あらはばき神社(多賀城)の追加資料編です。
最近の状況を写真に収めてきました。
どうやら多賀城市が手を加えたらしく、鳥居は朱色に塗られ案内版も新しくなっていました。
しかし、「あらはばき」の資料としては、江戸時代からの謂れを説明しており、古代の説明はありませんでした。
当然でしょう、伝承としてはあっても確たる証拠がありませんからね。
その内容は最後に記します。
「あらはばき神社道」の文字が見えます。 小さいほうもそうなのですが市川村の文字も・・・
寄贈した人の名前もあるように見えますが、一寸読めませんでした。
どうやら石面には新しくペイントしたようです。
新たに塗られた鳥居です。 どうも塗らない方が・・・でも木が傷みますかね?
養蚕(ようきん)神社
※養蚕神社
古くは立石(壺の碑)のある岡に鎮座していた。コガイサンと呼ばれている。
かつてこの地では養蚕が盛んであったが、現在この神を養蚕の神とする信仰はない。
喘息の平癒に霊験があるとされ、願う者は痰の根を切るといって、供えられている鋏(はさみ)を
一挺(いっちょう)借り受け、礼詣りに二挺にして納める。
社には供えられた多くの鋏がある。
「水金神」の文字が見えますね。
道祖神の扁額・・・今まで気づきませんでした。 荒脛巾神社の奥にありました。
しかし、奉納は明治三十二年十一月十一日、遠田郡涌谷町の文字が見えますね。
太子堂
荒脛巾神社
多賀城市市川に鎮座する荒脛巾神社は、足の神様として知られており、旅の安全を祈願する人々によって厚く信仰されました。
建立年月日は不明ですが、安永三年(一七七四)に作成された市川村風土記には、鹽竃神社の末社の一つとして記載されており、仙台藩主伊達氏も社領を寄進して保護していました。
社名にある脛巾とは、旅に出るときに脛に巻き付ける布のことであり、かつては祈願成就の際に奉納された脛巾が多数納められていました。
現在は足に限らず、腰から下の病気にも効き目があるととして、性病や婦人病にも効き目があるとして、性病や婦人病に悩む人々の信仰も集めています。
社殿の左手には太子堂、右手には養蚕(ようきん)神社があり、病の根を切るという信仰から鋏(はさみ)が多数奉納されています。
平成二十年十月 多賀城市教育委員会
文献から見れば、しかたのないことですね。
やはり、この解釈は江戸時代から近年の話ですね。
私の史観では、蝦夷の時代または縄文にはあったと思います。
当然、荒脛巾を知らない方は古い神社と思うくらいでしょう。
脛巾の説明がありますが、「あらはばき」の文字は、この文字だけではありません。
ですから、足の神様としたのは、この扁額の文字から解釈したもので、脛に付ける脛巾とあらはばきの脛巾をごっちゃに考えるべきではないと思います。
「あらはばきじんじゃ」の文字は、私が記事に書いた通り多くの文字が使われております。
ですから、あらはばきが足の神様とするのは、いかがかと????
それにここは、旧、阿良波々岐明神社と言われていたはずです。
勿論、神様の性格が変わっていくことは、周囲の人々の信仰によるものが大きいので、ここはここ!
とすれば何の問題も無いのですがね。
菅原道真はそもそも学問の神様ではなかったはずです。祟りを封じ込めた神社は歴史やその時代の人々の都合でどんどん変って行くものなのですね。
出雲を調べているとある神社は本当の祭神を隠し、見せ掛けの神を祀っています。
知られたら困るからです。
これは、出雲の記事を今後書きますのでそこでご紹介します。
まずは、多賀城にある荒脛巾神社の現在の写真です。
「あらはばきに」については、今後追記していくつもりですが、初めての方で興味があるのであればこちらをご覧下さい。
このHPの記事を見ていると私の考え方が変っているのが分かります。
追記については、出雲の神族や東北の縄文時代を代表する遺跡三内丸山遺跡などもう少し調べてから記したいと思っています。
特に出雲は密接な関係があると思います。
「あらはばき」はこちらにまとめています。
「アラハバキと謎の古代史」
市史による説明は荒脛巾神社:多賀城に記載しています。
最近の状況を写真に収めてきました。
どうやら多賀城市が手を加えたらしく、鳥居は朱色に塗られ案内版も新しくなっていました。
しかし、「あらはばき」の資料としては、江戸時代からの謂れを説明しており、古代の説明はありませんでした。
当然でしょう、伝承としてはあっても確たる証拠がありませんからね。
その内容は最後に記します。
「あらはばき神社道」の文字が見えます。 小さいほうもそうなのですが市川村の文字も・・・
寄贈した人の名前もあるように見えますが、一寸読めませんでした。
どうやら石面には新しくペイントしたようです。
新たに塗られた鳥居です。 どうも塗らない方が・・・でも木が傷みますかね?
