はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒の養生訓―総論上―解説 022 (修正版)

2015-05-06 21:58:01 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の道なければ、生れ付つよく、わかく、さかんなる人も、天年をたもたずして早世する人多し。是天のなせる禍にあらず、みづからなせる禍也。天年とは云がたし。つよき人は、つよきをたのみてつつしまざる故に、よはき人よりかへつて早く死す。又、体気よはく、飲食すくなく、常に病多くして、短命ならんと思ふ人、かへつて長生する人多し。是よはきをおそれて、つつしむによれり。この故に命の長短は身の強弱によらず、慎と慎しまざるとによれり。白楽天が語に、福と禍とは、慎と慎しまざるにあり、といへるが如し。

世に富貴財禄をむさぼりて、人にへつらひ、仏神にいのり求むる人多し。されども、其しるしなし。無病長生を求めて、養生をつつしみ、身をたもたんとする人はまれなり。富貴財禄は外にあり。求めても天命なければ得がたし。無病長生は我にあり、もとむれば得やすし。得がたき事を求めて、得やすき事を求めざるはなんぞや。愚なるかな。たとひ財禄を求め得ても、多病にして短命なれば、用なし。

(解説)

 『荘子』山木篇にこんな話があります。荘子は山中で、ある木を見ました。その木は材木にされなかったことで、「其の天年を終える」ことができました。また一方で、飼育されていた雁は利用するところがないために殺されました。天年とはただ単に命を終えるまでの年ではなく、何らかの人為が介在することなく、その命を終える年のことであり、木であれば切り倒されることなく老化し自然に倒れるまでの年であり、雁であれば殺されることなく終える年のことです。

 益軒は前に、養生しないことは自らを殺すことと同じであると言いましたが、ここでもまた、「みづからなせる禍也。天年とは云がたし」、と繰り返します。荘子は弟子から、「不材を以て其の天年を終える」生き方と、「不材を以て死す」生き方と、先生はどちらの生き方をしているか、と訊かれました。荘子は笑い、私は「材と不材の間」の生き方であると言い、さらにこう続けます。

「若し夫れ、道徳に乗り浮游せば、則ち然らず。誉なく訾なく、一龍一蛇。時と倶に化し、肯て専ら為すこと無し。一上一下、和を以て量を為す。浮游するや萬物の祖なり。物を物とし物に於いて物にせず、則ち胡んぞ得るべくして邪を累す。此れ黄帝、神農の法則なり」

 伝説の帝王でもあり医薬の神でもある、黄帝や神農の生きる法則と言うのは、「道徳に乗り浮游する」ことです。ここで荘子が言うところの道徳は儒者のそれと少し異なり、森羅万象、自然の道の働きのようなものです。中国の伝統医学、漢方も鍼灸も、『黄帝内経』を基礎としていますが、これも自然というものを重視しています。

 白楽天とは、白居易とも呼ばれ、唐代の詩人です。ここでの引用は、「省試性習相近遠賦」という詩からであり、益軒は「無病長生」は神仏が決めるのではなく、「我にあり」、慎むことの重要性を説くために白楽天の詩を用いました。白楽天は、「慎の義は、匪に莫く、道に率いて本を為し、善を見て遷す。誠偽を既往に観て、未然に進退を審らかにす」と言いました。行動をよく考え推理し慎重にする、それが「福と禍」の分かれ目なのです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

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