仙台藩刑場跡
元禄3年(1690年)米ヶ袋刑場から移されたもので牢舎は片平丁にあった。
この刑場は百姓や町人などの罪人が対象で、明治維新まで178年にわたり、磔(はりつけ)、火焙(ひあぶり)、斬首(うちくび)、獄門(ごくもん)などの刑が執行された。
処刑された人は述べ5,300人とも7,000人とも言われている。
仙台藩五代藩主伊達吉村公夫人長松院(ちょうしょういん)がこれまで死者を弔う仏堂が無いことを憂いて遺言により、延享3年(1745年)刑場の南に河南堂、北に河北堂(かほくどう)の常念仏堂(じょうねんぶつどう)を建てた、河南堂に掲げてあった「抜苦(ばっく)」の額は今も山の寺同雲寺に保存されている。
西を向いている石の地蔵は奥州街道(旧4号線)の東側にあったが、昭和54年に道路拡張により現在地に移された。
この地ではオランダ医学を学んだ木村寿禎(きむらじゅてい)が寛政10年(1798年)腑分(ふわけ・解剖)を行ったといわれ、七北田刑場腑分供養碑が建ててあった。
以前に書きました仙台藩犯科帳に当時の処刑の状況を記載しております。
刑場にたつお節地蔵
仙台藩犯科帳にこの像に纏わる話がありました。引用させていただきます。
「女川口説き」の表現を借りれば
「かねて能登様深色好きで奉公務めは気詰めとありて病気つくって御願い上げて急ぎ女川在郷なさる」
「奥州桃生郡女川くどき」は嘉永年間(1846~54)の成立で五段六十七丁に及ぶ写本である。
何のことか難しいですね。「飯田口説」によって事件の概要を記します。
事件の概要は・・・・
能登の妻はお節といい、年は二十六(口説きでは二十二)の女盛りである。
能登は若い娘をそばにはべらせて遊興の限りを尽くしていた。
夫に無視されたお節は「いらぬ花よと振り捨てられて無念涙で月日を送る」という日を過していた。
このような時に、能登の家臣の日撓喜右衛門(にっとうきえもん)とお節が懇(ねんごろ)となり「能登妻と兼ねて密通しおり、主人を蔑(ないがし)ろにするの状、日を追って長じ」という有り様となった。
事件は宝暦ニ年四月八日(口説)、女川村の鎮守お薬師様の祭礼の日に起こった。
祭りの酒に疲れまどろんでいる能登のそばを喜右衛門が通る。
能登は「さてもあやしや何者なるぞ」と能登は喜右衛門を追い、刀を抜いて立会いとなった。
「口説き」ではお節が「母譲りの薙刀出して」と喜右衛門に助太刀をし、能登を切り伏せられた。
主殺し・密通は天下の大罪である。我に返って事の重大さを覚った二人は、山を越え三陸海岸沿いに南部領へ落ちていく。
高田から釜石へと必死の逃避行を続けたが、町同心の二兵衛及び三右衛門に探索され、召し捕られて片平丁の牢屋に入れられた。
検使役人蜂屋六左衛門の検使の結果を詳細に記した報告書があり、この本にも記載がありますが割愛します。
仙台市泉区七北田字杉ノ田
元禄3年(1690年)米ヶ袋刑場から移されたもので牢舎は片平丁にあった。
この刑場は百姓や町人などの罪人が対象で、明治維新まで178年にわたり、磔(はりつけ)、火焙(ひあぶり)、斬首(うちくび)、獄門(ごくもん)などの刑が執行された。
処刑された人は述べ5,300人とも7,000人とも言われている。
仙台藩五代藩主伊達吉村公夫人長松院(ちょうしょういん)がこれまで死者を弔う仏堂が無いことを憂いて遺言により、延享3年(1745年)刑場の南に河南堂、北に河北堂(かほくどう)の常念仏堂(じょうねんぶつどう)を建てた、河南堂に掲げてあった「抜苦(ばっく)」の額は今も山の寺同雲寺に保存されている。
西を向いている石の地蔵は奥州街道(旧4号線)の東側にあったが、昭和54年に道路拡張により現在地に移された。
この地ではオランダ医学を学んだ木村寿禎(きむらじゅてい)が寛政10年(1798年)腑分(ふわけ・解剖)を行ったといわれ、七北田刑場腑分供養碑が建ててあった。
以前に書きました仙台藩犯科帳に当時の処刑の状況を記載しております。
刑場にたつお節地蔵
仙台藩犯科帳にこの像に纏わる話がありました。引用させていただきます。
「女川口説き」の表現を借りれば
「かねて能登様深色好きで奉公務めは気詰めとありて病気つくって御願い上げて急ぎ女川在郷なさる」
「奥州桃生郡女川くどき」は嘉永年間(1846~54)の成立で五段六十七丁に及ぶ写本である。
何のことか難しいですね。「飯田口説」によって事件の概要を記します。
事件の概要は・・・・
能登の妻はお節といい、年は二十六(口説きでは二十二)の女盛りである。
能登は若い娘をそばにはべらせて遊興の限りを尽くしていた。
夫に無視されたお節は「いらぬ花よと振り捨てられて無念涙で月日を送る」という日を過していた。
このような時に、能登の家臣の日撓喜右衛門(にっとうきえもん)とお節が懇(ねんごろ)となり「能登妻と兼ねて密通しおり、主人を蔑(ないがし)ろにするの状、日を追って長じ」という有り様となった。
事件は宝暦ニ年四月八日(口説)、女川村の鎮守お薬師様の祭礼の日に起こった。
祭りの酒に疲れまどろんでいる能登のそばを喜右衛門が通る。
能登は「さてもあやしや何者なるぞ」と能登は喜右衛門を追い、刀を抜いて立会いとなった。
「口説き」ではお節が「母譲りの薙刀出して」と喜右衛門に助太刀をし、能登を切り伏せられた。
主殺し・密通は天下の大罪である。我に返って事の重大さを覚った二人は、山を越え三陸海岸沿いに南部領へ落ちていく。
高田から釜石へと必死の逃避行を続けたが、町同心の二兵衛及び三右衛門に探索され、召し捕られて片平丁の牢屋に入れられた。
検使役人蜂屋六左衛門の検使の結果を詳細に記した報告書があり、この本にも記載がありますが割愛します。
仙台市泉区七北田字杉ノ田
自由恋愛とか不倫が許されなかった時代、こういう悲劇はもっとあったでしょうね。
今でも不倫はいけませんが。
腑分けですか。オランダの医学書と首っ引きの観察。冷静になろうと努めても膝はガクガクでしたでしょうね。
それよっか俺の腰はどうなってるんじゃ!誰か解剖を・・・あっとあの世に行ってからですよー
その部屋は開かずの間になっています。
半身になった姿が壁に映るそうです。
長いんですか?
わかった!! なんかの罰が当たったか?
(例 ミセス・ヒー 家人T ww)
フリンセズ フリンセズ ww
って言えば・・・ (・_・)こっちでは・・・サンシャイン60が・・・ 立っちゃってますわ♪ ・・・・。
現在の東仙台のNHK電波塔の辺りが仙台藩の処刑場で天還(天に還る=死んで昇天する)
北側の図書館辺りが念仏壇(処刑者の弔い場)だったらしい…
他に岡田の骨葬畑なんかも処刑者の埋葬地だったとか…