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独眼竜のあの壮大な野望と素地は、どこの血筋なのでしょう。
政宗の当時の背景を考えれば仕方のないことと思えますが、実父輝宗や弟小次郎をも手にかけて殺害しているのはご承知の通りです。
小次郎の墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/fb/7701f2257fcb7aaa8db64c12269c6d98.jpg)
小次郎の墓と伊達秀雄記事は
リンクしています。
この性格は、母方、最上家の血筋が大きく影響しているように思えます。
独眼竜政宗の母である義姫は、出羽の大名 最上義光(よしあき)の妹として天文十六年(1547)、山形城に生まれた。 父は最上義守。
米沢にいた政宗の父輝宗に嫁いだ。 しかしこの時の年齢は不明。 ただ20年後の永禄十年に政宗を生んでいるので18歳ぐらいで嫁いだのだろうと思われます。
兄の最上義光は冷酷、老獪(ろうかい)な男で自分の子供も平気で刃にかけるような、野望達成のためには、手段を選ばなぬ陰惨な性格の持ち主であった。
義姫もこの血を引いて、強靭・不屈・激情の赴くまま走り続ける”鉄の女”であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/90/84778296550b06f3707cc083ebfa7520.jpg)
最上義光
義姫の恐妻ぶりを知るものとして、輝宗が側室を持たなかった点も関係があるのでは?
輝宗が律儀で真面目とも考えられるが当時は側室を持つのが通例であることは間違いない。
天正十六年、伊達、大崎が争う大崎合戦が始まり、伊達軍は思わぬ敗戦となり、和睦のことで最上と伊達は大いに揉めた。
その時、義姫は国境の中山峠に一人で出かけ、実家と婚家のために調停にに立ち成功させた。
また、政宗の弟小次郎を家督に立てることを目論み、政宗を毒殺しようとした。これについては「治家記録」によると、最上家のさしがねがあったと書かれている。
小次郎の事件については、上記の小次郎の墓の写真の下に貼り付けとおります。
反面、政宗の性格の一面には、学問・文芸に秀でたところがある。
文録年間のある時期、大坂の聚楽第にいた秀吉の傘下に暮らしていた時、政宗はすぐれた歌を詠み「鄙の華人」と諸大名に驚嘆されたのです。
これは明らかに父ゆずりであろう。
父、輝宗は小男で性格はおっとり型、いわば公卿向きの性格でとても天下を狙う器ではない。
伊達政宗の成長過程において、片倉喜多子・片倉小十郎影綱を語らないわけにはいかない。 喜多子は小十郎影綱の姉で政宗の乳母(めのと)である。
記録には保母と書いているが、実質養育係と言えよう。
結婚経歴は不明。 ともあれ幼君の資質を伸長し薫かをもたらし帝王学教育に尽瘁(じんすい)した功労は、彼女によって開眼し造形されたといえる。
喜多子の性格は、戦国武将もたじろぐ、厳しい儒教精神に裏打ちされた冷静、沈着、凛然そのものであった。
小十郎の姉と言っても父違いの姉である。
母は本沢某女(本沢刑部真直の娘)は、最初に鬼庭左月入道良直に嫁ぎ、喜多子を生みのち故あって鬼庭氏と別れ、喜多子を連れ子して、当時の米沢八幡の神職をしていた片倉式部少輔影重と再婚して小十郎影綱を生む。
喜多子【天文七年(1538)】 小十郎影綱【弘治三年(1557)】 生まれ。
二十歳近いその差は親子のようで、小十郎には恐い存在の姉であった。
喜多子の実父は天正十三年、人取橋の合戦で単騎、敵の包囲の中に奮戦して討死する。鬼庭左月(のちの茂庭)である。