養蚕(ようきん)神社
※養蚕神社
古くは立石(壺の碑)のある岡に鎮座していた。コガイサンと呼ばれている。
かつてこの地では養蚕が盛んであったが、現在この神を養蚕の神とする信仰はない。
喘息の平癒に霊験があるとされ、願う者は痰の根を切るといって、供えられている鋏(はさみ)を
一挺(いっちょう)借り受け、礼詣りに二挺にして納める。
社には供えられた多くの鋏がある。
「水金神」の文字が見えますね。
道祖神の扁額・・・今まで気づきませんでした。 荒脛巾神社の奥にありました。
しかし、奉納は明治三十二年十一月十一日、遠田郡涌谷町の文字が見えますね。
太子堂
荒脛巾神社
多賀城市市川に鎮座する荒脛巾神社は、足の神様として知られており、旅の安全を祈願する人々によって厚く信仰されました。
建立年月日は不明ですが、安永三年(一七七四)に作成された市川村風土記には、鹽竃神社の末社の一つとして記載されており、仙台藩主伊達氏も社領を寄進して保護していました。
社名にある脛巾とは、旅に出るときに脛に巻き付ける布のことであり、かつては祈願成就の際に奉納された脛巾が多数納められていました。
現在は足に限らず、腰から下の病気にも効き目があるととして、性病や婦人病にも効き目があるとして、性病や婦人病に悩む人々の信仰も集めています。
社殿の左手には太子堂、右手には養蚕(ようきん)神社があり、病の根を切るという信仰から鋏(はさみ)が多数奉納されています。
平成二十年十月 多賀城市教育委員会
文献から見れば、しかたのないことですね。
やはり、この解釈は江戸時代から近年の話ですね。
私の史観では、蝦夷の時代または縄文にはあったと思います。
当然、荒脛巾を知らない方は古い神社と思うくらいでしょう。
脛巾の説明がありますが、「あらはばき」の文字は、この文字だけではありません。
ですから、足の神様としたのは、この扁額の文字から解釈したもので、脛に付ける脛巾とあらはばきの脛巾をごっちゃに考えるべきではないと思います。
「あらはばきじんじゃ」の文字は、私が記事に書いた通り多くの文字が使われております。
ですから、あらはばきが足の神様とするのは、いかがかと????
それにここは、旧、阿良波々岐明神社と言われていたはずです。
勿論、神様の性格が変わっていくことは、周囲の人々の信仰によるものが大きいので、ここはここ!
とすれば何の問題も無いのですがね。
菅原道真はそもそも学問の神様ではなかったはずです。祟りを封じ込めた神社は歴史やその時代の人々の都合でどんどん変って行くものなのですね。
出雲を調べているとある神社は本当の祭神を隠し、見せ掛けの神を祀っています。
知られたら困るからです。
これは、出雲の記事を今後書きますのでそこでご紹介します。
まずは、多賀城にある荒脛巾神社の現在の写真です。
「あらはばきに」については、今後追記していくつもりですが、初めての方で興味があるのであればこちらをご覧下さい。
このHPの記事を見ていると私の考え方が変っているのが分かります。
追記については、出雲の神族や東北の縄文時代を代表する遺跡三内丸山遺跡などもう少し調べてから記したいと思っています。
特に出雲は密接な関係があると思います。
「あらはばき」はこちらにまとめています。
「アラハバキと謎の古代史」
市史による説明は荒脛巾神社:多賀城に記載しています。
鋏や履物の奉納、そういう意味があるんですか。
文字からのこじつけめいた信仰、藁にもすがりたいという庶民の信仰心とか苦しさも感じます。
大いに期待しています (^^♪
出雲との つながり
どう交流したんでしょう~か?
さらに
期待!!! (^_-)~☆
大昔であれば、太陽の力や噴火する山を神の力と考えるのが普通だったことでしょう。
簡単にまとめるとこんな感じですね。
今私が出雲に居たらあちこちの神社を調べているでしょう。
ここを見て下さい。
http://moon.ap.teacup.com/20060505/6.html
アラハバキ~^学会もありますね。
ひーさんも参加しているのかな~~
面白そうですね。
結論はでないんだろうな~?
知しっていたらあんに毎日TVカメラの前で言えないかも?
いやいや実は「お上」は何かを隠しているのかもしれませんよ。
蝦夷の時代には奥州こそがこの国の中心であって畿内の中央政府は・・・
3枚目の写真。社の杜?へ小道が続いています。こんな風景にグッと来てしまいます。
中央政権以外の所謂蝦夷や熊蘇のような文化は間違いなくあったわけですからね。