駄楽器駄日記(ドラム、パーカッション)

ロッキンローラーの打楽器日記

わっちゃん(ワッツ)のこと

2006年10月17日 | 駄日記
今夜のお通夜から帰ってきた。
オレは受付の大役を仰せつかって、始めから最後まで見つめていた。
沢山のミュージシャンが集まって、ある意味豪華なお通夜だった。
遠方から駆けつけた懐かしい顔、厳ついヒゲ面なのに涙を止められない顔、泣き崩れてしまう人、未だに信じられないと言って焼香に行けない人、本当に沢山の人がわっちゃんの死を悼んで集った。
オレは思った。
「この人達は仕事上の義理で集まった人達ではない。自らの意思で駆けつけた人達だ。オレがもし死んでもこんなに沢山の人は集まらないだろう。こんなに大勢の人が泣いてはくれないだろう。」
オレは、受付台の中から自分の中にある嫉妬心を見つけた。

オレはここ4~5年の間、わっちゃんと最も遊んだ仲間の一人だった。
遊んだというのは、当然のことだが一緒に音楽活動をしたという意味だ。
5年ぐらい前にはワッツ(G,Vo)、テツ(B)、コウ(G)という昔の「5WD」というバンドの頃のメンバーで、C・C・Rのコピーバンドをやった。残念ながら人前でライブをすることはなかった。
それからはASAこと朝若氏とギターのトモ君とのユニット「WAX」で、それから今年の春まではミチヤス氏とWATTSで頻繁に練習し、精力的にライブ活動をした。
そして、夏からは、また再びASAを交えて「バーバラ・アン」の再活動を目指して25年前の曲をレコーディングし始めたところだった。メンバーにはSAXのいっちゃんも参加して豪華な音作りを目指していた。

昨日の夜は、ワッツとアッサの二人で「バーバラ・アン」時代の曲を歌入れをする予定だったのだ。
ドラムのオレも一緒だと思った彼の奥さんのKちゃんがオレの携帯に連絡してくれて、「暫く練習できないと思う」と言う。
オレは驚いて病院に駆けつけた。
しかし状況を全く知らないので、まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わず、励ましの言葉をかけようと思って車を走らせたのだが、集まった親族と共にわっちゃんの最期に立ち会うことになってしまった。
どういう因果だろうか、ワッツの音楽活動の初めの時期と終わりに立ち会うことになった。
病院からの帰り、涙が止まらなかった。

4~5年前から昨日までの間、ワッツは精力的にひたすら曲を作り、セルフレコーディングした。
音楽的才能が長けている彼は、自分でリズムを打ち込み、ベースを弾き、ギターを弾き、キーボードを弾き、ハーモニーを入れ、歌を歌っていた。

勿論、仕事をし、家庭も守りつつ、音楽をしていたということである。やつは酒も飲み、タバコも吸っていたが、自堕落な生活はしていなかった。
ただ、いったん羽目を外すと、とことん酔っ払うこともあった。
ビールに焼酎をドボドボとつぎ込んで、ドまずい飲み物をこしらえては「びーちゅ~」とか言ってグイグイ飲んでいた。
元板前でもありサービス精神も旺盛な彼は、酔っ払った手つきで料理を作り、食わせてくれた。
朝若氏の自宅で朝まで飲んだ日には、酔って玉ネギをさくさくと刻み、ついでに自分の指の皮まで刻んで泣いていた。
三ケ日にあるわっちゃんお気に入りのハコ「パラディソ」で、冬にはたくさんの鍋を作り、鍋パーティーをした。
今年のゴールデンウィークにおこなった「BBQライブ」には、ワッツ特製スペアリブやら、何とかサラダとかカレーとか、たくさんの料理を作りつつ、ギターを弾き歌い、出演者や観客を楽しませてくれた。


自分は都合で参加できなかったが、初夏にはアサリ汁ライブをやって、またもや演奏とご馳走を振舞ったらしい。
その腕を生かして「娘が二十歳になったら、店を持ちたい」という夢もあったのだそうだ。

昨夜遅く、葬祭センターで年老いた彼のお父さんが物言わぬわっちゃんと二人きりになった時、わっちゃんの体から、すうっと光り輝く霊が起き上がったそうだ。
そして、自宅のある方向にそそくさと帰って行ったらしい。
きっと、レコーディングの途中なので、MTRのデータを仕上げるために帰って行ったのではないか。
ワッツとはそんな音楽バカなのだ。
コメント (2)
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渡辺氏通夜

2006年10月17日 | 駄日記
日時:本日17日19:00より
場所:豊橋市東新町(国一沿い)
出雲殿(イズモ葬祭センタ)にて
故渡辺昌裕氏の通夜が仏式にて行われます。

告別式は、明日18日10:00より同所にて。
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