ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
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しおがまさまの不思議 1

2011年10月31日 10時59分54秒 | 塩竈の散歩道
この記事について、現在下書き中ですが、UPしております。
特にご興味が無ければコメントは結構ですのでパスして下さい。
纏まりましたらHPに纏めます。 それまで加筆、訂正があると思いますのでご了承下さい。
私も手探りの状態でメモ的に書いております。
また、誤字脱字が多い私ですのコメントでお知らせいただければ助かります。


鹽竈神社、それは陸奥国一宮を名乗り、またその社も陸奥国最大のものでしょう。
古くから県内外に関わらず多くの崇敬を受けている神社でもあります。
平泉の藤原三代をはじめ、中世の武将や豪族などからも厚い信仰を受け、近世には仙台藩主伊達家の守護神として、藩をあげて信仰されてきた大社でもあるのです。

また、全国にはここを本社とする鹽竈神社が110社もあります。
そして陸奥国一宮としては鎌倉時代の文献に出てきており大社であることは明らかなのですが「祭神も起源もはっきりしていない」のが事実です。

さて、鹽竈神社を語るには蝦夷の時代まで遡らなくてはなりません。
原住民である所謂蝦夷の集団があってその中心となっていた神があったはずです。
「日本書紀」に齊明天皇五年正月の阿部比羅夫征伐の條に
「即似船一隻與五色総帛彼 地神」とあり、ここに出てきた地神こそ蝦夷が崇拝していた神なのではないでしょうか。

原始的な信仰であれば、やはり自然崇拝であり、その中心となるものは山・川・湖・岩・石・太陽・海のようなものだったのでしょう。

ですから、当然最初は何の神と云うこともなく名前を持っていなかったのかも知れません。
(自分が一番興味があるのは、この時代の神の存在です。)

しかし、その神は大和朝廷の支配下になるとそこの移住民や朝廷までも崇拝するようになり、次第にその祭神が朝廷の神話に出てくる神々と置き換えられ考えられるようになってきたはずです。

それは大山祗神、高皇産靈神、大己貴神等と考えられ、または開発に関係の深い經津主神・武甕槌神或は日本武尊と考えるようになったのかも知れません。

この地に居住していた蝦夷なのか移住民なのかは別として、この地に何らかの形で神を祭っていたことは間違いないでしょう。

昔からあった民の神は他の社会と関係を持つことで、その土地に纏わる名前を持つようになります。
そこで、この神は塩竈の神とでも呼ばれることになったのでしょう?

中央の文化がこの地方に及ぶと塩竈の神が、日本神話に出てくる「鹽土翁」であると意識されてきます。
鹽土翁とは、鹽土神・鹽推神・鹽筒考翁とも称され「記紀」の山幸・海幸の物語に出て来て山幸彦を海神の宮に行くことを教えています。

海神の性格(潮流を司る神・航海の神)から考えられたのでしょう。
岐神(ふなどのかみ)は、舟戸神・久那戸神・(道祖神・ちまたのかみ)とも称され古事記・神代紀一書に伊弉諾尊がその境界として枝を投げて岐神としている。

古事記には伊弉諾尊が禊祓の際に、投げ棄てた杖から衝立舟戸神(つきたつふなどかみ)で脱ぎ棄てた褌(ふんどし)から道俣神(みちまたのかみ)が化生した。
つまり、分岐点に祀られる神の意です。
猿田彦と同神(日本書紀)と言われ、後に中国から伝来した道路の神である道祖神と集合した。
そこから、道祖神も猿田彦と同一視されるようになったと見られます。

神代紀の一書に經津主神、武甕槌神が平定に向かった際に高皇産靈神(タカムスビノカミ)のさとしにより、大己貴神(オオナムチ:大国主命)が岐神を二神に勧めて教道の神としている。
ここに、岐神と經槌主神、武甕槌神との関係が見えてきます 。

岐神と鹽土翁が同神のようにも見えるが岐神は境界に立っている神であり、道の分岐点を示す神です 。
共に道しるべの神であるところから教道の神となり。
この教道の神としての性格が、岐神と鹽土翁神が共通しているので両者が混同されてしまうのでしょう。