人取橋合戦の絵図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/33/c8f5b5515dcbdbaf7c5ed55a49158eef.jpg)
その血筋を引く喜多子ですから、荒武者を圧倒する気概にさすがと納得させられる。
喜多子は文武両道に通じ、兵書を好み講じたという。 小十郎も喜多子の影響をうけ教え導かれたのでしょう。
天正三年から政宗の近侍に挙げられ五十九歳で死去するまで主君のブレーンとして奉仕し名補佐役を貫き通す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/e4/6cc69bd317b6b289c3d1165a669fe57a.jpg)
片倉喜多子の墓
記事はここにリンク
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片倉家廟所
記事はここにリンク
政宗と片倉小十郎のエピソードで有名なのは、やはり右目のことでしょう。
「伊達治家記録」には、疱瘡で失明した幼君の右目を小十郎影綱が小刀で突き潰したことが書かれる。
それまでの政宗は隻眼を恥じて時として赤面するナイーブな幼君だった。 その劣等感をぬぐい去るための荒療治であった。
また恐ろしい形相をした不動明王のもつ無限の法力と慈悲の心を教えたこともか書かれている。
異相の人に宿るとされているシャーマン性を逆手にとり「あなたは普通の人間ではない、明王の生きかわりなのだ」との暗示のもと偉大なる帝王像を造形した。喜多子、小十郎の苦心策だったと思われる。
歴史の因果
寛文事件(伊達騒動)のお家騒動についてはHPに纏めてありますが、その中心人物の伊達兵部宗勝と奉行原田甲斐の出自を見ると歴史の因果と運命を感じる。
京美人「香の前」
本名は、高田種。 父は京都伏見の武士(高田治郎右衛門)
十八の時、豊臣秀吉、十六愛姫の一人となり香姫(香の前)と改められた。
優しい京言葉で話しかける京美人だ。 「事実は小説よりも奇なり」などというがこれもまた、その人生は波乱万丈の生涯となる。
その舞台は、文録朝鮮の役にはじまる。
秀吉による朝鮮征伐は歴史に名高い。 文録二年(1593)春、政宗も三千の軍を率いて海を渡り、現在の韓国東南部の蔚山(ウルサン)、梁山(リョウザン)方面に布陣して戦い、秋には日本に帰った。
この時、秀吉の大本営である肥前名護屋城(佐賀)にて、伊達軍の責任者となるのが茂庭綱元(のち延元)である。 いわば政宗政権の官房長官として信任された人物だ。
綱元は、潔白で謙虚な人物で、秀吉にえらく気に入られた。 喜多子のところでも書いたが、人取橋の合戦で討死した鬼庭左月良 直が綱元の父だ。 つまり喜多子とは兄弟になる。 政宗とは主従関係だが、友情で結ばれていたという。
綱元の器量を気に入った秀吉は、屋敷を与えようとしたが、「主持ちの身であれば」と固辞して受けなかった。
ますます気に入った秀吉は、ついに愛妄の一人を呉れてやろうと言い出した。 そこでこんな話がある。
そこで秀吉と政宗が賭け碁をした時、綱元が代理人として碁を打って見事に勝った。
その約束を守って秀吉が妄の一人を呉れてやることになった。 この時大勢の美姫らを華やかに着飾らせて綱元に選ばさせた。
ところが綱元はこれらの美姫には目もくれず、部屋の掃除に当たっていた質素な服装の女性を所望した。
実はこの女性は、秀吉の最も寵愛する姫で、わざとこの姿にしておいたのだ。
綱元は姫を貰い受けて別宅に住まわせた。 これが香の前である。
この話は、政宗も知ることになる。 おそらくであるが綱元は香の前の一件を政宗に報告したのだろう。
綱元に手紙が届く。 それには・・「お前を隠居させることにした、跡式は息子の周防良元に継がせる。 おまえはどこへなりと出て行け」と書いてあった。
