日本と世界

世界の中の日本

令嬢たちのロシア革命のペテルブルグ

2023-04-27 17:49:52 | 日記

2011年6月17日金曜日


令嬢たちのロシア革命のペテルブルグ


『令嬢たちのロシア革命』は期待以上に面白い。
改めて、ペテルブルグはロシア革命のゆかりの土地だったのだ、と思い出す。

今では、ガイドさんもそんな説明をしてくれないのですよ。

せいぜいスモーリヌィにソヴィエトが置かれていたことを言うくらいで。

↑巡洋艦アヴローラ号

スモーリヌィ

タヴリーダ宮殿も、カザン聖堂も、そういう歴史の現場となったところだったのですね。

タブリーダ

血の救世主教会(スパス・ナ・クロヴィ)

カザン聖堂

ロシア革命に積極的に関与した女性たちは、かなりの名家のお嬢様方が多かった、として、この本では5人の令嬢のロシア革命前後の生きざまに肉薄しています。

彼女らの人生の華やかなこと!

きらきらと魅力的だったのでしょう、きっと。

空間的にも(ペテルブルグという場所)、人間関係の面からも、再発見の多い、実り多い本です。

女性で初めて大使となったコロンタイは、あの名指揮者ムラヴィンスキーの叔母さんだった。

コロンタイの姉も名歌手であった。
とか。

あのスターソフの姪がレーニンの秘書であった(お父さんは革命家の弁護人を引き受ける法曹であった)。
とか。

純粋に歴史学的にみると詰めが甘い面はあるのかもしれない(人間関係、特に男女の仲に関しては結局想像でしか書けない部分もある)けれど、おもしろい一冊です。

『女三人シベリアの旅』と似た雰囲気、とも言えます。
 本書の構成は次のとおりである。

 プロローグで、ロシアの令嬢たちが自らの解放を遂げるために女性解放運動と革命運動にどう関わっていったか、その系譜を概説する。

第Ⅰ部で、五人の令嬢たち、すなわち、フェミニストの先陣をきってカデット(立憲民主党)に入り、ソヴェト権力に反対を貫いたアリアドゥナ・ティルコーワ、女性解放を目指しながらもフェミニズムを批判し、社会主義運動に入り、帝国主義戦争反対を革命に結びつけたアレクサンドラ・コロンターイ、そのコロンターイを革命運動に引き入れ、令嬢の中の令嬢でありながらボリシェヴィキの優等生だったエレーナ・スターソワ、レーニンの秘書的役割を務め、レーニンとその妻クループスカヤとの不思議な三角関係を結んだイネッサ・アルマンド、エスエル(社会革命党)の闘士として国際的にも名を知られ、ボリシェヴィキと連帯し、その後闘争することになったマリーヤ・スピリドーノワの1917年までの生き方を述べる。

第Ⅱ部で、1917年2月から18年3月までのロシア革命・ソヴェト政権初期に彼女たちが果たした役割を位置づける。エピローグで、彼女たちの後半生を概観して命の閉じ方を跡付ける。

(まえがきより引用。太字部分は本書にはない。)

「プロローグ 帝政にあらがう女性たち」に登場するのは、*旧教徒フェオドーシャ・モローゾワ
*帝国科学アカデミー総裁エカチェリーナ・ダーシコワ
*デカブリストの妻マリーヤ・ヴォルコンスカヤ
続いて慈善運動と高等教育の女性への門戸開放の請願運動を行ったフェミニストたち
*マリーヤ・トゥルブニコーワ
*アンナ・フィロソフォーワ
*ナジェージダ・スターソワ(エレーナ・スターソワのおば)
これらの恩恵(ベストゥージェフ女子大学運営援助、女性高等教育援助協会設置)を受けたヴェストゥージェフ女子大卒業生たち
*国際的数学者ソフィヤ・コワレフスカヤ
*ナジェージダ・クループスカヤ
(アリアドゥナ・ティルコーワもここの卒業生)
ニコライ・チェルヌィシェフスキー『何をなすべきか』のヒロイン、ヴェーラを目指して自己解放を得ようとした女性たち
*アンナ・コルビン=クルコフスカヤ(ソフィア・コワレフスカヤの姉)
(や本書では出てこないアポリナーリヤ・スースロワもドストエフスキーと別れた後はこの方面でかなりの働きをしていたはず)
そしてナロードニキとテロリストたち
*ヴェーラ・フィグネル
*ヴェーラ・ザスーリチ
*ソフィヤ・ペトロフスカヤ
*ゲーシャ・ゲルフマン
そしてマルクス主義の革命家
ナロードニキ系
*オリガ・ヴァレンツォーワ
*リディヤ・クニポヴィチ
*エカチェリーナ・クスコワ
非ナロードニキ系(お嬢様ではない)
*ネヴゾロワ姉妹(ソフィヤ、ジナイーダ、アヴグスタ)
*エヴァ・ブロイド
ここまでがプロローグに名の挙がった女性たち。
この他にも、「革命のおばあちゃん」エカチェリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤをはじめ、綺羅星のごとく革命家の女性たちが登場。

