ひーさんの散歩道

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明かされた古代出雲王国の秘密 3

2017年11月17日 20時22分38秒 | 古代史
諸手船神事

明かされた古代出雲大国の秘密1
明かされた古代出雲大国の秘密2


古事記に17人の主王の個人名が、古事記に書かれている。
副王の職名は「少名彦」であった。
記紀では、王国の史実は、国造になっいた、香安により神話に変えられたという。
そして、少名彦の名称は、記紀では、漢字準を逆にして、少彦名と変えている。出雲国風土記や伯耆国(ほうきこく)風土記は、地元の人が書いたので「少名彦」と正しく書かれている。

向王家出身の王は、主王と副王合わせて約17人いる。
歴代の王とそこの岩の数は一致する。 17個以外のやや小さな岩は、王国成立前の当主の墓に相当するらしい。

亊代主は向家出身の副王の個人名である。
彼は職名でもってスクナヒコと記紀に書かれた。

それらの岩の中には、亊代主命の墓石もある。
かれは徐福集団(スサノオ)により、不慮の死を与えられた、その遺骨は粟嶋(あわしま:米子市)の洞窟で見つかり、熊野山の岩座の横に埋納された。

クナト王の子孫には、神門臣家(かんどのおみおおけ)もあった。
後者は出雲の西部に地盤を持っていた。
それで二王家が協力して、イズモ王国を運営していた。
初代の八耳王は向家の出身で(意宇(おう)川の中流の神魂の丘に王宮を構えていた。

サイノカミの祭場(霊時)では、春秋の二回、大祭が開かれた、それに参加するように大名持と少名彦が各地に出かけて、豪族達を誘った。
この様子が「丹波国風土記」に書かれいる。
言葉での「説得」を当時は「言向け」(ことむけ)といった。
いわゆる副王であった亊代主の漢字は当て字である。
正しい意味では、「言治主」であり、武力ではなく言葉で支配する王であった。
この「こと向ける家」の意味から、ムケ(向)王家と呼ばれるようになった。

古文書
北島道孝覚え書き、
向ハ平(ことむけ)ナリ・・・・国ヲ平シ時云々・・・・杵築大社神前ニテ国造名代ヲ相勤メル義ハ、右ノ神書ニヨル
イズモ国ノ王は、各地の豪族の意見に、よく耳を傾けた。それで初代の大名持ちは八耳王と呼ばれた。

その後、出雲の大祭に参加した人々は、土産を向家に捧げるようになった。
それが倉にあふれた。
以後、人々は、向家を富家と呼ぶようになった。

出雲家と称することもあった。
8代の副王(少名彦)が富家出身の八重波津身(亊代主)であった。
亊代主の王宮に摂津国の三島(大阪府下高槻市)から三島溝喰(みぞくい)の娘、セヤダタラ(勢夜陀多良)姫が輿入れした。
その時付いて来たといわれる三島の苗字の人が松江市には多く住んでいる。


紀元前3世紀末に奉国から徐福(スサノオ)集団がイワミ(硯)国の五十猛(イソタケ)に上陸した。
その地で長男、五十猛命が生まれた。  その地にはイソタケ神社が祀られている。



その一年前にホヒと息子のタケヒナドリ(武夷鳥)が来日した。
初めホヒはと八千矛(神門臣家出身の大国主)に仕え、隠中となっている。


諸手舟神事

富王家の事代主は王ノ海(中海)をわたり、美保関(松江市美保関町)の港の妃の館に行った。そこには越後の糸魚川から来たヌナカワ姫が住んでいた。
事代主は姫に逢いに行き、海岸で釣りを楽しむ事があった。
美保の崎で釣りをしている事代主の所にホヒ家(後の国造家)のタケヒナドリ(日本書紀ではイナサノハマから来た稲背脛(イナセハギ)となっている)が諸手舟に乗って使者としてやって来た。
このことが現在。美保神社では「諸手舟神事」として毎年12月3日に美保港で行われている。
迎えに来たタケヒナドリは事代主副王に告げた。
「園の長浜(出雲市西園町)で八千矛様が行方不明になったから事代主様も来て探してください。」と言って事代主を舟に乗せた。
舟は弓ヶ浜の粟島(米子市彦名町)に着いた。すると海童たちが現れ舟を取り囲んだ。
海童というのは徐福がシャントン半島から連れてきた少年たちを言う。
出雲大社の北の鷺浦に伊奈西波岐神社(イナセハギ)がある。
イナセハギに捕らえられた事代主は、粟島の裏の洞窟に幽門された。

出雲国風土記に出雲郡宇賀郷に記事がある。磯の西の方に窟戸(猪目洞窟)がある。
・・・夢でこの磯の洞窟の辺りに行くと必ず死ぬ。
それで里の人々は古代から現代にいたるまで夜見の坂とか黄泉の穴と呼んでいる。

越ノ国から事代主の富家に輿入れしていた沼川姫は事代主が不慮の事件に遭い夜見ヶ浜の粟島で天に昇ったので実家に帰ることになった。
御子の建御名方富彦は、母君を連れて越ノ国に行った後、信濃国の諏訪地方まで進出し出雲大国を広げた。