生命の危険を覚った綱元は、その夜のうちに出奔(しゅっぽん)して行方をくらました。
政宗の怒りを想像すれば、秀吉に傾斜していく綱元の姿勢が憎らしく、まして天下の美女を手に入れるなど許せないと家臣への嫉妬なのだろう。
二年後に許されて帰参した綱元は、香の前を主君に献上した。
政宗は大いに喜び、早速一男をもうける。
これが後の亘理宗根(むねもと)である。 香の前はのちに一女をあげる。これが後の原田甲斐の母、津多である。
しかし、政宗は家臣の女を横取りしたことを恥じ、二人とも戸籍上は綱元の子としている。
寛永二年四月、香の前に宛てた政宗の手紙がある。
・・・・・「仙台城付近に住ませたいが、隠居の身でそれはできない。今に加増してやるから大崎の地で我慢してくれ」と愛情たっぷりの文面が書かれていた。」
世論では公然の秘密として男児は政宗の子、女児は綱元の子としているが、どちらも政宗の子ではないかと推測される。
香の前が生んだ女児、津多は伊達家の勇士原田宗時の嗣として桑折家から入った、宗資(むねすけ)の妻になった。
養子宗資は牡鹿郡大爪(現:石巻市稲井)に三千石を領知して移住した。 宗資はのちに柴田郡船岡に移り、元和九年、四十二歳で没した。
以来、船岡が原田氏の本拠となる。
伊達騒動を映画又はドラマ化した。「樅ノ木は残った」でご存じの方も多いことでしょう。
宗資・津多夫婦の間に生まれるのが原田甲斐宗輔である。 親子とも「むねすけ」と詠む。 他に兄弟はいなかったようだ。
甲斐は早く父を失い五歳で家督を承けた。
慶安元年、評定役、寛文元年には、奉行職(家老:仙台藩では家老職を奉行とした)へと、出世街道を駆け抜け、禄高も八千石に急上昇した。
伊達騒動の憎むべき逆進派の一人とされる。
甲斐は伊達兵部宗勝の不義に与し(くみし=味方する)、結局は寛文十一年(1671)一月二十日、江戸の酒井大老の屋敷に呼ばれ、原告、被告ともども幕府から尋問が行われた際、追いつめられた苦しさに狂乱して、突然原告側の首魁 伊達安芸らを斬殺し、自らも斬り合いで殺される。
大の不忠の臣ということになっている。
甲斐の享年は五十三歳。江戸の芝増上寺中良源院に葬られる。 船岡城祉二の丸跡にも原田家の墓がある。
登米郡米谷の東陽寺は船岡から移された原田家ゆかりの菩提寺で境内にそびえ立つ大銀杏は、甲斐の墓標として植えたという伝えがある。
甲斐の遺骸を梵鐘に入れて隠し、阿武隈、石巻港、北上川経由でこの地に運んだとの説がある。
甲斐一族に対する処刑は、正に全滅と言える惨憺たるものだった。
長男:帯刀宗誠(むねもと)二十五歳 切腹
二男:飯坂仲次郎 二十三歳 切腹
三男:平渡喜平治 二十二歳 切腹
四男:剣持五郎兵衛 切腹
帯刀の子(甲斐の孫)采女 五歳、伊織 一歳 も殺された。
女たちは、罪一等軽く、甲斐の母津多は亘理郡 伊達基宗へ・・妻(津多頼康娘)は胆沢郡水沢の伊達上野に・・・嫁と孫娘は松山茂庭性元屋敷にそれぞれ預けられた。
甲斐の家臣、過激派片倉隼人という者は、藩の指図を不服として、自家に火をかけて切腹。
この時甲斐の母津多はとりみださなかった。
夫に別れて以来、慶月院と称し七十歳の老境にあった。
この事件を聞いた時、涙ひとつ見せず、平常と変わることはなかった。すでに覚悟はできたようである。
甲斐の妻が悲観にくれ、佛間の持佛堂に香花を手向けたところ「おのれ、不忠不孝の大悪人に何の手向けの必要があろうか」と、香花を踏み散らしたという。
のちに彼女は何度か死のうとした。最後は舌を噛み切って死のうとしたが、入れ歯を外されていたため噛み切れない。 そこで断食を続け、ついに同年七月二十九日死亡した。
食を断って目的を達する、その勁烈さは並みの女ではない。
外貌は母親、香の前ゆずりの秀麗さだったが、血は間違いなく独眼竜政宗の血ではなかったか!