あと、この本を読んで、今までエイゼンシュテインの「十月」を観ていて、冬宮を防衛する(帝政側の)女性部隊が突然登場するのが何なのかわからなかったが、それがマリーヤ・ボチカリョーワの「死の女性大隊」だったのか、とやっとわかった次第。

今度ペテルブルグに行くときには、ネフスキー大通りのネコの像ととともに、令嬢たちの夢の跡を辿るのもいいかもしれない。
投稿者 Kocmoc Kocma 

























サムスン電子の業績ショック、最後の砦が揺らいだら韓国経済はどうなるのか

2023-04-27 17:36:35 | 日記
【4月8日付社説】

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

サムスン電子の業績ショック、最後の砦が揺らいだら韓国経済はどうなるのか

▲サムスン電子瑞草本社にあるディライトショップのロゴ。7日午前撮影。/聯合ニュース

 サムスン電子は今年1-3月期の営業利益が前年同期比で96%減の6000億ウォン(約600億円)を記録した。

事業ごとの決算は公表されなかったが、半導体部門で約4兆ウォン(約4000億円)の損失が出たことが主な原因とされている。

サムスン電子の営業利益が1兆ウォン(約1000億円)を下回ったのは2009年の1-3月期以来14年ぶりだ。

韓国を代表する企業がリーマンショック当時と同じレベルの衝撃に直面しているのだ。

 今月下旬に決算発表を予定しているSKハイニックスについても市場関係者は「4兆ウォン(約4000億円)前後の損失」を予想している。

半導体の売り上げがほぼ全体を占めるため、これがそのまま会社全体の赤字につながる見通しだ。

これまで持ちこたえてきたサムスン電子もSKハイニックスに続き減産を宣言した。

半導体景気の低迷が続くため、ここ1年に40%下落したDRAM価格を下支えするための決断だ。

しかし世界の半導体需要の回復は4-6月期には望むべくもなく、下半期の状況を見守るしかない状況だ。

韓国で製造業全体の10%、輸出の20%を占める半導体の1位と2位のメーカーがここ10年以上経験したことのなかった危機に直面しているのだ。

 巨額の赤字を出した韓国の半導体業界は、米中の技術開発競争のど真ん中で地政学的なリスクにも直面している。

サムスン電子とSKハイニックスはNANDフラッシュやDRAMの生産全体の40-50%を中国工場が占めており、その投資額は33兆-35兆ウォン(約3兆3000億-3兆5000億円)に達する。

米国は先日のCHIPSプラス法指針に基づき、一定の条件で10年にわたり中国国内で安定して工場を稼働できるようにした。

しかし米国による中国抑え込み政策が終わらない限り、韓国半導体メーカーの中長期的な「中国リスク」は今後も避けられないだろう。

 韓国経済は国内外のどこにも頼るべきところがない状況に直面している。

今年1-2月の経常収支は11年ぶりに2カ月連続の赤字を記録し、輸出は6カ月連続でマイナスとなった。

景気の後退と資産市場の不振で今年は4年ぶりに税収が減少し、国の負債は1100兆ウォン(約110兆円)を上回るのが確実視されている。

物価は高止まりしているが、家計負債と金融不安でこれ以上金利を上げるのも難しい。

企業が置かれた状況も厳しい。

半導体はもちろん電気やエレクトロニクス、鉄鋼、石油化学、精油など主力企業も1-3月期の営業利益が大幅に減少あるいは赤字を記録しそうだ。

危機に直面した国の経済を支えてきた韓国を代表する企業さえ揺らいでいる。

こんな状況で重大災害処罰法など反企業的な政策で追い打ちをかけても良いのか。

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

中部ソロモン諸島(ニュージョージア諸島)の戦い[編集]

2023-04-27 17:19:10 | 日記
中部ソロモン諸島(ニュージョージア諸島)の戦い[編集]

日本軍のガダルカナル島撤退後、連合軍の進撃は次の作戦(カートホイール作戦)の準備と休養のため小休止となり[7]、日本軍は中部ソロモン諸島と東部ニューギニアの防衛の強化に努めた。

 ただ、この間も戦闘は続いており、その主なものはラバウルからニューギニアへ向かっていた日本の輸送部隊の壊滅(ビスマルク海海戦)、日本軍による連合軍に対する大規模な航空作戦(い号作戦)、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(海軍甲事件)である。

 連合軍は小休止のあと、南太平洋方面の日本軍の一大拠点ラバウルに向けてソロモン諸島とニューギニアの両方から前進を開始する(カートホイール作戦)。

ソロモン諸島方面の連合軍の最初の行動は中部ソロモンのニュージョージア島のムンダ飛行場の奪取を目的としたものである。

以後のこの海域の戦いは、ソロモン諸島沿いにラバウルに向かうアメリカ軍が飛行場を確保するために行った作戦と、これに反撃する日本軍の間で発生した戦闘である。

ニュージョージア島・レンドバ島[編集]

詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照詳細は「レンドバ島の戦い(英語版)」を参照日本軍はガダルカナル島での戦いを支援するため、1942年12月にニュージョージア島のムンダに飛行場を建設した。

ガダルカナル島撤退後、日本軍はソロモン方面の防衛線を中部ソロモンとすることに決定し[8][9]、ニュージョージア島やそのすぐ北にあるコロンバンガラ島の戦力増強を続けた。

アメリカ軍はニュージョージア島の日本軍のムンダ飛行場を占領して自軍の飛行場とするため、その準備作戦として1943年6月30日、ムンダの対岸のレンドバ島に上陸した。

続いて、7月5日にニュージョージア島に上陸し、8月5日にムンダを占領した。残存の日本軍は同月下旬にコロンバンガラ島へ撤退した。

アメリカ軍のニュージョージア島上陸からムンダ飛行場占領までの経過は順調なものではなく、事前計画より多くの日数と損害を強いられることになった。

ジャングルを通って敵飛行場に接近し占領するという困難な問題(ガダルカナル島で日本軍が解決できなかった問題[10])を経験したアメリカ軍は、この苦い経験によりその後の作戦計画を修正することになる。 

また、1943年8月にアメリカ軍統合参謀本部が発表した指令書は「ラバウルは占領するよりもむしろ無力化すべきである」と述べている[11]。

ベララベラ島・コロンバンガラ島[編集]

詳細は「ベララベラ島の戦い(英語版)」を参照アメリカ軍の最初の計画は日本軍のコロンバンガラ島のビラ飛行場の占領であったが、ニュージョージア島攻略の苦い経験から日本軍の防備が厚いコロンバンガラ島への侵攻は止め、代わりに防備が薄いベララベラ島に飛行場を建設することにした[12][13]。

1943年8月15日、アメリカ軍は同島の南部に上陸した。島には少数の日本軍しかおらず、増援部隊が送られたが大きな戦闘は発生しなかった。

 ベララベラ島がアメリカ軍に占領されたことで、コロンバンガラ島の日本軍は連合軍に包囲されて孤立することになり、9月28日~10月2日に日本軍のコロンバンガラ島からの撤退作戦(セ号作戦)が行われた。

 ベララベラ島にいた約600名の日本軍は、10月6日に島から撤退した。これにより連合軍は中部ソロモンへの進撃を達成し、次は北部ソロモンのブーゲンビル島を目指すことになる。

北部ソロモン諸島(ブーゲンビル島)の戦い[編集]
ブーゲンビル島[編集]

詳細は「ブーゲンビル島の戦い」を参照1943年4月7日、ブインからサボ海峡を航行する空母を始めとする連合軍艦隊への出撃に向かう瑞鶴航空隊北部ソロモンのブーゲンビル島では日本軍はブイン等に飛行場を建設し、ガダルカナル島の戦いのときはガダルカナル島への中継基地として活用した。

また、コロンバンガラ島からの撤退が行われた頃に策定された絶対国防圏構想では、ソロモン方面の前衛線はブーゲンビル島とした[14]。

 アメリカ軍はラバウルに向けてさらに前進するためにブーゲンビル島に飛行場を必要としたが、ニュージョージア島攻略の苦い経験から、ブーゲンビル島の日本軍飛行場は占領せず、同島に新たな飛行場を建設することにした。

飛行場建設地はタロキナに決定し[15]、1943年11月1日、アメリカ軍は同島のタロキナ岬に上陸した。日本軍は上陸したアメリカ軍に対し攻撃(第一次タロキナ攻撃)を行ったが失敗に終わり、12月にタロキナに飛行場を完成したアメリカ軍は以後、それまでを大きく上回る規模でラバウルの空襲を行った[16]。

翌年3月に日本軍は再びタロキナを攻撃(第二次タロキナ攻撃)したがこれも失敗し以後、日本軍は食糧不足と熱帯病のためその状況は「墓島」と呼ばれるものになった。

戦闘(オーストラリア軍による掃討と日本軍の抵抗)は終戦まで続き、日本軍は1945年9月3日に降伏した。

グリーン島[編集]

詳細は「グリーン諸島の戦い」を参照連合軍は飛行場の建設を目的として、1944年2月15日にグリーン島(ラバウルの東、ブーゲンビル島の北西)に上陸した。

島には約100名の日本軍がいたが玉砕した。飛行場は3月4日に完成し、連合軍の航空基地からラバウルまでの距離はブーゲンビル島のタロキナに比べ、半分の約200kmとなった[17]。

主な戦い[編集]