しかし、伝承の中には同一神とされているものもあるようです。
同一神だと面白くなるのが、岐神=久那戸神=猿田彦=道祖神の繋がりから
以前「古代出雲帝国」の記事で書いておりますが、出雲大社が杵築へ移る前までは熊野にあり、クナトノ大神を祀っています。

富氏の伝承には、この世界が一夜にして氷の山になった。
大先祖のクナトノ大神はその難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え海沿いを歩いた。
そして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。
クナトノ大神は色々な知識を持ち鉄の採り方、布の織方、農耕の方法などを教えた。また途中の地である塩竈にて塩作りを教えています。
人々を導いて来たことを考えると猿田彦の性格と合致しますね。

出雲大社の御神体は釜でであり、鉄にも関わりがあります。
出雲神族の大先祖は「クナト(岐神)」の大首長だが、もう一つの女首長に「アラハバキ」があり体勢側により抹殺されようとした時、クナトは地蔵にアラハバキは弁財天へと変身した。と伝承しています。

塩竈神社は岐神との関係が明らかですから、クナトとアラハバキが一対のものと考えられているので、元々はアラハバキの様な所謂蝦夷の時代または縄文時代に存在していた神の祠があったのだと想像がつきます。

どこにあったのか? 実は先日写真を撮りに行ってきました。
ここではないか? と思われるところです。
それは、後程・・・・・


さて、戻ります。
経津主神 ・武甕槌神 ですが、共に武神の神とされていることから、なかなか征服されない陸奥国北部の蝦夷を征伐するため。
そして、朝廷側の武威を高める為に、鹿島・香取に祀られた神を取り入れたのでしょう。
また、この二社は中臣氏(藤原氏)の本拠地でありつまり伊達家の先祖に当たることから両神が祀られる大きな要因の一つだったのかも知れません。

経津主神 ・武甕槌神 と鹽土翁は鹽土翁が岐神 であるから、両神の教導の神という形で結びついたのです。

猿田彦神すなわち岐神 と考えられた鼻節神社。
岐神 とされた志波彦神社等が元の神であり鹽竈神社がそこから移って来たといいます。

となれば、私の考えも満更捨てがたいことになりますね。
志波彦神社については後程。


それでは延喜式についてですが、延喜式神名帳(全国に3132社)に鹽竈神社の名がありません。
この事について明確ではないのです。

つまり、式内社では無いのですが、これについて色々な仮説を述べているようです。
しかし、仮説は仮説ですから真実かどうかは何とも判断しがたいところです。


陸奥国には総社(奏社)という別の神社が多賀城にあります。
総社というのは国中の神を纏めて祀ったものです。
これは陸奥総社宮で説明していますが、簡単に言えば、多賀城の国府に国司として赴任して来た者は陸奥国にある神社をすべて回ることになっていますが、それは大変なことであり事実上不可能でもあります。
そこで平安中期になると総社のシステムが構築されていったのですね。
そこで東門の外側のすぐ側に総社宮を建立し、そこに百社もの神社を祀り国司は総社宮に参拝すればすべての神社を参拝したことになるのです。
いたって、合理的でありますね。
この総社についても異説がありますので後程記したいと思います。

鹽竈神社には国土開発、蝦夷征伐という意味で、そのような性格の神だけがここに総合されたのではないか?と市史では大きな意味で鹽竈神社も総社の一部で武神だけを鹽竈神社に祀り国府多賀城の付近にあったので大いに崇敬される大社になったのであろうとしています。
しかし、私が思うには香取・鹿島の神を持って来たのは伊達綱村の時代ですから国府との関わりはもっと違った意味なのでは?と考えます。


御由緒の中で一番強調されている謎は「延喜式」において「式内社」とされていないのに、弘仁11(820)に編纂された「弘仁式」主税帳逸文には「鹽竈神を祀る料壱萬束」とあり国料を賜っていることが謎の一つです。

ここで、くどいようですが延喜式について説明しておきます。

●弘仁式
701年から819年までの式を集めたもの40巻。

●貞観格式(じょうがんきゃくしき)
三代格式の一、格は820年(弘仁11)より868年(貞観10)までの詔勅官符を編纂、翌年完成。12巻
式は弘仁式の補遺として変更新設した条文だけを編纂、871年完成。20巻