五番目の側室 「多田勝女姫」
天正十八年、小田原参陣を果たさない和賀氏は、同じ轍(てつ)を踏んだ葛西氏らとともに没落する。 しかし和賀忠親は再興を夢見て政宗の袖にすがり許されて胆沢郡の一隅に微を給された。
政宗はいつの日か和賀残党を使って北の国境線でおいしい事をしようと企んでの措置だったのはいうまでもない。
国境侵略の予備軍として温存したのだ。 慶長五年秋、関ヶ原の合戦で天下の衆目が西に向いているのを機に政宗は和賀残党を使って国境侵犯を行使した。
仙台藩が後方からフォローした。これが「和賀兵乱」である。
現在の北上市、花巻方面は戦乱の巷と化した。 不法侵略されたと聞いた南部利通は大急ぎで国境の防衛の軍を繰り出し戦争となった。
二年に渡り続いたが、南部軍は勝ち、和賀残党は仙台領内に逃げ込んだ。
やがて南部から幕府へ伊達の悪事が報告され、幕府の隠密にも見届けられ、伊達家の運命も絶対絶命のの崖ふちに立たされる。
危機を切り抜けるには、事実を知る証人の口をふさぐしか無かった。 死人に口なしである。
そこで和賀忠親を仙台に呼び寄せ国分尼寺で殺害した。
幕府には「責任をとって和賀忠親は自殺した。わが藩のあずかり知らぬ所」と報告して事なきを得た。
木ノ下の国分尼寺の裏手に和賀忠親主従八人の墓がある。
この和賀忠親の血を引く多田伊賀吉広の娘が勝女姫である。
慶長の末に伊達家に召しだされた。 多田吉広の本名は毒沢で宗家和賀氏の家老職の家柄であった。
戦国時代は自分の手にかけた者の娘を平気で妻に迎え我意を満たした。それが常識だった。
和賀忠親と一緒に死んだ一人に毒沢修理義森がいる。 十七代和賀政義の三男で、和賀郡毒沢村に分家して毒沢を称した。 毒沢=東和町
毒沢修理義森の長男が多田(毒沢)伊賀吉広である。
吉広は弟勝吉と共に伊達家に奉公した。 吉広の娘が勝女姫であり、殺された毒沢義森の孫娘に当たる。
どのような関連で政宗の側室に迎えられたかはわからない。 時に彼女は二十三歳ぐらいで、政宗は四十六歳くらいだった。
この頃慶長十八年サンファン号が出帆した時期にあたる。
支倉常長とサンファンバウティスタ号
ここにリンクしました。小生のHPです。
歴史の因果は恐ろしい!
ところが、政宗は喜び勇んで彼女を迎え、一男一女をこしらえる。
男児は立派に成長し伊達兵部宗勝となる。
そして仙台藩を震撼させる大事件「伊達騒動(寛文事件)」の主役として登場し、惨劇の場を迎えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/f7/ea83db680964c97453ef582179f5b8dc.jpg)
伊達騒動についてはホームページに纏めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/23/79c22ed9b9164f504ab90da81acd9bec.jpg)
クリック
簡単に事件の流れ・・・
伊達兵部宗勝は大国に生まれながら嗣となれない立場を恨み、二代藩主忠宗が没すると謀議を企てる。
まず、奉行の原田甲斐と結託し三代綱宗を押さえ込み、幼君四代綱村を嗣に立てる。
伊達兵部宗勝は三万石の直参大名に取り立てられ、綱村を後見し国政を壟断した。
それだけではなく、長男宗興の嫁に大老酒井家の養女を迎えてからは謀議をあらわにして、伊達家を分割して自らが相続しようとした。
そのため訴えがあり、寛文十一年三月、酒井大老屋敷で関係者への尋問が行われた。
その席で宗勝派の原田甲斐が原告の伊達安芸らを斬るという前代未聞の大事件が起きる。
のちに張本人宗勝の罪状が暴露され、土佐に流される。 その時宗勝は51歳であった。 土佐山内家の保護を受けた宗勝だが快々(おうおう)として楽しまず。
延宝七年、気鬱症(ノイローゼ)から熱病を発症し、58歳で没した。
参考文献:紫桃正隆 著 「政宗をめぐる十人の女」
HP伊達騒動
政宗の当時の背景を考えれば仕方のないことと思えますが、実父輝宗や弟小次郎をも手にかけて殺害しているのはご承知の通りです。
小次郎の墓
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小次郎の墓と伊達秀雄記事は
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この性格は、母方、最上家の血筋が大きく影響しているように思えます。
独眼竜政宗の母である義姫は、出羽の大名 最上義光(よしあき)の妹として天文十六年(1547)、山形城に生まれた。 父は最上義守。
米沢にいた政宗の父輝宗に嫁いだ。 しかしこの時の年齢は不明。 ただ20年後の永禄十年に政宗を生んでいるので18歳ぐらいで嫁いだのだろうと思われます。
兄の最上義光は冷酷、老獪(ろうかい)な男で自分の子供も平気で刃にかけるような、野望達成のためには、手段を選ばなぬ陰惨な性格の持ち主であった。
義姫もこの血を引いて、強靭・不屈・激情の赴くまま走り続ける”鉄の女”であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/90/84778296550b06f3707cc083ebfa7520.jpg)
最上義光
義姫の恐妻ぶりを知るものとして、輝宗が側室を持たなかった点も関係があるのでは?