ソロモン諸島とその周辺海戦の丸括弧内は連合軍における呼称。1943年(昭和18年)
  • 3月2日~3日 - ビスマルク海海戦(ソロモン諸島ではなく、ニューギニア方面での戦闘)
  • 3月5日 - ビラ・スタンモーア夜戦
  • 4月7日~14日 - い号作戦・フロリダ沖海戦 (ソロモン諸島と、ニューギニア方面での戦闘)
  • 4月18日 - 山本五十六連合艦隊司令長官戦死
  • 5月8日 - 日本海軍の駆逐艦三隻が触雷により全滅
  • 6月7日~16日 - ルンガ沖航空戦
  • 6月30日 - アメリカ軍がニュージョージア島の対岸のレンドバ島に上陸
  • 7月5日 - クラ湾夜戦(クラ湾海戦)
  • 7月12日 - コロンバンガラ島沖海戦(コロンバンガラ海戦)
  • 8月6日 - ベラ湾夜戦(ベラ湾海戦)
  • 8月15日 - アメリカ軍がベララベラ島に上陸
  • 8月17日 - 第一次ベララベラ海戦(ホラニウ海戦)
  • 8月30日 - 日本軍がニュージョージア島から撤退
  • 9月28日~10月2日 - 日本軍がコロンバンガラ島から撤退(セ号作戦)
  • 10月6日~7日 - 日本軍がベララベラ島から撤退
  • 10月6日 - 第二次ベララベラ海戦(ベララベラ海戦)
  • 11月1日 - アメリカ軍がブーゲンビル島のタロキナに上陸
  • 11月2日 - ブーゲンビル島沖海戦(エンプレス・オーガスタ湾海戦)
  • 11月5日~12日 - ろ号作戦(第一次~第三次ブーゲンビル島沖航空戦)
  • 11月5日と11月11日 - ラバウル空襲
  • 11月13日~12月3日 - 第四次~第六次ブーゲンビル島沖航空戦
  • 11月24日 - セントジョージ岬沖海戦
  • 11月29日 - ナボイの戦い
  • 12月17日 - アメリカ軍はブーゲンビル島のタロキナ基地からのラバウル空襲を開始
1944年(昭和19年)
  • 2月15日 - 連合軍がグリーン島(ブーゲンビル島の北西)に上陸
  • 3月8日~3月25日 - ブーゲンビル島で日本軍は第二次タロキナ攻撃を行うが失敗
結果[編集]
ガダルカナルの戦いは、日本の海軍に大打撃を与えた1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争(大東亜戦争)におけるターニング・ポイントだと考えられている。

日本の勢力圏に最初の突破口を開いた連合軍にとっては太平洋戦線における反攻の開始を意味し、日本軍にとっては敗北の始まりであった。

ガダルカナル島の戦いの後、連合軍は中部ソロモン諸島の西進と東部ニューギニアから北岸沿いの西進により、1944年(昭和19年)3月までにソロモン諸島侵攻当初の目標であった「ラバウルの攻略(のちに『ラバウルの無力化』に方針を変更)」を達成した。

この頃になると連合軍の戦力(空母の数等)はガダルカナル島上陸の頃に比べてはるかに充実していて、中部太平洋でもアメリカ軍の大規模な反攻が始まっていた。この後、連合軍は
  • マリアナ諸島(サイパン・グアム)を目指して中部太平洋を西に進撃(ニミッツが指揮)
  • フィリピンを目指してニューギニア北岸を西に進撃(マッカーサーが指揮)
の二方面からの作戦に移っていく。

一方、日本海軍はガダルカナルからラバウルに至る消耗戦に対し、基地航空隊だけではなく米軍迎撃の主力となるべき空母艦載機部隊第一航空艦隊および第二航空艦隊をも投入し、そして消耗戦で失ってしまった。この結果、米軍の二方面反攻のどちらに対しても有効な反撃ができないまま、孤立した離島の守備隊が各個撃破されて玉砕していく悲劇が繰り返されることになる。



日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊

2023-04-27 16:45:48 | 日記

特攻せず。芙蓉部隊美濃部正少佐

2019-10-09 19:58:28
テーマ:人物探訪

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ねずさんのブログよりの転載です。

http://nezu3344.com/blog-entry-4273.html
 
晩年の美濃部空将は、とても良いお顔をされています。何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。そんなふうに思えます。
  
日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊があります。
この飛行隊は、NHKや、フジテレビ、テレビ東京などで、
「特攻を拒否したヒューマニズムあふれる航空隊」
として紹介されています。

なるほどこの芙蓉部隊は特攻攻撃をせず、終戦時まで戦力を蓄え、果敢に米軍への攻撃活動を継続しているのですが、その隊長であり、芙蓉部隊の創設者である美濃部正(みのべただし)海軍少佐は、次のように述べてヒューマニズム説を明確に否定しています。

「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。
 それは戦いの勝ち負けを度外視した
 戦後の迎合的統率理念にすぎません。
 当時の軍籍に身を置いた者には
 負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
 私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり
 特攻またやむをえずと今でも考えています。
 戦いのきびしさは、
 ヒューマニズムで批判できるほど
 生易しいものではありません。
 ーーー美濃部正」
 
美濃部少佐は、戦後も生き残り、航空自衛隊に身を置かれて最終は空将として後進の指導に当たられました。

美濃部正少佐は、旧姓を太田といます。
昭和16(1941)年11月にご結婚され、姓が美濃部と変りました。
海軍兵学校は、第64期で、最初は水上偵察機のパイロットをされていたそうです。

