舞妓を描いて見ましたので、政宗公の京都での話しを…
文禄元年(1592)正月二日、政宗公が26歳の時です。
豊臣秀吉の命令で朝鮮に向かうことになります。
秀吉は公に、遠国で、また大崎・葛西一揆の騒動の後なので、出動人員は千五百人と指示をしたのですが、政宗公は三千人を引き連れて上洛したのです。
二月十三日一行は京都に着きました。
公は二度目でしたが、三千の兵士はこの時始めて京都を目にしたそうです。
三月十七日
秀吉の出動命令が出ました。
一番隊は前田利家
二番隊は徳川家康
三番隊が伊達政宗公率いる軍勢です。
伊達勢の一番隊は、紺地に金の日の丸を描いた幟(のぼり)三十本。
二番隊は百挺の銃をかついだ鉄砲足軽。
三番隊は弓五十張
四番隊は百本の朱塗りの槍を持った足軽。
足軽達は黒の具足、いずれも朱塗の太刀は、こじり(刀剣の鞘の末端)が幅広く、櫂棒の形をし脇差の小刀は銀の熨斗附(のしづき/銀箔張り)の鞘で大小刀を腰に差し、高さ三尺の金色のとんがり笠をかぶっていました。
五番隊は馬上三十騎。
いずれも黒鎧に兜には半月の金色の前立が付いていました。
馬は、馬の尻に付ける組紐の大総(おおふさ/何重にも色糸を集めてくくった飾り)に
馬鎧は虎・豹・熊の皮や孔雀の尾で作っていたそうです。
騎士の大小の刀は、金箔張りで辺りも輝くばかりだったそうです。
原田左馬助宗時や遠藤文七郎宗信の背中には一間半の大刀を金の鎖で肩に釣っていました。
政宗公は兜の前立に三日月、「黒添五枚銅具足」の上に熊毛の陣羽織を着ていました。
出陣する兵士の見送りには慣れていた京の人々も、伊達の軍勢の豪華さと派手さに…
『あれはどこの大名の軍勢だ?』
『伊達じゃ』
『伊達者だ!』
と口ぐちに驚きの声をあげ、どよめいていたそうです。
さすが、伊達男ですね。
有名な水玉模様のカラフルな陣羽織は、仙台の博物館でも常設展示はしておらず私もまだ見ていません。
そもそも、いつから伊達者・伊達男なる言葉が出来たのは、私もよく調べてないのですが、文献にはこの日のことを伊達は派手豪華と記してます。
他にも
江戸に上り、周りの大名に田舎侍と馬鹿にされるのが嫌で派手な格好をしたとも聞いたことがあります。
派手の語源は、伊達からきたのでは?と言う人もいるくらいです。
長くなりました。
m(_ _)m
文禄元年(1592)正月二日、政宗公が26歳の時です。
豊臣秀吉の命令で朝鮮に向かうことになります。
秀吉は公に、遠国で、また大崎・葛西一揆の騒動の後なので、出動人員は千五百人と指示をしたのですが、政宗公は三千人を引き連れて上洛したのです。
二月十三日一行は京都に着きました。
公は二度目でしたが、三千の兵士はこの時始めて京都を目にしたそうです。
三月十七日
秀吉の出動命令が出ました。
一番隊は前田利家
二番隊は徳川家康
三番隊が伊達政宗公率いる軍勢です。
伊達勢の一番隊は、紺地に金の日の丸を描いた幟(のぼり)三十本。
二番隊は百挺の銃をかついだ鉄砲足軽。
三番隊は弓五十張
四番隊は百本の朱塗りの槍を持った足軽。
足軽達は黒の具足、いずれも朱塗の太刀は、こじり(刀剣の鞘の末端)が幅広く、櫂棒の形をし脇差の小刀は銀の熨斗附(のしづき/銀箔張り)の鞘で大小刀を腰に差し、高さ三尺の金色のとんがり笠をかぶっていました。
五番隊は馬上三十騎。
いずれも黒鎧に兜には半月の金色の前立が付いていました。
馬は、馬の尻に付ける組紐の大総(おおふさ/何重にも色糸を集めてくくった飾り)に
馬鎧は虎・豹・熊の皮や孔雀の尾で作っていたそうです。
騎士の大小の刀は、金箔張りで辺りも輝くばかりだったそうです。