輝宗が律儀で真面目とも考えられるが当時は側室を持つのが通例であることは間違いない。
天正十六年、伊達、大崎が争う大崎合戦が始まり、伊達軍は思わぬ敗戦となり、和睦のことで最上と伊達は大いに揉めた。
その時、義姫は国境の中山峠に一人で出かけ、実家と婚家のために調停にに立ち成功させた。
また、政宗の弟小次郎を家督に立てることを目論み、政宗を毒殺しようとした。これについては「治家記録」によると、最上家のさしがねがあったと書かれている。
小次郎の事件については、上記の小次郎の墓の写真の下に貼り付けとおります。
反面、政宗の性格の一面には、学問・文芸に秀でたところがある。
文録年間のある時期、大坂の聚楽第にいた秀吉の傘下に暮らしていた時、政宗はすぐれた歌を詠み「鄙の華人」と諸大名に驚嘆されたのです。
これは明らかに父ゆずりであろう。
父、輝宗は小男で性格はおっとり型、いわば公卿向きの性格でとても天下を狙う器ではない。
伊達政宗の成長過程において、片倉喜多子・片倉小十郎影綱を語らないわけにはいかない。 喜多子は小十郎影綱の姉で政宗の乳母(めのと)である。
記録には保母と書いているが、実質養育係と言えよう。
結婚経歴は不明。 ともあれ幼君の資質を伸長し薫かをもたらし帝王学教育に尽瘁(じんすい)した功労は、彼女によって開眼し造形されたといえる。
喜多子の性格は、戦国武将もたじろぐ、厳しい儒教精神に裏打ちされた冷静、沈着、凛然そのものであった。
小十郎の姉と言っても父違いの姉である。
母は本沢某女(本沢刑部真直の娘)は、最初に鬼庭左月入道良直に嫁ぎ、喜多子を生みのち故あって鬼庭氏と別れ、喜多子を連れ子して、当時の米沢八幡の神職をしていた片倉式部少輔影重と再婚して小十郎影綱を生む。
喜多子【天文七年(1538)】 小十郎影綱【弘治三年(1557)】 生まれ。
二十歳近いその差は親子のようで、小十郎には恐い存在の姉であった。
喜多子の実父は天正十三年、人取橋の合戦で単騎、敵の包囲の中に奮戦して討死する。鬼庭左月(のちの茂庭)である。
人取橋合戦の絵図
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/33/c8f5b5515dcbdbaf7c5ed55a49158eef.jpg)
その血筋を引く喜多子ですから、荒武者を圧倒する気概にさすがと納得させられる。
喜多子は文武両道に通じ、兵書を好み講じたという。 小十郎も喜多子の影響をうけ教え導かれたのでしょう。
天正三年から政宗の近侍に挙げられ五十九歳で死去するまで主君のブレーンとして奉仕し名補佐役を貫き通す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/e4/6cc69bd317b6b289c3d1165a669fe57a.jpg)
片倉喜多子の墓
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片倉家廟所
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_l.gif)
政宗と片倉小十郎のエピソードで有名なのは、やはり右目のことでしょう。