昭和18年11月に、ソロモン諸島の水上機を装備した航空隊の飛行隊長に就任し、そこで水上偵察機を利用して、夜間策敵や敵基地の夜襲を行い、大戦果をあげています。
昭和19年1月には、水上機たった一機で敵の飛行場を爆撃し、大成功をしています。

このあたりのことについて、すこし解説が必要かと思いますので、ちょっとだけ脱線します。

大東亜戦争の転機となった時点について、戦後、多くの識者は、昭和17年6月の「ミッドウエー海戦」を掲げます。
ミッドウエーでは、たしかにそれまで連戦連勝だった帝国海軍が、初といっていい大敗北を喫しましたから、そう思われても仕方がない節があるかもしれません。
けれどミッドウエーで日本海軍が失ったのは、空母4隻と航空機285機にすぎません。
この時点で帝国海軍には、まだまだ十分な余力がありました。

それよりも日本が戦力を大幅に消耗したのは、実は、ミッドウエー海戦の後に行われた、ソロモン諸島の戦いです。

この戦いは、昭和17年8月から昭和18年11月まで、1年以上に渡って行われた戦いで、日本は8万人の将兵を戦死により失い、艦船50隻、航空機1500機を喪失しました。
もちろん米軍の側もたいへんな損害を出しており、米軍発表で戦死11000人、喪失した艦船40隻、航空機800を失っています。
要するに、日米両軍とも大消耗戦を戦い、最終的に日本がガダルカナル等の拠点を放棄して、戦線を縮小し、撤退したのです。

ではなぜソロモン諸島で、両軍がこれだけの大消耗戦を行ったのでしょうか。
理由は、ひとことでいえば米軍が「戦法を切り替えた」ことにあります。
それまでの米軍は、米海軍の機動部隊による日本統治領への進出を作戦の主体にしていました。
ところが黄色い猿と見下していた日本側があまりに強い。
米海軍は、空母やら艦船、あるいは航空機が次々と撃墜されたり沈没させられたりしていたのです。

そこで米軍が考えたのが、陸上の飛行場の建設です。
まず日本軍がやってこない後方に飛行場を建設する。
そこから飛行機を発進させ、日本軍の基地を叩く。
日本軍が防戦している間に、前線に米軍の飛行場を建設する。

空母ですと、強力な日本の航空隊に空母ごと沈められてしまうため、陸上に飛行場を建設しようというわけです。
南方の島々は、珊瑚の島だから、基本、土地が平坦です。
そこにブルドーザーを持ち込んで、一気に木々をなぎ倒し、鉄板を敷いて滑走路にしてしまう。

普通に私たちの現代の感覚から見ても、成田に飛行場をひとつつくるだけでも、膨大な期間を要する大工事が想像されます。
それを彼らは一夜のうちに実現しました。
当時の日本軍にしてみれば「まさか」の出来事であったわけです。

陸上の滑走路は、上に枯れ葉を敷き詰めたネットを敷くことで、簡単に偽装できました。
ですから日本軍からしてみれば、米軍の飛行機がどこから飛んでくるかわからない。
きわめて単純でわかりやすい戦法ですが、この単純な戦法で、日本は7000機を越える航空機と、7200人のパイロットを失っています。
ミッドウエーの比ではなかったのです。

米軍のこの作戦で、日本は1年半後には、この地域から残存空軍をすべて撤収することになりました。
昭和19(1944)年12月に内地に帰還した美濃部少佐は、米軍の行ったこの作戦を、日本本土を守るために逆用しようと考えます。

彼はまず、日本本土の後方に前線攻撃のための航空機基地を構築を進言し、これを実現しました。
本土防衛のための防空基地ではありません。
攻撃のための基地です。
場所は静岡県藤枝市、現在の航空自衛隊静浜基地です。

そして昭和19年12月から、翌昭和20年1月にかけて、まず優秀なパイロットをこの基地に集めました。
また、艦上爆撃機として生産されながら故障が多いからと放置されていた水冷式エンジン搭載の「彗星」を、この基地に集結させました。
 
そして1月には、正式に3個飛行隊を擁する芙蓉部隊を創設し、ここを拠点に猛烈な急降下爆撃の訓練を実施しています。
その年(昭和20年)3月、沖縄戦が始まりました。
美濃部少佐は、芙蓉部隊の前線基地を、鹿児島県曽於市岩川町に進出させます。

沖縄に集結した米軍機動部隊は、千機以上の航空機をもって、九州一帯から瀬戸内海方面まで、日本軍の航空戦力に爆撃を敢行し、大打撃を与えようとしました。
日本側は、米艦隊に向けて特攻攻撃を仕掛けるとともに、新型戦闘機の「紫電改」による精鋭部隊で米軍航空隊を迎撃しました。

特攻機は、昭和20年3月19日には、米軍大型空母フランクリン、同ワスプを急襲し、フランクリンを大破させ、戦死832人の戦果をあげ、ワスプも大破して戦死302人の大戦果をあげています。
さらに5月11日には、米軍の誇る大型空母バンカー・ヒルも大破させました。