原田左馬助宗時や遠藤文七郎宗信の背中には一間半の大刀を金の鎖で肩に釣っていました。
政宗公は兜の前立に三日月、「黒添五枚銅具足」の上に熊毛の陣羽織を着ていました。
出陣する兵士の見送りには慣れていた京の人々も、伊達の軍勢の豪華さと派手さに…
『あれはどこの大名の軍勢だ?』
『伊達じゃ』
『伊達者だ!』
と口ぐちに驚きの声をあげ、どよめいていたそうです。
さすが、伊達男ですね。
有名な水玉模様のカラフルな陣羽織は、仙台の博物館でも常設展示はしておらず私もまだ見ていません。
そもそも、いつから伊達者・伊達男なる言葉が出来たのは、私もよく調べてないのですが、文献にはこの日のことを伊達は派手豪華と記してます。
他にも
江戸に上り、周りの大名に田舎侍と馬鹿にされるのが嫌で派手な格好をしたとも聞いたことがあります。
派手の語源は、伊達からきたのでは?と言う人もいるくらいです。
長くなりました。
m(_ _)m
でも、宮城でそれを意ったら、非国民と言われます。
もう少し知りたいですね。
江戸時代だと微妙?
まだ伊達を名乗る前に『だて』が使われてれば、ハッキリするかも?
でも使ってそうですよね。
判官贔屓と言うことで…
あの派手な水玉です。
あの陣場織りを江戸時代に着てたのですから、半端な大名ではありませんね。
どの時に着たか忘れました。
「新言海」によれば、政宗公より「だて」ということばは古いそうです。慶長年代までの伊達氏は「いだて」と唱えた・・・からだそうですが・・・
クリアファイルのデザインの元は、水玉模様の陣羽織なのかしら?
まぁ、あまりの派手さに、奥州模様は上方と違って見苦しい!
と苦情があったようですが…
流石は伊達男達。絵や写真がなくても、言葉だけでも、その装束の華やかさが目に浮かぶようです。
たいしたことないですよ。ずぶの素人で見よう見まねで描いてるだけです。
退院したら、しばらく描かないと思うから…
今のうちに描いてます。
それに写真も無いと寂しいしね。
着物の中に体がちゃんと入っていますね。
すごいデッサン力で感心します。
>江戸に上り、周りの大名に田舎侍と馬鹿にされるのが嫌で
派手な格好をしたとも聞いたことがあります。
伊達政宗って自己表現力が上手な人だったのですね~。
外側も、見た目も大事ということですね。
昔は写真を見ながら人物画も数枚だけ書きました。
正に遺影でも描いてるように…
今回もバランスが難しい…
書き終えてから首が長すぎたと思い、着物の襟を高くして影をつけました。
その後、おでこが広すぎると思い最後に髪の生え際を下げて髪を付け加えたのです。
目が一番大事なので一度描いたら、修正しないか、全部消して書き直します。
やっぱり難しいです舞妓の顔は白塗りなのでそこは、手を抜きました。WWW
難しい舞妓さんの絵を巧く描かれていますね
人物画も苦手ですが、描かされるので困っています
伊達男は政宗さんから来ているという
話は定説ですよね。
仙台に住んでいるので、政宗さんの話題は大いに関心があります
伊達男は政宗から来ているのは間違いないです。
地元でも、逸話があります。
出陣の時も、水玉のカラフルな半纏を来て堂々と領内を出て行く時は、さすが伊達の殿様じゃ、これぞ伊達男と庶民は見送ったそうです。
身なりを整え、男らしい立ち居振る舞いをすれば伊達男!
と誰しもが言うでしょう。
かっこつけてる奴も伊達男に伊達メガネですかね。
確かに歌舞伎者=ハードロック=伊達者も広義の意味では同じですね。
同じ時代の言葉でかぶきもの・・
この言葉には昔のパンクのロッカーのようなニュアンスを感じるのは私だけでしょうか?