「伊達治家記録」には、疱瘡で失明した幼君の右目を小十郎影綱が小刀で突き潰したことが書かれる。
それまでの政宗は隻眼を恥じて時として赤面するナイーブな幼君だった。 その劣等感をぬぐい去るための荒療治であった。
また恐ろしい形相をした不動明王のもつ無限の法力と慈悲の心を教えたこともか書かれている。
異相の人に宿るとされているシャーマン性を逆手にとり「あなたは普通の人間ではない、明王の生きかわりなのだ」との暗示のもと偉大なる帝王像を造形した。喜多子、小十郎の苦心策だったと思われる。
歴史の因果
寛文事件(伊達騒動)のお家騒動についてはHPに纏めてありますが、その中心人物の伊達兵部宗勝と奉行原田甲斐の出自を見ると歴史の因果と運命を感じる。
京美人「香の前」
本名は、高田種。 父は京都伏見の武士(高田治郎右衛門)
十八の時、豊臣秀吉、十六愛姫の一人となり香姫(香の前)と改められた。
優しい京言葉で話しかける京美人だ。 「事実は小説よりも奇なり」などというがこれもまた、その人生は波乱万丈の生涯となる。
その舞台は、文録朝鮮の役にはじまる。
秀吉による朝鮮征伐は歴史に名高い。 文録二年(1593)春、政宗も三千の軍を率いて海を渡り、現在の韓国東南部の蔚山(ウルサン)、梁山(リョウザン)方面に布陣して戦い、秋には日本に帰った。
この時、秀吉の大本営である肥前名護屋城(佐賀)にて、伊達軍の責任者となるのが茂庭綱元(のち延元)である。 いわば政宗政権の官房長官として信任された人物だ。
綱元は、潔白で謙虚な人物で、秀吉にえらく気に入られた。 喜多子のところでも書いたが、人取橋の合戦で討死した鬼庭左月良 直が綱元の父だ。 つまり喜多子とは兄弟になる。 政宗とは主従関係だが、友情で結ばれていたという。
綱元の器量を気に入った秀吉は、屋敷を与えようとしたが、「主持ちの身であれば」と固辞して受けなかった。
ますます気に入った秀吉は、ついに愛妄の一人を呉れてやろうと言い出した。 そこでこんな話がある。
そこで秀吉と政宗が賭け碁をした時、綱元が代理人として碁を打って見事に勝った。
その約束を守って秀吉が妄の一人を呉れてやることになった。 この時大勢の美姫らを華やかに着飾らせて綱元に選ばさせた。
ところが綱元はこれらの美姫には目もくれず、部屋の掃除に当たっていた質素な服装の女性を所望した。
実はこの女性は、秀吉の最も寵愛する姫で、わざとこの姿にしておいたのだ。
綱元は姫を貰い受けて別宅に住まわせた。 これが香の前である。
この話は、政宗も知ることになる。 おそらくであるが綱元は香の前の一件を政宗に報告したのだろう。
綱元に手紙が届く。 それには・・「お前を隠居させることにした、跡式は息子の周防良元に継がせる。 おまえはどこへなりと出て行け」と書いてあった。
生命の危険を覚った綱元は、その夜のうちに出奔(しゅっぽん)して行方をくらました。
政宗の怒りを想像すれば、秀吉に傾斜していく綱元の姿勢が憎らしく、まして天下の美女を手に入れるなど許せないと家臣への嫉妬なのだろう。
二年後に許されて帰参した綱元は、香の前を主君に献上した。
政宗は大いに喜び、早速一男をもうける。
これが後の亘理宗根(むねもと)である。 香の前はのちに一女をあげる。これが後の原田甲斐の母、津多である。