この間の芙蓉部隊の戦果もめざましいものがあります。

芙蓉部隊の進出した岩川飛行場では、まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設小屋や立木を置いて偽装し、滑走路に家畜を引き入れて牧場風にしただけでなく、飛行機も木の枝などで徹底的に隠し、また到着した飛行機からはガソリンを全部抜き取って火災による損傷を最小限に抑えました。
そして、特攻機が飛び立つと、特攻機が米軍によってレーダー補足されないよう、特攻機の進撃方向とは全然別な空域に金属片を散布して偽装し、特攻攻撃を成功に導きました。
さらにロケット弾や、空中で爆発して爆片をまきちらす新型爆弾などを積極的に導入しました。

こうして、
4月6日には、嘉手納海岸周辺の米軍巡洋艦を撃沈。
同12日には、米軍が占領した嘉手納基地を急襲して爆撃。
同16日には、同じく嘉手納基地、読谷基地を急襲して爆弾を投下。
同20日から26日にかけて、策敵行動をし、敵機を迎撃し、
同27日には、北飛行場を爆撃し、中飛行場、伊江島飛行場の米軍を爆撃、慶良間で米艦隊を銃撃し、係留してあった飛行機を撃破。
同30日には、敵夜戦機をおびき出し、燃料切れまでひっぱり回した上で、飛行場を襲撃し、敵空母を大破。

こうして芙蓉部隊は、8月15日の終戦の前日まで、述べ630機を出撃させて莫大な戦果をあげました。
戦果に対する損害は、わずか47機です。
しかも終戦時点でなお50機の残存戦力を持っていました。
芙蓉部隊は、あの物資の欠乏し、戦局厳しくなった戦争末期に、あえて特攻は行わず、人知の限りを尽くした戦法による爆撃や迎撃で、最後まで戦い抜いたのです。

戦争が終わり、GHQによる日本人洗脳計画がスタートし、日本国内では、メディアや左翼系有識者らがこれに悪のりすることで、戦争を起こしたのは全部軍部のせいだ、特攻などは、軍部が人命軽視をしていたなによりの証拠だ、などといった論調が形成されていきました。

(注)というより、そうした論を持つエセ学者を積極的にメディアに登場させ、出版本をベストセラーに仕立て、世論操作を行ったわけです。その間、まともなことをいう学者や論者の意見は、まるごと封殺されました。こうした上辺だけの宣伝工作は、いまでもわが国に強く影響を残しており、その結果、いまこの瞬間に世間からたかく評価されている意見(いわば流行意見)は、5年もするとことごとくメッキが剥がれて、嘘だと言われるようになりました。たった5年でメッキが剥がれるということは、少し考えたら誰にでも嘘だとわかるということです。それがわからなくなるのは、日本人が思考停止におちいり、洞察力を失ったからです。

こうなると、俄然、注目を浴びるのが、最後まで特攻攻撃ではなく、通常攻撃にこだわって大いなる戦果をあげた芙蓉部隊の存在であり、美濃部少佐の存在です。
メディアや左翼系学識者らは、なんとかして美濃部少佐を引っ張りだして、彼を戦時中、「人命軽視」の特攻攻撃に逆らったヒーローに仕立て上げようとしました。

ところが、美濃部少佐は、こうした世論の流行に、いっさい妥協しませんでした。
いくら世論だからといっても、彼は帝国軍人として育った自らの信念を曲げることをしなかったのです。

こうして美濃部少佐は、航空自衛隊が組織されると、これに入り、最後は空将にまで登り詰めました。
彼は次のように述べています。

「戦前の海軍兵学校の人間教育
 及び卒後の人間関係は、
 戦後のどんな教育機関や組織より
 優れていたよ」

美濃部空将は、日本が生んだ天才空将といえる人です。
その彼は、自身の活躍をメディア等で語ることもなく、また何ら自慢することもなく、そして左翼の学識者や偏向メディアに踊らされることもなく、黙って後輩のパイロットを育て続けて、お亡くなりになりました。

戦後世代の私たちは、「言わなければわからない」世代になったといわれています。
戦後の私たちの時代の日本人は、
「ちゃんと説明しなければわからない」
「わからないのは、ちゃんと説明しない方が悪い」
などと考えている風潮があります。

黙っていたら誤解を生むだけ。
言わなきゃわからない。
会社の仕事もマニュアルを見なきゃわからない。
自分はマニュアル通りにやっているのだから、それで失敗しても、それはマニュアルのせいであって、自分のせいではない・・・・。

けれど、もともと日本にある文化は、そうではありません。
「言わなくてもわかる」
「見ている人は見ている」
「言わなくてもわかるものがわからないなら、そのわからない方が、勉強が足りない」
そう考えるのが、昔の日本人でした。

我々の世代は、
「そんなことは日本人にだけ通用する理屈であって、
 国際化社会では通用しない」
といわれて育った世代です。
ですからこのことは、世代の常識です。

けれどほんとうにそうでしょうか。

国宝である正倉院には、頑丈な鍵はついていません。
そこにあるのは、紙の封印だけです。
鍵が、ただの紙です。

ただ紙が貼ってあるだけで、そこで誰も盗みを働こうなどとしない。
マニュアルなんてなくても、注意事項書や、警告文などなくても、ただそこに紙が貼ってあるだけで、誰もが盗みにはいろうなんて思わない。

