定義道・・・定義如来と平家落人伝説 5
大倉の地
仙台藩の領地になるまでは、このの人々は平氏を偲び他のとの縁組を許さず。
純血を守ることに平氏の誇りを感じていたのです。
明治初年にあたりにこんなことがあったそうです。
村芝居が行われていた頃定義に舞台を一の谷合戦記を上演した時、あちこちから物が投げられて遂に中止させられたり上演中舞台が急に倒壊したこともあったといいます。
それ以来定義では芝居の上演は止めたそうです。
さて、この地を一般的に大倉と言いますが、厳密には大倉があります。
伝説には、鎌倉源氏の子孫大倉蔵人重義を始祖とする大倉家が故あって遠く陸奥の地に逃れこの地大倉の山里に隠棲したとあり、平家落人と「お互い仲良くしよう」と申し合わせたという語り伝えが残っています。
また、定義如来入り口(国道48号線)の近く作並方面に行くと新川(にっかわ)というところがあります。
そこには、源氏の勇将源義経の奥州下りの道中たまたま平家落人平貞能と出会い、敵味方なく睦まじく夜を明かしたと言う伝説の「ほととぎす塚」があると言う。
また、時代は下って戊辰の役、義勇軍(からす組)隊長仙台藩細谷十太夫や奥州鎮撫の参謀、長州藩の世良修蔵を斬殺した志士が厳しい追及に一時隠れ住んだのが天狗茶屋とか・・・・定義温泉とも伝えられています。
ぢゃう義道
定義の里に通じる道には、白木、矢籠、青下、大倉とありどの道も山道で峠や峰を通っている。
定義の里と合わせて五がこの道で結ばれていて密接な連絡がとれていた。
これは、防備の為に五人の従臣を配置し前線基地として固めたものと思われます。
その道端には、いくつもの石碑がいたるところに置いてあるが、その一つに「左ぢゃう義道」とかかれた道標があります。
左から2番目です。
この石碑は安政四年の物のようです。
しかし、この石は昔は、北谷地から白木にあったもののようです。
確かにこの分岐の左は旧街道ですが、崖崩れが多く今は不通です。
それは、さておき、先人達はこの道を歩いていたのでしょう。
かつては古街道としダムを横断した岩出山街道または、秀衡街道と呼ばれていた古い道があったのです。
伊達家が岩出山に居城していた頃は、山形方面への軍道としての最短通路で通行人も多かったと聞きます。
また、奥州藤原の平泉文化が最上へ流入した道としても考えられているようです。
これらのダムをおうだんした道はダムの水底になってしまいました。
水没した村は栗生20軒、日向が40軒で合計60軒でした。
定義へ向かう其々の道筋には、こんな石碑がありました。
寿連坂あたり
日向上あたり
大倉小前
石碑・・・よりも石塔の表示がいいですかね。
次回は、昔の参詣者が仙台から歩いた道程を追ってみました。
つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
大倉の地
仙台藩の領地になるまでは、このの人々は平氏を偲び他のとの縁組を許さず。
純血を守ることに平氏の誇りを感じていたのです。
明治初年にあたりにこんなことがあったそうです。
村芝居が行われていた頃定義に舞台を一の谷合戦記を上演した時、あちこちから物が投げられて遂に中止させられたり上演中舞台が急に倒壊したこともあったといいます。
それ以来定義では芝居の上演は止めたそうです。
さて、この地を一般的に大倉と言いますが、厳密には大倉があります。
伝説には、鎌倉源氏の子孫大倉蔵人重義を始祖とする大倉家が故あって遠く陸奥の地に逃れこの地大倉の山里に隠棲したとあり、平家落人と「お互い仲良くしよう」と申し合わせたという語り伝えが残っています。
また、定義如来入り口(国道48号線)の近く作並方面に行くと新川(にっかわ)というところがあります。
そこには、源氏の勇将源義経の奥州下りの道中たまたま平家落人平貞能と出会い、敵味方なく睦まじく夜を明かしたと言う伝説の「ほととぎす塚」があると言う。
また、時代は下って戊辰の役、義勇軍(からす組)隊長仙台藩細谷十太夫や奥州鎮撫の参謀、長州藩の世良修蔵を斬殺した志士が厳しい追及に一時隠れ住んだのが天狗茶屋とか・・・・定義温泉とも伝えられています。
ぢゃう義道
定義の里に通じる道には、白木、矢籠、青下、大倉とありどの道も山道で峠や峰を通っている。
定義の里と合わせて五がこの道で結ばれていて密接な連絡がとれていた。
これは、防備の為に五人の従臣を配置し前線基地として固めたものと思われます。
その道端には、いくつもの石碑がいたるところに置いてあるが、その一つに「左ぢゃう義道」とかかれた道標があります。
左から2番目です。
この石碑は安政四年の物のようです。
しかし、この石は昔は、北谷地から白木にあったもののようです。
確かにこの分岐の左は旧街道ですが、崖崩れが多く今は不通です。
それは、さておき、先人達はこの道を歩いていたのでしょう。
かつては古街道としダムを横断した岩出山街道または、秀衡街道と呼ばれていた古い道があったのです。
伊達家が岩出山に居城していた頃は、山形方面への軍道としての最短通路で通行人も多かったと聞きます。
また、奥州藤原の平泉文化が最上へ流入した道としても考えられているようです。
これらのダムをおうだんした道はダムの水底になってしまいました。
水没した村は栗生20軒、日向が40軒で合計60軒でした。
定義へ向かう其々の道筋には、こんな石碑がありました。
寿連坂あたり
日向上あたり
大倉小前
石碑・・・よりも石塔の表示がいいですかね。
次回は、昔の参詣者が仙台から歩いた道程を追ってみました。
つづく
ホームページに纏めています。
定義如来1
定義如来2
すごいですね (^^♪
道標に
どんな 想いを込めたんでしょ~うか
あまりに無神経な業ですねぇ (怒
ひーさんの熱心さには脱帽です!
どう考えても源平合戦をやったら石ころ飛びますよね。
山形米沢で忠臣蔵をしても、石ころ飛びますよww
奥州に限らず僻遠の地は、落人だらけなのかもしれませんよね。
島嶼を中心に、流刑の地であった場所も多いですし。
・・・あっ!前にコメントしたかもしれませんが、カミさんの実家は、小田原北条氏の武将が落ちたときにくっついて来た一族です。
そーか我々も落人だぞー!
当時の三鷹は辺鄙な地でしたからね。
個人になれば、その時点では戦う意味など無かったのでしょうね。
小さいなので名は伏せましたが、友人が居ましててっきり平家方かと思ってましたら、その家臣の末裔かと思われます。
かなり、源平が入り乱れましたね。
それでいいのだと思います。
ですが、その1つ1つの意味を感ずることがないまま通り過ぎておりました。
石碑1つにも大きな意味があることは、後に知ったことなのですが。
石塔の表示ですね。なるほどと思いました。
定義山、油揚げを買って帰りました。
お久しぶりでございました。
ご無沙汰していて申し訳ございません。
暮れやら年始の準備やら…何かと忙しいことでしょう。
衣食住は、人間にとって大事ですからね。その一部を担っているわけですから、頑張って下さい。