その結果、サイノカミ信仰が広まった。
彼の没後には、諏訪湖の南北にある諏訪大社や長野市や飯山市の建御名方富命神社などに祀られている。

これが史実であるが古事記では、「建御名方が力比べをしようといどみタケミカヅチが建御名方を掴みひしぎ投げ放ったら建御名方は、シナノ国のスワの海に逃げた」という悪意のある神話に変えられている。


イズモでは、主福の両国が同時に枯れ死した事件を嫌って両王家の分家が出雲人の約半数を連れてヤマト(奈良地方)へ移住した。
その時、岐神(サエノカミ)信仰をヤマトとその周辺に伝えた。
東出雲人は葛城山の東麓(御所市:ゴセシ)を開拓し、事代主を祀る一言主神社や鴨都波神社(カモツバ)神社を建てた。

古代出雲では、神の事を「カモ」といった。
西出雲人は南葛城方面を開拓してアジスキ高彦を祀る高鴨神社や大年神や高照姫を祀る御歳神社(ミトシ)を建てた。
大年神は正月祭の神である。


イワミで生まれた五十猛は成人してタンバ国に移住しそして海部(アマベ)氏となった。
息子の村雲はヤマトに進出し、イズモの事代主の子孫の登美家と協力して海部王朝を作った。
海部王朝では、登美家から后を迎える習慣があり、三代以上それが続いたので登美家血が圧倒的に濃くなり、イズモ系の磯城王朝(シキ)と変わった。

「富」の言葉は古代出雲ではトビと発音した。
それでヤマトでは富家に「富美」の字が当てられた。

富家の事代主の御子たちがサイノカミを奉じてヤマトや伊勢に移住したことを記念し、富家がイズモに社を建てた。
それが出雲井神社である。


明かされた古代出雲王国の秘密 3







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2 コメント

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今日一言主神社さんと縁が (りひと)
2017-11-25 19:03:27
昨日記事見た時気付きませんでしたけど、東出雲は御所市なんですね!ばっちりですね。

お話の中で葛城襲津彦さんが出てきましたけど私もその素性が気になってます。ひょっとしたら?って思いますね。

あと建御名方富命さんですけど、諏訪の歴史の中でもどうも現地ではヌナガワ姫が中心なのですよね。そういう疑問も記事を見て納得してしまいましたよ。事代主さんが健在なら美保にいたんでしょうね。とすると金属の移動のありそうな予感。

一言主は私から言うとまさに巫覡その物でいい悪いを一言で言える忖度しない存在です。そこが今の時代にも欲しい所、ならぬ事はならぬのです。
きっぱりと。春日さんでも出会ってます。

今日の講演の中で土蜘蛛は、土雲と思えば出雲?なんてお話も出てきましたよ。なんかドンピシャなタイミングです。

あと、冬至の太陽のお話も出てきましたけど出雲の方は太陽の動きで特に夏至と冬至で何か文化なりないですかね?ちょっと気になります。
ここは父とも関係する所ですね。

奈良ではお相撲の関係の地で出雲がありますけど野見宿禰さんを連れてきたんじゃなくそこにいたんじゃないかな?って思ってました。なので出雲から移動した方がいたならばいい線ですよね。そこに出雲の文化がないわけは無さそうです。

お相撲の件でもそうですけど品格って曖昧ですけど一言でならぬのはならぬのですと言ってくれる巫覡がいたらいいのにと思います。綱永井さんから初期相撲はとっても野蛮だったとか?そこに関わる事で何か変わっていると面白いなあと。

そう、今日御所の展示の中でも巨勢氏の古墳の数が凄いんですよね?川沿いっぽいですし、室宮山古墳や秋津遺跡とはエリアは違うけど明らかに近くに隣接してましたよ。当麻さんは巨勢のイメージですね、野見宿禰さんは出雲で。私の中の赤と青の接点は御所にもあるかな?巨勢さんは巫覡がいないという事きかなそうだし。まさか犬養って出雲の方?

なんか妄想とんでもない事になりました。
講演会でも一言主命さんは古事記にも本当ちょっとしか出て来ないらしいです。書きたくなかったのは出雲関係だったから?事代主の血筋は、秋津遺跡にもどうも繋がってると私の頭の中では連動しちゃうんですよね。

ひーさんの記事は、個人的にはとても納得してしまいます。もっと断片じゃなく読み込む必要もありそうです。集中が続かないのでまた何か思ったらお知らせします。6985
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りひとさんへ (ひー)
2017-11-27 14:47:21
以前書いた出雲の記事も新しい解説と差し替えが必要なのですが、非常に労力が必要なので、これはこれでまとめます。
自分もなるほど!そうだったのか!と思うことが多いです。
これは、何度も読まないとわからなくなります。
1~3ですが、もう少し続けて終わらせます。
伊勢もまだ終わらないし、アラハバキも続けたいし・・・
体は一つしかないし・・・おまけに飲み会が増えてきたしwww
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