「言わなくても、そんなのはあたりまえ」
それが日本社会だったのではないかと思うのです。
それは、人類の理想といえる社会といえはしないでしょうか。

美濃部空将は、死ぬまで自らの手柄を誇るようなことはせず、また、自分が行った通常攻撃は、特攻とともに勝つための作戦として行ったにすぎないと、謙虚です。
その偉業を、一部の学者が特攻批判、軍隊批判の道具に利用しようとしたけれど、美濃部空将は、そんなものまるで相手にしようとしませんでした。

そうとうストレスはあったようです。
ですから晩年の美濃部空将は、何度か胃の潰瘍手術をしています。
けれど、それでも「わかる人にはわかる」と、彼は弁解も説明もしていません。

晩年の美濃部空将は、とても良いお顔をされています。
何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。
そんなふうに思えます。

人は、良いときには、ちやほやされます。
けれど、ひとたび落ち目になると、ボロカスに言われる。
かつての帝国軍人さん達がそうでした。

けれど、そうした批判や中傷、あるいは利用しようとする悪徳識者らの誘いに、彼は一切応じようとせず、「わかる人にはわかる」と、自らの使命をまっとうして、お亡くなりになりました。

戦後世代が否定してきた昔の日本の文化が、実は、もしかしたら、ほんとうの意味で世界が必要としている普遍性を持った文化だったのかもしれない。
そんなふうに思います。
そして、本当にただしい道を最期の瞬間まで、ひとえに追求していく。
これこそが、日本人として生きるということであり、いまもっとも必要とされていることではないかと思います。
 
お読みくださり有難うございます。
 
 


「銃殺刑を覚悟した...」それでも特攻作戦に反対した部隊長の述懐

2023-04-27 16:28:34 | 日記
「銃殺刑を覚悟した...」それでも特攻作戦に反対した部隊長の述懐
  • #保阪正康
2023年03月14日 公開

保阪正康(ノンフィクション作家)

戦争中に軍人や政治家が公然と軍のやり方を批判し、自らの意志を貫き通すのは非常に難しいことである。しかし先の大戦の時に、そのような気骨を示した男たちもいた。特攻に反対した美濃部正、軍部の言いなりの議員をはっきり批判した中野正剛...。語り継ぐべき彼らの直言とは。
※本稿は、保阪正康著『昭和史の核心』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

 生の確率ゼロの作戦を強要する権利はない
ウクライナ戦争は出口が見えない状態が続いている。ロシア国民は実際のところ、この戦争をどのように見ているのだろうか。いつまでも続く戦争や、杜撰さがみられる軍事作戦に疑問を持つ軍人や議員がいたとしても、その疑問をはっきりと口に出して表明することは難しいだろう。
彼らの心中を想像するとやるせない思いがするが、翻って日本の先の大戦について思い起こすと、毅然と自らの意志を示し、時流に抗った者たちもいた。ここではそんな気骨のある男のうち、2人を取り上げて紹介したい。
一人目は、海軍の飛行部隊・芙蓉部隊の隊長だった美濃部正氏である。特攻作戦に公然と反対した指揮官だ。
私が氏と会ったのは平成元(1989)年から2年にかけて、都合3回ほどであったが、そのときは70代半ばであった。海軍の軍人として特攻作戦になぜ反対であったのか。その反対を意思表示したときに海軍内部にはどういう反応があったのかを聞きたいと思っての訪問であった。
氏はそうした話を自慢げに話すタイプではない。軍人としてより一人の人間としてこうした「十死零生」の作戦は採るべきではないとの信念を持っていた、その考えを指揮官の会議で披露しただけという。これが本人の述懐であり、それは特に褒められることではないとも語っていた。
私は氏が特攻作戦に公然と反対した会議の模様をこれまでも原稿に書いたことはあるが、氏の没後に家族が発表した回想録(氏自身が少しずつ原稿を書き進めていた)から、その状況を引用するとわかりやすいので、それをもとに書き進めることにしよう。
昭和20(45)年2月、連合艦隊主催の次期作戦会議が木更津の第3航空艦隊司令部で開かれた。幕僚、指揮官、飛行隊長など80人近くが出席したが、美濃部氏は最若輩の少佐で末席に連なっていた。
配付された資料を見て、「比島戦で証明済の効果無き、非情の特攻戦。これで勝算があるというのだろうか?」と氏は考え込む。指揮下部隊の能力、練度も無視している。連合艦隊の参謀の「全機特攻」に誰も異論を唱えない。
氏は次のように書く。
「練習機迄つぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏無き皇軍には今や最後に指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民にお詫びする時ではないか。訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒を死突させ、無益な道ずれにして何の菊水作戦か」
氏は自分の部下300人の搭乗員を考えると、「一人位こんな愚劣な作戦に反対、それで海軍から抹殺されようとも甘んじて受けよう!!」と決意して発言を求める。連合艦隊参謀の作戦案に正面からの反対論をぶった。
誰も死を恐れていない、しかし死をというなら確算ある手段をたてよ、との内容に参謀は激高する。
氏の反対論には重大な2点(「真の敵」への批判というべきか)が含まれている。第一に若い搭乗員に死を強要するならまずは自分たちが先頭に立って死んでいけ。第二にたとえ戦時下といえども他人に生の確率ゼロの作戦を強要する権利はない、である。
「この発言をしたとき、銃殺刑を覚悟したのですか」。「しました。体が震えましたよ」と氏は述懐していた。
 