しかし、政宗は家臣の女を横取りしたことを恥じ、二人とも戸籍上は綱元の子としている。
寛永二年四月、香の前に宛てた政宗の手紙がある。
・・・・・「仙台城付近に住ませたいが、隠居の身でそれはできない。今に加増してやるから大崎の地で我慢してくれ」と愛情たっぷりの文面が書かれていた。」
世論では公然の秘密として男児は政宗の子、女児は綱元の子としているが、どちらも政宗の子ではないかと推測される。
香の前が生んだ女児、津多は伊達家の勇士原田宗時の嗣として桑折家から入った、宗資(むねすけ)の妻になった。
養子宗資は牡鹿郡大爪(現:石巻市稲井)に三千石を領知して移住した。 宗資はのちに柴田郡船岡に移り、元和九年、四十二歳で没した。
以来、船岡が原田氏の本拠となる。
伊達騒動を映画又はドラマ化した。「樅ノ木は残った」でご存じの方も多いことでしょう。
宗資・津多夫婦の間に生まれるのが原田甲斐宗輔である。 親子とも「むねすけ」と詠む。 他に兄弟はいなかったようだ。
甲斐は早く父を失い五歳で家督を承けた。
慶安元年、評定役、寛文元年には、奉行職(家老:仙台藩では家老職を奉行とした)へと、出世街道を駆け抜け、禄高も八千石に急上昇した。
伊達騒動の憎むべき逆進派の一人とされる。
甲斐は伊達兵部宗勝の不義に与し(くみし=味方する)、結局は寛文十一年(1671)一月二十日、江戸の酒井大老の屋敷に呼ばれ、原告、被告ともども幕府から尋問が行われた際、追いつめられた苦しさに狂乱して、突然原告側の首魁 伊達安芸らを斬殺し、自らも斬り合いで殺される。
大の不忠の臣ということになっている。
甲斐の享年は五十三歳。江戸の芝増上寺中良源院に葬られる。 船岡城祉二の丸跡にも原田家の墓がある。
登米郡米谷の東陽寺は船岡から移された原田家ゆかりの菩提寺で境内にそびえ立つ大銀杏は、甲斐の墓標として植えたという伝えがある。
甲斐の遺骸を梵鐘に入れて隠し、阿武隈、石巻港、北上川経由でこの地に運んだとの説がある。
甲斐一族に対する処刑は、正に全滅と言える惨憺たるものだった。
長男:帯刀宗誠(むねもと)二十五歳 切腹
二男:飯坂仲次郎 二十三歳 切腹
三男:平渡喜平治 二十二歳 切腹
四男:剣持五郎兵衛 切腹
帯刀の子(甲斐の孫)采女 五歳、伊織 一歳 も殺された。
女たちは、罪一等軽く、甲斐の母津多は亘理郡 伊達基宗へ・・妻(津多頼康娘)は胆沢郡水沢の伊達上野に・・・嫁と孫娘は松山茂庭性元屋敷にそれぞれ預けられた。
甲斐の家臣、過激派片倉隼人という者は、藩の指図を不服として、自家に火をかけて切腹。
この時甲斐の母津多はとりみださなかった。
夫に別れて以来、慶月院と称し七十歳の老境にあった。
この事件を聞いた時、涙ひとつ見せず、平常と変わることはなかった。すでに覚悟はできたようである。
甲斐の妻が悲観にくれ、佛間の持佛堂に香花を手向けたところ「おのれ、不忠不孝の大悪人に何の手向けの必要があろうか」と、香花を踏み散らしたという。
のちに彼女は何度か死のうとした。最後は舌を噛み切って死のうとしたが、入れ歯を外されていたため噛み切れない。 そこで断食を続け、ついに同年七月二十九日死亡した。
食を断って目的を達する、その勁烈さは並みの女ではない。
外貌は母親、香の前ゆずりの秀麗さだったが、血は間違いなく独眼竜政宗の血ではなかったか!
