岩手県の面積は県では日本一の面積であることはよくご存知でしょう。
四国四県とほぼ一緒とも言われます。
それでは、岩手県の「岩手」はどのような理由から名が付いたのでしょう。
大和物語りによれば「平城天皇の御代にみちのくの国から鷹が献上され帝はこれは岩手となづけた」とある。
しかし、一般的な俗説としては、「三ツ石と鬼の手形」の物語りが岩手の地名や不来方(こずかた)の起源や地名であるといわれている。
昔、この地方に羅刹(らせつ)という鬼が住んでいました。
鬼(羅刹)は付近の住民を悩まし、旅人を脅していたのです。
そこで人々は、三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛り付けました。
鬼(羅刹)は、二度と悪事はしないし、また二度とこの地方にはやって来ないことを誓ったので、約束の印しとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやり、それからこの手形の痕には苔が生えないといわれています。
しかし、長い年月が経っているので今ははっきりしません。
この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だと言われています。
また、鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられています。
「不来方」こずかた・・・・「ふうらいぼう」じゃありませんよ。
鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り、神様に感謝の真心を捧げたそうです。
この踊りが名物の「さんさ踊り」の起源といわれています。「さんさ踊り」の名前は、「さしあげ踊り」つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとか…色々説があるようです。
三ツ石は元々一個の大きな岩でいつの時代かは知ることは出来ませんが三ッに割れて現在の姿になったようです。
昔、この地方を愛宕町・名須川町・三ツ割村とあって三ツ石野と呼んでいたそうだ。
神社には、少名彦尊・稲荷大明神を祀っており増産・医療・縁結びの神様として崇敬されている。
「こずかた」だが、「小塚田」=小さい丘 「巾子(こじ)形」=冠の頂の形 アイヌ語のコチ・カタ=川の跡や河畔などの諸説もあるがあまりこじつけると本来の意味が見えなくなってしまうような気がします。
「不来方」をもっとも世に広めたのは、やはり「石川啄木」でしょう。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし 十五の心
不来方城は、清原武則の甥、橘頼為が領主となっていましたが、後に南部氏が「不来方城」を拡大して築いたものです。
清原とは、出羽国秋田の豪族ですね。
あの平泉の前九年・後三年の役に登場する清原です。
知らない方は右から左へ聞き流して下さい。
本題から外れましたので戻します。
まず、その岩がこれです。
でかいです
ひーさんが眺めていたのは・・・これです。
勿論、これは模造品です。
本物の岩には手形が消えてしまったようです。
それでは、申し訳ないので・・・「ひーさんの手形」
この手形を世間では、不渡り手形といいます。 気をつけてくださいよ。
会社がつぶれますよwwww
岩のヒビにはコインが詰めてあります。
盛岡市内を通るとこんな洒落た銀行があります。
今でも現役ですよ。
今回は盛岡が目的地ではなかったので、車窓から撮影・・・
市内はいずれ・・・
わかりましたか? これが岩手の語源です。
嘘か本当かは、ご自分で判断してください。
誰ですか? 「鬼の居ぬ間に洗濯」などと云っているのは?
