんが(汗)

「指輪物語」に関連する音楽はまだ少ししか持っていないのですが、色々聴いていて、この作品を音楽で表現するのには二つの要素が必要なのだということに気がつきました。
一つは、物語に出てくる登場人物たちの内面を表現する要素。そしてもう一つが、舞台となった中つ国そのものを表現する要素です。
ドナルド・スワンの「THE ROAD GOES EVER ON」に入っている曲は、この一つ目の要素は素晴らしく、どの曲も聴いていて涙が出てしまうほどなのですが、一方で二つ目の要素はほとんど全くなく、ごく普通の音楽、という感じです。この点が、トールキンに諸手を挙げては賞賛はされなかった理由なのだと思います。私はとても好きですけどね。
トールキン・アンサンブルは、逆にこの二つ目の要素、中つ国を表現する要素がとても強くて、聴いたところとても暗く、淡々としているように思えます。(ホビットの歌は除く(汗))けれど、その淡々とした音楽の表現が、「指輪物語」全体に通奏低音のように流れる悲しみを表しているようで、これもまた聴いていて泣けてしまう曲がいくつかあります。灰色港の寂寥感は抜群ですしね。
この他の、プログレバンドのアルバムやロックミュージシャンのアルバムは、「指輪物語を音楽で表現する」というよりは、「指輪物語をモチーフに自分たちの音楽を作る」という感じに思えます。ヨハン・デ・メイの交響曲もこの部類に入るのかもしれません・・・

こうして考えると、ハワード・ショアのLotRサントラは、登場人物たちの内面を音楽で表現し、なおかつ中つ国の様々な文化を音楽で表現することにも成功していると思うので、素晴らしいなあ、と思ってしまいますね。まあ、時間も予算も桁違いに贅沢に使って作られたという点で、他の作品と同列で比べるのはかわいそうかな、というのはありますけど(汗)
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なんで英語が好きになれないのか・・・

2004年10月02日 | 雑記
最近LotRコンサート関連でスペイン語のサイトを読む機会があって、結構ハマってます(笑)
スペイン語は昔から好きで、一時は中級くらいまで勉強したこともありました。まあ、所詮は語学音痴なので(汗)全くモノにはなっていませんが・・・
そもそもスペイン語勉強するのをやめたのも、中級コースが終わってしまって、これからつづけるには上級コースに入るしかないんだけど、とても上級でやって行けるほどのレベルにはなってなかったからなんですよね・・・(汗)
とまあそんなレベルなんですが、一応コンサート情報をなんとか読み取るくらいはできたので(本当は辞書がないとかなり辛いですが(汗))、やっぱり全く勉強していないフランス語やドイツ語よりはマシかなあと思いました(笑)
しかし意外だったのが、英語サイトはとにかく読むのが面倒で(汗)読もうという気を起こすこと自体に気力がいるのですが、スペイン語サイトは、わからない単語がもっと沢山あるというのに、なんだか読むのが嬉しくて(!?)あんまり苦にならないんですよね・・・
以前から、語学を勉強する気になるきっかけは、やはり必要に迫られてとか、好きなミュージシャンとかスポーツ選手とか俳優さんのためにとか、そういうのが必要なのではないかと思ってました。ところが、トールキンにハマって、LotR映画のサントラにもハマって、英語がかなり必要な状況になったというのに、どうも英会話習おうとか、英語勉強しようとか、そういう気に今ひとつなれないでいました。ちょっとは「勉強しなきゃなあ」と思ってはいるのですが、それは「勉強したい」ではなく、「勉強しなきゃ」なんですよね。
スペイン語も確かに不純な動機で勉強始めた部分もあるのですが(汗)それにしても、もう少し「勉強したい」という感じだったなあと思います。不純な動機が出来る前(笑)からなんとなく好きで、NHKの語学講座見てたりもしましたし。
なぜ英語にはそういう気になれないんでしょうか・・・
ひとつには、やはり学校で無理やり勉強させられた記憶のせいなのかなあ思いますが・・・特に受験勉強かな(汗)でも別にすごく好きでもなかったけど、嫌いではなかったんですけどねえ・・・。
もうひとつ考えられるのは、英語の「世界の共通語」だという部分、「話せて当たり前でしょ」な部分がなんだか気に入らないのかも・・・自分が喋れないから(笑)
しかし、スペイン語と決定的に違うなあと思うのは・・・英語の言葉としての響きに特に魅力を感じていないというのがあるかもしれません。
スペイン語は、なんだか好きなんですよね。聞いていても歌うような抑揚の強いイントネーションとか好きだし。発音が日本人には簡単なので、慣れれば意味がわからなくても音読可能だったりして(汗)意味もわからないスペイン語の文章を音読するのも実は好きだったりします。(でも実は抑揚のはっきりしたスペイン語のイントネーションは日本人には不向きのようですが)
でも、英語は別に発音しても楽しくないし(汗)英語が話されているのを聞いて「いいなあ」と思うこともあんまりないんですよね・・・
そこで思い出すのが、トールキンの語学への興味は言葉の響きや音だったということです。やはり語学を勉強する時は、その言葉自体が好きで、学ぶことが楽しいと思えないと、熱意は持てないのかもしれません・・・
トールキンも最初はスペイン語に似た言語を作っていたりしたようで、外国語としてスペイン語にも興味はあったようです。でもトールキンにはウェールズ語やフィンランド語の方が言葉の響きとして好ましかったようです。
私にはスペイン語の響きの方がいいんだけどな・・・と、これはもう好みの問題なのでしょうが。
そう言えば、「ダーリンは外国人」のトニーさんは語学オタクで、日本語の響きにも愛着を持っているそうで、パートナーのさおりさんには理解できないような日本語の単語や文字を「いい!」と言ったりするんだそうですが、これもまた人によって感じ方が違うという例、なのでしょうか。
とまあそんな訳で、なんだか英語が好きになれない理由を解析してみようとしましたが、だからなんなんだ、という感じですね(汗)
やっぱり英語ができたら便利だよなあ・・・勉強するべきなんでしょうなあ(汗)
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LotRサントラ特集号よりその6 アラゴルンの戴冠式の歌