まず、日本古代の法典と養考律令がありました。
これは藤原不比等が学者・渡来人と大宝律令の条文字句の修正を開始し養老2年(718)完成したが、公式史料は伝えるが疑問あり・・・・しかし、編纂事業はその後も継続した。
720年に不比等の死後中絶するが、757年に藤原仲麻呂が公布施行。
律10巻約500条は大半散逸、令10巻約1000条は大半存在。

この養老律令の施行細則を集大成した法典が延喜式で醍醐天皇の命により905年に完成した全50巻。
弘仁・貞観の二式と併合して取捨と改訂したもの延喜式は三代格式のうちほぼ完全な形残存する唯一のものです。

この内巻1~10の神祈官関係の式があり、巻9・10は神名帳となっていて神社の一覧表となっています。
延喜式神名帳に記載のある神社を一般に式内社と言われる社格とされ当時朝廷から重要視された神社である。

平たく云えば式内社は朝廷に認められた神社ということになりますね。
逆に云えば朝廷に都合のいい祭神を祀っている神社とも云えますが?

しかし、この鹽竈神社は式外社であるにも関わらず、国税が与えられているから不思議なのですね。

延喜式の主税式には

陸奥国正税   六十万三千束
公 廨     八十万三千七百十五束
国司料     六十四万千二百束
鎭官料     十六万二千五百十五束
祭鹽竈神料    一万束
国分寺料     四萬米
文殊會料     二千束
救急料     十二万束

※束とは頴稲(えいとう)の単位(刈り取った稲のこと)
1束=10把 1把=10刈   把とは片手で握るという意味

主税式において国料を賜っている神社は鹽竃神社の他に

伊豆国の三島神 二千束
出羽国の月山大物忌神の祭料 二千束
淡路国の大和国魂神の祭料 八百束

があります。

三島神社は伊豆国の総社から発達した神で、月山・大物忌神(おおものいみのかみ)は、蝦夷征伐にて重要な関係のあった神とされ、大和国魂神も国土守護の神であった。

この四社だけが主税式に載せられている。

つまり、国料でまかなう必要があった神社を示しているのでしょう。
他の神社と比べるとかなり高額なのですが、国ごとの租税総額から見るとその割合は決して高くは無く平均的だと思います。


 国  名  祖稻総額    神社料   総額に対する比率
 陸奥国  1.582.715束  10.000束      0.6%
 伊豆国   179.000束   2.000束        1.1%
 出羽国     823.392束   2.000束        0.2%
 淡路国     126.800束    800束        0.6%

これを見ると、確かに鹽竈神社の祭料は多いのですが、割合を見ると0.6%で他国と比べると決して突出していませんね。

それでは前記しましたが、鹽竈神社の祭神の創設の時期については、古来より多くの説があり明確にすることは困難と言えます。
伊達家の崇敬が厚いことは、知られていますが特に四代綱村公の功績は大きく現在の社殿も綱村公から9年の歳月をかけ五代吉村公の宝永元年(1704)に竣工されたものです。

ところで現在の祭神ですが、伊達綱村はその祭神の一定せざるを嘆いて、元禄年間に儒馬遊佐好生等に命じて調査をさせた。とあります。
時の神祗管領吉田兼連と縁起を撰述し、その祭料を「左宮・武甕槌神、右宮・経津主神、別宮・岐神」と定め、一応「鹽竈神社 縁起」が成立した。

しかし、その後も異論はあり、縁起自身も問題で一応決定したに過ぎない。と市史には記述がある。
ところが今になってもその真実は不明のままで、現在の祭神が定着しているのが現実です。



今回はこの辺で・・・・参考資料は塩竈市史・広辞苑



しおがまさまの不思議2







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22 コメント

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鹽竈神社は式外社 (維真尽(^^♪)
2011-10-31 21:42:29
というところが
ポイントかもしれませんね

