国定公園 雨晴海岸
2月の写真です。
立山連峰が顔を出したので、急いで向いました。
海からそびえ立つ立山は圧巻です。
義経に関係する伝説などは多くの県に見かけられる。
この高岡市にもあった。 歴史には詳しくは無いのですが、好きになったのは義経がきっかけの一つでもあります。
旅行会社時代に添乗で出かけるとよく義経の話が出てきました。
下関・鎌倉・安宅の関・京都・最上川・平泉・栗駒・岩手・青森・北海道 興味が無かった私でも、話がつながっていくと面白くなってきたのです。
ここにも義経社があります。 写真にある岩を雨晴岩と申します。
>雨晴海岸と雨晴岩
二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。
この岩は別の名を「義経雨はらしの岩」といい文治三年(一、一八七年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、
にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として
伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめています。
馬なめていざ打ち行かな渋渓の
清き磯みに寄する波見に
家持
~案内板より~
飛びますが、大伴家持は、私の住む多賀城にも大きくかかわった人物です。
私のホームページのカテゴリーに多賀城人物伝がありその年表に記載があります。
782年(延暦1年)大伴家持、陸奥国按察使・鎮守将軍となる
785年(延暦4年)大伴家持、多賀城において病没
大伴家持(おおともやかもち)〔718頃~785〕
五世紀以来の名門大伴氏の嫡子として生まれ、伊治公呰麻呂(これはりのあざきみまろ)の乱によって
混乱した陸奥国を立て直すため多賀城に派遣され、この地で亡くなりました。
歌人としても有名で、万葉集の編者と言われています。
このように歴史はつながります。だから面白いのです。
2月の写真です。
立山連峰が顔を出したので、急いで向いました。
海からそびえ立つ立山は圧巻です。
義経に関係する伝説などは多くの県に見かけられる。
この高岡市にもあった。 歴史には詳しくは無いのですが、好きになったのは義経がきっかけの一つでもあります。
旅行会社時代に添乗で出かけるとよく義経の話が出てきました。
下関・鎌倉・安宅の関・京都・最上川・平泉・栗駒・岩手・青森・北海道 興味が無かった私でも、話がつながっていくと面白くなってきたのです。
ここにも義経社があります。 写真にある岩を雨晴岩と申します。
>雨晴海岸と雨晴岩
二上山の山裾が富山湾に没するこのあたり一帯は、白砂青松と日本海では数少ない遠浅海岸の「雨晴海岸」です。
この岩は別の名を「義経雨はらしの岩」といい文治三年(一、一八七年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、
にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども、雨宿りをしたという伝説があり、亦近在する女岩、男岩と共にこの海岸は秀景をなし、かつ越中国司として
伏木に在住した青年歌人大伴家持もこの絶景を多く万葉集におさめています。
馬なめていざ打ち行かな渋渓の
清き磯みに寄する波見に
家持
~案内板より~
飛びますが、大伴家持は、私の住む多賀城にも大きくかかわった人物です。
私のホームページのカテゴリーに多賀城人物伝がありその年表に記載があります。
782年(延暦1年)大伴家持、陸奥国按察使・鎮守将軍となる
785年(延暦4年)大伴家持、多賀城において病没
大伴家持(おおともやかもち)〔718頃~785〕
五世紀以来の名門大伴氏の嫡子として生まれ、伊治公呰麻呂(これはりのあざきみまろ)の乱によって
混乱した陸奥国を立て直すため多賀城に派遣され、この地で亡くなりました。
歌人としても有名で、万葉集の編者と言われています。
このように歴史はつながります。だから面白いのです。
も っとも、こんかいの旅で当方にも福島から車で氷見に合流した仲間がいました。(^^ゞ
義経伝説を追うのも面白そうです。この雨晴の近くの伏木に「如意の渡し」があります。
歌舞伎で有名な「安宅の関」は此処でのできごとという説です。^^
http://www.stones.jp/area_toyama/c_takaoka_city/nyoinowatashi1211.html
ああ、この橋も渡りました。
その話はわかりませんでした。
なるほど安宅関の話ですね。
義経の話は各地にありますからね。自分の記事の中でもたまに書いています。義経のお墓や、最後の地など・・・
射水市の記事は数回前の記事にもあります。
そうそう、カテゴリーの「富山県の散歩道」を見ていただければいいですね。