四国四県とほぼ一緒とも言われます。
それでは、岩手県の「岩手」はどのような理由から名が付いたのでしょう。
大和物語りによれば「平城天皇の御代にみちのくの国から鷹が献上され帝はこれは岩手となづけた」とある。
しかし、一般的な俗説としては、「三ツ石と鬼の手形」の物語りが岩手の地名や不来方(こずかた)の起源や地名であるといわれている。
昔、この地方に羅刹(らせつ)という鬼が住んでいました。
鬼(羅刹)は付近の住民を悩まし、旅人を脅していたのです。
そこで人々は、三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕らえてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛り付けました。
鬼(羅刹)は、二度と悪事はしないし、また二度とこの地方にはやって来ないことを誓ったので、約束の印しとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやり、それからこの手形の痕には苔が生えないといわれています。
しかし、長い年月が経っているので今ははっきりしません。
この岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だと言われています。
また、鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられています。
「不来方」こずかた・・・・「ふうらいぼう」じゃありませんよ。
鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り、神様に感謝の真心を捧げたそうです。
この踊りが名物の「さんさ踊り」の起源といわれています。「さんさ踊り」の名前は、「さしあげ踊り」つまりお供え物をして踊るというのが短くなったとか、三十三も踊りの種類があるので「さんさ」というのだとか…色々説があるようです。
三ツ石は元々一個の大きな岩でいつの時代かは知ることは出来ませんが三ッに割れて現在の姿になったようです。
昔、この地方を愛宕町・名須川町・三ツ割村とあって三ツ石野と呼んでいたそうだ。
神社には、少名彦尊・稲荷大明神を祀っており増産・医療・縁結びの神様として崇敬されている。
「こずかた」だが、「小塚田」=小さい丘 「巾子(こじ)形」=冠の頂の形 アイヌ語のコチ・カタ=川の跡や河畔などの諸説もあるがあまりこじつけると本来の意味が見えなくなってしまうような気がします。
「不来方」をもっとも世に広めたのは、やはり「石川啄木」でしょう。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし 十五の心
不来方城は、清原武則の甥、橘頼為が領主となっていましたが、後に南部氏が「不来方城」を拡大して築いたものです。
清原とは、出羽国秋田の豪族ですね。
あの平泉の前九年・後三年の役に登場する清原です。
知らない方は右から左へ聞き流して下さい。
本題から外れましたので戻します。
まず、その岩がこれです。
でかいです
ひーさんが眺めていたのは・・・これです。
勿論、これは模造品です。
本物の岩には手形が消えてしまったようです。
それでは、申し訳ないので・・・「ひーさんの手形」
この手形を世間では、不渡り手形といいます。 気をつけてくださいよ。
会社がつぶれますよwwww
岩のヒビにはコインが詰めてあります。
盛岡市内を通るとこんな洒落た銀行があります。
今でも現役ですよ。
今回は盛岡が目的地ではなかったので、車窓から撮影・・・
市内はいずれ・・・
わかりましたか? これが岩手の語源です。
嘘か本当かは、ご自分で判断してください。
誰ですか? 「鬼の居ぬ間に洗濯」などと云っているのは?
鬼の手形説 、「三ツ石と鬼の手形」この石がニョキっと 三ッ石神社にあるのですか・・・
岩手に行く前に そういう事調べて行けば良かったなぁ~
れーめんとか食べる物ばかり 興味があって
その割には人通りも少なく、寂しい場所になっています。
18歳の頃、天主跡に空を見上げて佇んだことがあります。
鬼=蝦夷のことを指し示すのでしょうか。
阿部氏や清原氏に藤原氏。近世では北から南部氏が、さらに南から伊達氏の圧力もあり・・・
岩手の地にも奥深い歴史がありますね。
遠い親戚が岩手で 昔 良く行きましたよ。
確かに 地元の方から 鬼の手形かた 岩手となったと 聞きました♪
それにしても あの岩、でっか“いわ~”
(ゴホゴホ 汗)
どやって 運んだんでしょうね?
未来社から出ている『岩手の民話』にも「岩の手形」の題名で収録されています。
地名の由来の話だけあって、一番最初です。
岩の手形は、今回の写真で初めて見ました。
「三ッ石」といえば、裏岩手連峰です。
八幡平から岩手山に続く縦走コースに
「三ッ石山」という山があります(松川温泉からも登れます)。
十年ぐらい前に歩いたのですが、
頂上に岩が三つさるのを思い出しました。
不来方城の本丸と二の丸ですが、仙台城の本丸と同様、
東北と関東では例外的に壮大な石垣がありますね。
クロンシュタットさんは天守跡で空を見上げてたたずみましたか。
私は石垣をよじ登ったことがあります。
ぱはり、これを食べないと、盛岡に来た意味がありません。
腹が減っては戦は出来ぬ。ですね。
ここは、狭いところにあるので、観光客は知らないと思います。
大昔なら、逆に蝦夷の方の人口が多いですが、平泉が滅ぼされてしまった後なら逆転した可能性が多いですね。
でも可能性は0ではないですね。
外国人かも知れないし?
岩のところに神社を建てて、三ツ石神社にしたのでしょう。
それにしても、想像を絶する大きさでした。
今、地図を見てましたら岩手山の南西に鬼ヶ城1654mの山を見つけました。
鬼伝説は日本中にありますから、気になるところです。
調べたい課目ですね。
いつも奥方とご一緒♪
ヒューヒュー ww
ウチのは最近、暑いので、付き合い悪いです
わかりやすいですね
県の名前というのは
その当時の成り行きで
きまってるところが多いようですね