五番目の側室 「多田勝女姫」
天正十八年、小田原参陣を果たさない和賀氏は、同じ轍(てつ)を踏んだ葛西氏らとともに没落する。 しかし和賀忠親は再興を夢見て政宗の袖にすがり許されて胆沢郡の一隅に微を給された。
政宗はいつの日か和賀残党を使って北の国境線でおいしい事をしようと企んでの措置だったのはいうまでもない。
国境侵略の予備軍として温存したのだ。 慶長五年秋、関ヶ原の合戦で天下の衆目が西に向いているのを機に政宗は和賀残党を使って国境侵犯を行使した。
仙台藩が後方からフォローした。これが「和賀兵乱」である。
現在の北上市、花巻方面は戦乱の巷と化した。 不法侵略されたと聞いた南部利通は大急ぎで国境の防衛の軍を繰り出し戦争となった。
二年に渡り続いたが、南部軍は勝ち、和賀残党は仙台領内に逃げ込んだ。
やがて南部から幕府へ伊達の悪事が報告され、幕府の隠密にも見届けられ、伊達家の運命も絶対絶命のの崖ふちに立たされる。
危機を切り抜けるには、事実を知る証人の口をふさぐしか無かった。 死人に口なしである。
そこで和賀忠親を仙台に呼び寄せ国分尼寺で殺害した。
幕府には「責任をとって和賀忠親は自殺した。わが藩のあずかり知らぬ所」と報告して事なきを得た。
木ノ下の国分尼寺の裏手に和賀忠親主従八人の墓がある。
この和賀忠親の血を引く多田伊賀吉広の娘が勝女姫である。
慶長の末に伊達家に召しだされた。 多田吉広の本名は毒沢で宗家和賀氏の家老職の家柄であった。
戦国時代は自分の手にかけた者の娘を平気で妻に迎え我意を満たした。それが常識だった。
和賀忠親と一緒に死んだ一人に毒沢修理義森がいる。 十七代和賀政義の三男で、和賀郡毒沢村に分家して毒沢を称した。 毒沢=東和町
毒沢修理義森の長男が多田(毒沢)伊賀吉広である。
吉広は弟勝吉と共に伊達家に奉公した。 吉広の娘が勝女姫であり、殺された毒沢義森の孫娘に当たる。
どのような関連で政宗の側室に迎えられたかはわからない。 時に彼女は二十三歳ぐらいで、政宗は四十六歳くらいだった。
この頃慶長十八年サンファン号が出帆した時期にあたる。
支倉常長とサンファンバウティスタ号
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歴史の因果は恐ろしい!
ところが、政宗は喜び勇んで彼女を迎え、一男一女をこしらえる。
男児は立派に成長し伊達兵部宗勝となる。
そして仙台藩を震撼させる大事件「伊達騒動(寛文事件)」の主役として登場し、惨劇の場を迎えるのである。
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伊達騒動についてはホームページに纏めています。
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簡単に事件の流れ・・・
伊達兵部宗勝は大国に生まれながら嗣となれない立場を恨み、二代藩主忠宗が没すると謀議を企てる。
まず、奉行の原田甲斐と結託し三代綱宗を押さえ込み、幼君四代綱村を嗣に立てる。
伊達兵部宗勝は三万石の直参大名に取り立てられ、綱村を後見し国政を壟断した。
それだけではなく、長男宗興の嫁に大老酒井家の養女を迎えてからは謀議をあらわにして、伊達家を分割して自らが相続しようとした。
そのため訴えがあり、寛文十一年三月、酒井大老屋敷で関係者への尋問が行われた。
その席で宗勝派の原田甲斐が原告の伊達安芸らを斬るという前代未聞の大事件が起きる。
のちに張本人宗勝の罪状が暴露され、土佐に流される。 その時宗勝は51歳であった。 土佐山内家の保護を受けた宗勝だが快々(おうおう)として楽しまず。
延宝七年、気鬱症(ノイローゼ)から熱病を発症し、58歳で没した。
参考文献:紫桃正隆 著 「政宗をめぐる十人の女」
HP伊達騒動
私は茂庭綱元との件から伊達政宗の事が余り好きではなかったのですが(秀吉から貰った壷をよこせと言ったりしてたし・・・・)、その後、反省したようですね。
そこは片倉小十郎の教育が生きたのだと思いました。ちょっとだけ見直しました。
ところで茂庭綱元が鬼庭姓から茂庭姓になったのは、秀吉が鬼庭では縁起が悪いと言って変えさせたと聞いていますが、何故、鬼庭姓だったのでしょうね。
確か鬼庭左月は国分氏の流れだったと思いますが、鬼渡神を信仰していた国分氏と鬼庭姓の関連、調べらべたのですが、判りませんでした。
私は太白山が鬼渡神の信仰と関連があり、その住所が茂庭なので、何かしらヒントが隠されているのではと思っているのですが、うーん、判らないです。
鬼庭、鬼渡り、なるほど? なかなか関連した文献は見当たりませんね。
Wikipediaを覗くと、茂庭から鬼庭それには、蛇が関係したようで、意外なものを読みました。今携帯からなので書きにくいので、検索してみて下さい。