最近のお気に入りに『small planet』という本城直季さんの写真集があります。美しい色鮮やかな町や自然の風景を写したものですが、これを鑑賞すると不思議な気分になります。本物の風景のはずがミニチュアのように小さく見えるのです。「あおり撮影」と呼ばれる方法で撮られているようですが、技術的な問題はさて置き、視覚の認識のあり方を考えると面白いものです。
そもそも普通の漫画や絵画も面白いものです。二次元の単純な線や点が本物を想起させ、さらに映画になると止まっている絵を連続させることで動いているように見えます。これらは視覚の問題ですが、聴覚にもそういう面があります。
音楽を聴くと演奏家の感情が想起されたり、ある風景が眼に浮かんできたりすることがあります。それだけでなく、例えば「C-durの和音」を聴くとそれが「C-durの和音」そのものとしても聴こえますし、また「ド・ミ・ソ」のように分けても聴こえます。よく考えるとこれは大変不思議なことです。和音の波をグラフに表すととても複雑な形をしていますが、それを一瞬のうちに分解して認識していますし、また合成して認識することもできるのですから。
音楽家であり教育者である齋藤秀雄(1902-1974年)(註1)はこんなことを言っていました。
「…ある時考えて、「『人間の錯覚を利用して、あるもので違うものを感じさせる』。時にはこれを『芸術』という」っていう定義を作ったんです。人間が錯覚を持たなかったら、芸術は存在し得ない。それはロダンが言っているんですね。人間の錯覚があるっていうことが、芸術をやる人には非常に便利なことで、そのものずばり聞こえたからね。…」(『齋藤秀雄講義録』より)
また哲学者メルロ・ポンティ(1908-1961年)(註2)は次のように言っていました。
「知覚される世界は(絵画のように)私の身体の配線の全体なのであって、時間空間的な個物の集まりなのではない。…
《感覚》はどれをとってみても一つ一つが《世界》をなしている。つまり他の感覚と絶対に交流できないものなのである。だがそれは何ものかを構成する。それは最初から構造的に他の感覚の世界に向かって開き、他の感覚と手を携えて一つの「存在」を形成するのである。
感覚性:例えば色、黄色:それは自から自己を超えていく。それが輝きの色、つまり領野を支配してしまうような色になるや否や、それはあれこれの色であることをやめる。したがってそれは自からに存在論的機能を具えているというわけだ。
…感覚性は独特なものとして忽然として定立される。そして独自なものとして見えることをやめる。《世界》はこういう全体であって、そこではどの《部分》も…全体的部分となるのである。」(『メルロ・ポンティの研究ノート』現象学研究会編訳)
このように、人には「錯覚する」という性質があります。この性質が芸術というすばらしいものを生み出しました。それは感覚の単なる異常とか過ちではなく、知覚される世界が複雑なネットワークにより形成され部分が全体的部分になっていることから生じるのかもしれません。
そして生命現象、とくに病気として認識されるものの中で代表的な錯覚が「幻肢痛」です。これは事故などでなくなった手足に痛みを感じる(時には動かしたり触ることもできる)現象です。鍼灸医学は「幻肢痛」に効果がありますが、次回から「幻肢痛」について考えていこうかと思います。
(註1)齋藤秀雄(1902-1974年):チェリストでもあり指揮者でもありました。音楽の教育者として小澤征爾や堤剛、藤原真理などを育て上げました。(敬称略)
(註2)メルロ・ポンティ(1908-1961年):フランスの哲学者。フッサールの現象学、特に生世界をめぐる後期の思索を発展させ、存在の始源に迫るべく問い続けましたが、若くして急死しました。
(ムガク)
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