特攻作戦に対するすさまじい怒り
芙蓉部隊は特攻編成から外され、夜襲部隊として菊水作戦に参加した。さらにこの部隊は、練習機などでの特攻作戦に加わっていない。優れたパイロットであった氏も率先して作戦に加わった。
一連の作戦の途次、氏は特攻の生みの親、大西瀧治郎中将に呼ばれて一晩歓談の機会を持った。二人は酒を飲めないので茶で語り続けた。大西は美濃部氏の勇気をそれとなくたたえたあとに、「こんな統帥の外道を進めた以上、自分も責任を取る」とつぶやいたという。
美濃部氏はそうした事実を淡々と語った。しかしこんな作戦を進めた参謀や指揮官、司令官に対するすさまじい怒りを手記には書いている。
そこには「妄想狂的猪突戦線拡大と兵站補給の軽視」といった語があり、「多くの前途夢多き若者を肉弾体当たり攻撃に追いやり、実効果無き敗戦となった戦争指導者達への報いはどの様であったか?」と氏は問い、それぞれの指導者たちの死の姿は真に特攻隊員を追悼していないともにおわせている。
平成3(91)年であったか、美濃部氏の証言をある月刊誌で紹介したことがある。かつての部下というパイロットたちから自宅への電話が相次いだ。「美濃部部隊長は我々にとって神のような存在です」と言って、誰もが電話の向こうで泣いた。
私は、こういう軍人の下で働いた彼らもまた、美濃部氏の人生訓を受け継いでいることを知らされた。

議会人の誇りを示した中野正剛
気骨のある人物は、軍部だけではなく、議会にもいた。当時無所属の議員であった、中野正剛である。
戦時下の議会は昭和17(1942)年5月、戦争協力の名のもとに東条内閣の要請を受け入れて翼賛政治会(翼政会)を発足させた。東条首相はこの翼政会以外は無視する形になったために、当初はほぼすべての代議士がここに加わった。最後まで加入しなかったのは尾崎行雄と犬養健のほか4人だったというのである。
とはいえ議会人も、しだいに軍官僚を中心とした政府の言いなりにならなくなる。あからさまな威圧や恫喝に反発し、しだいに政府提出の法律案にも抵抗を続け、議会人の誇りを見せるようになる。議会は政府の言いなりになるな、議会人の責務を守れ、との声もあがっていく。翼政会が政府に屈伏するのでは、議会は死んだも同然だとの声が高まる。
鳩山一郎や中野正剛のように翼政会を脱退して、フリーハンドになる者もあった。昭和18(43)年6月17日に翼政会の代議士会で、中野は翼政会幹部たち(軍部の言いなりになっている代議士)に向かって、次のような名言を吐いた(『戦時議会史』中谷武世、昭和49年刊)。
「政府の要求どおり議会を運営するならば議会は有名無実となる。およそ権力の周囲に阿諛迎合のお茶坊主ばかり集まっていると、(中略)ついには国を亡ぼすにいたる。日本を誤るものは政界の茶坊主どもだ!」
戦時下といえどもこれだけのことを言ってのける政治家が存在したのだ。もっとも中野は東条首相の弾圧を受け、この4カ月余後に憲兵隊に脅されて自殺に追いこまれている。当時代議士だった中谷自身も反東条で動いて弾圧を受けた。
この書の中で中野の言こそ「不滅の名言」であり、いつの時代にも政界にはお茶坊主的阿諛迎合の徒が権力の周辺に集まって「政治を誤り、国を危うくする」と弾劾している。
中谷のこうした見方は、戦時議会の中でともすれば政権を恐れて黙してしまったり、提灯持ちに徹するような代議士がその威を借りて猛威をふるったりした事実を指している。
東条は官邸で秘書たちに、自分に抗する代議士たちへの不満を漏らし、たとえば軍人出身の代議士橋本欣五郎が自らの言うことを聞かないと知ると官邸に呼びつけて、「橋本、貴様は俺の敵か味方か。はっきりしろ!」と感情むきだしでどなりつけている。
橋本は沈黙したままだった。のちに「敵だ」と答えたらすぐにその場から憲兵隊に引っぱられていただろう、と述懐している。
軍事独裁とはつまり行政独裁を指すのだが、現在の立法府の議員が戦時下のこんな状態と同じというのではないだろうな、と私はしきりに案じているのである。