出雲の唐川に
韓竈神社というのがあるんですが
何か関係がある賀茂
返信する
維真尽さんへ (ひー)
2011-10-31 23:39:55
スゴ~ク古い神社で参拝が大変なところですね。
どうも、カラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するらしく。 祭神の素蓋嗚命が御子神と共に新羅に渡り「植林法」を伝え「鉄器文化」を開拓したと伝えられますから、朝鮮との関係が深いですね。
確か、素蓋嗚命も渡来人だったはず?
返信する
猿田彦 (酔漢です)
2011-11-01 12:24:18
鼻節神社はもとより、松島の神社(失念)がたしかさおうであったかと記憶しております。
志波彦さんは移設ですから、本来は延喜式社ではなかったのですよね。
今回のひーさん記事で、自身の仮設もあながち遠くはなかったと思いました。が、そこは浅はかな知識でしかございませんので、じっくり拝読させていただきました。
なるほど!
そうでしたか。
それにしましても。境内での悪さは数限りなく。深く反省しております。
返信する
酔漢さんへ (ひー)
2011-11-01 20:03:35
志波彦神社は岩切にある八坂神社が元です。
再度確認してから続きを記載したいと思います。
先日総社宮の神主さんとお話しする機会がありまして、確認したいことを聞くことができました。

そして、自分が記載したい不思議は七曲坂を上がりきった所にあります。
ここが、蝦夷もしくは縄文時代からあった最初の神を祀ったところではないか?と思っております。
返信する
なるほどです。 (酔漢です)
2011-11-02 07:48:56
七曲から参道へでるところに小さな祠がありましたが、そこでしょうか。
「七曲」が最も古い「表参道」と聞いたことがあります。
興味津々です。
続編、楽しみです。
返信する
酔漢さんへ (ひー )
2011-11-02 17:48:33
いずれ書きますが、昔は七曲坂しかなかったようです。
今の表参道(表坂)も女坂も無かったようです。

鹽竈神社も古文書や古い文献が無いため、宮司さんでもその起源は想確かではないので。
答えられないため、根掘り葉掘り聞くと嫌そうな顔をします。
返信する
Unknown (あーさん)
2011-11-02 22:45:04
式内社でない 一宮 というのが、どうにも解せませんねぇ

ここら辺 追究してくださいません?


道祖神と集合した 習合 が良いのでは?
返信する
あーさんへ (ひー)
2011-11-03 15:46:09
そこが問題なんですね。
宮城県の式内社をみると、意外とちっぽけな社が式内社だったりします。
ここは特に大きいし有名なのに・・それも不思議の一つです。次回に記述しますが神社庁に届けられている正式名称は「志波彦神社鹽竈神社」なのです。
普通に考えても不思議ですよね。
返信する
鹿島神社 (伝八郎)
2011-11-04 15:23:30
「塩釜神社は鹿島を向いて建てられている」と神職の方に聞いたことがあります。
また伝説によると塩釜神は最初に塩釜(多分、大昔の大根神社あたり??)に船で上陸し、その後陸路で鹿島に向かったとも伝えられています。

処で鹿島神のタケミカヅチ神と諏訪神のタテミナカタって、同じ武神で名前も似ていますねぇー。いつもゴッチャになってしまいます。
それと香取神の経津主命。「人を刀で切るとフッっと音がするからフッツヌシ」と呼ばれ、タケミカヅチとも同神とされています。

まっ、話しはそれましたが、神様で「ツチ・ヅチ」が付くのは、塩土老翁、カグツチ、テナヅチ・アシナヅチ、そしてタケミカヅチ神くらいですが、どうも関連がありそうです。
そしてタケミカヅチ神は鹿島の地主神。つまり国津神と言えます。

ここら辺がよく判りません。
それが判れば塩釜神社の謎も解けるかも知れませんね。

ではでは。
返信する
伝八郎さんへ (ひー)
2011-11-04 17:44:54
「人を刀で切るとフッっと音がするからフッツヌシ」と呼ばれる・・・なるほどww
神の名は意外とそんなものかも?
だって神産の話を読めば、一般的に汚いものと言われるものから生まれたりしてますからね。
「チ」の話・・・ありましたよ。
森の主であるかのような蛇の姿を「ミツチ・オロチ」とか、神的表象(象徴)としてイカヅチ・ヌヅチ・アシナヅチ・タチなどですね。
生命の根幹とする血液が「チ」だったり母乳を「チチ」だったり、勿論「シオツチ」も海の中にあるとされる霊の「チ」を表しているということですね。
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