2004年10月02日 | 指輪物語&トールキン


今日の写真は二段重ね(笑)オックスフォードの植物園のトールキンお気に入りのヨーロッパクロマツ(の一部)です。つながって見える・・・かな?

さて、サントラの話ばかりでさすがに自分でも飽きて来たのですが(汗)他にネタもないのでまたサントラ話です。
music from the MOVIESのLotRサントラ特集号、フィリッパ・ボウエンズのインタビューがあと少しで終わりなのですが、今ひとつ読み進めず(汗)
でも、そんな少しの間にもまた面白い話が。
戴冠式のアラゴルンの歌なんですが、あの歌詞が原作の中にも出てきたエレンディルが遺した言葉?なのは皆さんご存知かと思います。
実は、あの歌詞はFotRでアルゴナスが出てくるシーンのコーラスの歌詞にも使われているらしいです。
フィリッパ・ボウエンズは、アルゴナスのシーンでこの歌詞が使われることについて、「アルゴナスの二つの像がエレンディルの息子たちなのだということを思い起こさせるようで気に入っている」というようなことを言っていました。あれ、映画ではあの像はエレンディルとイシルドゥアだという説はどうなったのかな?(汗)
で、その後、戴冠式でもこの歌詞を使うことを考え付いたのだそうです。もともとはフィリッパ氏の発案だったのですね。
ただし、最初の案ではコーラスの歌詞として流すつもりだったそうです。ところが、この歌詞を戴冠式で使うという話をヴィゴ・モーテンセンにしたところ、ヴィゴがアラゴルンが歌うようにしたらどうかと言い出し、最終的にはヴィゴのソロの歌になったのだそうです。
自分で作曲までしちゃって、すっかり乗り気のヴィゴの様子が窺えて微笑ましいですねー(笑)
しかし面白いなあと思うのが、こういうサントラに関する発案が、作曲担当のショアだったり、PJだったり、フィリッパ氏だったり、フラン・ウォルシュだったり、果てはキャストのヴィゴだったり・・・という、多岐の人たちに渡っているということですね。前の日記にも書きましたが、フロドとサムの会話の場面のコーラスに原作にあったサムの自分自身との葛藤の場面をイメージした歌詞を使いたい、と言い出したのはショアだったりとか。
皆で手作りで作ったんだなあ、という感じがいいなあ、と思いました。そういう意味では、やはりいい映画なんだとは言えるのでしょうね。
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ハワード・ショア来日再演は最初から決まっていたかも疑惑?について(あくまでも推論(汗))

2004年10月01日 | 指輪物語&トールキン

今日の写真は、トールキンやC.S.ルイスもよく講義を行ったという試験館の門です。薔薇(違うかも・・・)の模様が素敵なんですよね。ツアーで行った友達によると、この花には何やら言われがあるらしいですが、聞いたら「忘れた」と言われました・・・(汗)

