「田中一村展」は十数年前
栃木に住むペンスケッチ仲間に誘われて
蔵の町として名高い栃木市にスケッチに行った時に
たまたま開催中の「田中一村展」の前を通りかかり
折角だからと二人で入場したのが最初の田中一村との出合いでした
生命力に溢れた木々や花や鳥と自然が緻密な描写で
しかも大胆なデフォルメもされていて圧倒されたことを思い出します
今回は大回顧展としてNHKの日曜美術館でも取り上げられていて
ずっと見たいと思っていました
何重もの人垣の後ろから見るのも息詰まるし・・・
会期の終わり近くになれば少しは空くかもしれないと思っていましたので
今回お墓参りで都心に出た折に娘と一緒に見ることにしました
会場にはやはり多くの人がいましたが動きがとれない程ではなく
前列で見ることもできるくらいの余裕はありました
1908年(明治41年)栃木県で生まれた一村は
東京で育ち少年時代から彫刻家の父稲邨から絵の指導を受け
神童と呼ばれるほどの才能を発揮し「米邨」の雅号で
学校に行きながら多くの絵を描いていたようです
8歳の時の絵です
17歳で東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に入学しましたが
2カ月で退学 同期に東山魁夷 橋本明治 加藤栄三ら
後の日本画壇の錚々たる重鎮がいたそうです
退学と相前後して父と二人の弟を亡くし 母も亡くなり
祖母 姉 妹を抱えて30歳の時に千葉に移り住み
農業で自給自足の生活をしつつ一匹狼として絵を描き続ける中
30歳の時「白い花」で川端龍子に認められて青龍展に入選しました
「白い花」
ところが翌年出品した「秋晴」は評価されず 川端龍子とも決別して
昭和33年(1958年)50歳の時に全てを整理して奄美に移住しました
絹織物の工場で染色工として働いてお金を貯め
生活を切り詰め すべてを投げうち
ただ一筋に絵の制作に打ち込んだ・・・
どんな困難があっても最後までやり抜くと固く決心し
生命力溢れる奄美の自然を描きながら
そこから感じられる目には見えない世界までも写し取る
チャレンジをし続けて
1977年(昭和52年)69歳で
壮絶な人生を閉じました
長々と田中一村の人生をご紹介したのは
数々の困難に襲われながら めげずに自分の求める絵を追求した
真剣な姿勢と強固な意志にあらためて感動したからです
どの絵も素晴らしかったのですが
私が惹かれた絵の一部をご覧ください
「秋色」 昭和10年代
「野の馬」 昭和20年代
私にとってとても参考になった絵です
「秋色虎鶫」 1950年代
「ずしの花」 昭和30年
九州への旅にて 阿蘇
1958年に己の道を求めて奄美へ移住
「ポインセチアとツマベニチョウ」
「海の幸」
「初夏の海に赤翡翠」
「草花に蝶と蛾」
納得できる作品が描けた時に
「これは一枚100万円でも売れません
これは私の命を削った絵で閻魔大王えの土産品なのでございますから」
と手紙に書いたそうです
そして
「わが人生の最後まで絵を描き続けられることになりました。
感謝はとても言葉ではつくされません。 ありがとうございました」とも・・・
(最初と最後の画像以外はすべて図録から引用いたしました)
「田中一村展」は12月Ⅰ日まで開催しています
一人でも多くの方に一村の「魂の絵画」をご覧いただけますように🙏