さて、突然の再演のニュースに指輪ファンの間で話題沸騰?のLotRコンサート、最初は「評判悪かったからやり直しか?」と思い、ホールAと知って「チケット売れたから?」とも思ったのですが、最近、「最初からショアで再演するつもりだったんじゃないか」という気がして来ました・・・
どういう根拠でそう思ったかと思うと・・・まずは今後のLotRコンサートの日程を見てみましょう。

10/8、9 シカゴ 指揮:ハワード・ショア
10/16 デトロイト 指揮:不明(ショアではないとのこと)
10/29、30 ソルトレイクシティ 指揮:ジョン・マウチェリー
11/5、6 セビーリャ 指揮:ハワード・ショア
11/17、18 モスクワ 指揮:ハワード・ショア
12/3、4 ニュージャージー 指揮:ジョン・マウチェリー
12/7、8 ボルティモア 指揮:不明
12/11、12 東京 指揮:ハワード・ショア

これで何がわかるかというと・・・いや思ったよりも分かりづらいんですが(汗)基本的にこの時期、ショアのスケジュールは空いてるんだな、ということです。
デトロイトがショアでないのはシカゴのコンサートがあるから、
ソルトレイクシティがショアではないのはセビーリャのコンサートがあるから、
というあたりは読み取れると思います。
ボルティモアの指揮は不明ですが、このスケジュールでショアってことはないでしょうね。
そうすると、ニュージャージーがショアでないのは、ちょっと微妙な感じもしますが、東京のコンサートが近いから、と考えられないでしょうか。
これまでのコンサートの日程を見ても、(もしかして興味ある人はこちらを見てみてください)コンサートとコンサートの間は最小でも11日は開いていることがわかります。
つまり、ちょっと微妙ではありますが(汗)ニュージャージーでショアが振らないのは、既に東京が決まっていたからだという可能性は充分に考えられるんですよね。
(余談ですが、最初のスケジュールでは9/18、19ハートフォード、9/22ロンドンという日程になっていたのですが、結局ハートフォードはショアがキャンセルしました。最初から無理な日程だったんじゃないかなあと思うのですが・・・)
このニュージャージーのコンサートの情報を知ったのは7/21のTORnの記事からだったのですが、ということは少なくとも7/21以前にショアの来日再演は決まっていたんじゃないかなあと。チケット発売が7/26からだったことを考えると、コンサートの日程が決まったのはもっと前のはずですよね。
私は6月くらいにはおおよその話は決まっていたのではないかなあ、と推測しています。
そもそも前回のコンサートも、最初はショアで、という予定だったようなんですよね。
あのコンサートの情報が最初に出たのはJCBの会報でしたが、そこでは指揮はショアとなっていたんです。その次の号には「指揮者がジョン・マウチェリーに変更になりました」と書いてあったので、書き間違いではなく、やはり最初はショアの予定だったのでしょう。
ショアは9月まではマーティン・スコセッシ監督の「AVIATER」のサントラの仕事が忙しかったようで、7月のフィラデルフィア、9/18のハートフォードのコンサートは直前に指揮が変更になっていました。日本は遠いし、最初から大事を取ってショアが振るのは取りやめになったのではないかと想像できます。まあ、チケット発売後に変更になるよりずっと良心的ですが。
そんな経緯もあって、主催者側では最初から「スケジュールが空いた頃にハワード・ショアで再演を」と考えていたんじゃないかと思うんですよね~。
その根拠になるかどうかわからないのですが、私は5/22にロンドンのイベントでショアと話す機会がありました。(ほとんど会話にはなりませんでしたが・・・ああ勿体無い(汗))
私が日本から来ているというと、「8月に日本でコンサートがあるよ」とショアが言うので、「でもあなたは来ませんよね」と言ったら、ショアは行けない理由を色々言った後(なんて言っていたのかよくわからなかったんですが・・・(大汗))、「またの機会にね」と言ったのです。
ずっとあれはただのリップサービスだと思っていたのですが(汗)今となってみると、もしかしたらあの時ショアで再演という話がすでにあったのかも、と思えて来ました・・・
あと、SEEの発売が日本も海外とほぼ同時期という噂もあり、(海外は12/14)だとすると、SEE発売時期に合わせての再演、というシナリオも見えて来るような・・・
とまあ色々書きましたが、全て推論に過ぎませんので(汗)
ただ、残念なのは8月のコンサートの反省は、少なくともホールの面では全く活かされようもなかったということですが・・・
せめて最大限にマイク調整で前回の反省を活かして、少しでもいい音響で聴かせてもらえることを祈るしかないでしようか。
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