越後の残る豪農の姿は今もその歴史を伝えています。
以前にも、渡辺邸をご紹介していますが、今回は越後随一の大地主になった一族、伊藤家をご紹介します。
江戸時代中期に農業より身を起こし代を重ねて、やがて巨万の富を築きます。
明治になった頃は、1市4郡64ヶ町村に1370余町歩の田畑を所有します。
平米にすると、1,370万㎡になります。
昭和になると3万俵余りの作徳米だったそうです。
しかし、戦後の農業解放によりこれらの土地は、伊藤家から離れることになります。
三色椿?
この本邸は敷地8,800坪、建坪1,200坪で部屋数は65を数える純日本建築です。
余談ですが、私が復興を目指し再建しようとする、屋敷とでは話になりませんなww
茶の間
三間続きの茶の間は、当主が来客を迎えた部屋で戸を開け放てば27畳の広さになります。
大広間 & 座敷
冠婚葬祭等の特別な行事に使われたそうです。
全て欅造りで、座敷を囲む廊下には、柱が一本もなく釣欄間工法等と言うらしく、贅を尽くした造りになっています。
因に雨戸は26枚で一ヶ所の戸袋に収まります。
柱が無いのがわかりますね。床には雨戸用の溝があります。
庭園
庭園は回遊式庭園で、5つの茶室があり、この庭は銀閣寺ゆかりの庭師田中泰阿弥(柏崎出身)により5年がかりで造られたものです。
茶室「三楽亭」
門の外から撮ったので分かりにくいのですが、正三角形をしており柱、建具、畳なども三角形や菱形をしています。
茶室「常磐荘」
囲炉裏と台所
当時は、50人余りの従業員が働いておりこの竈で毎朝1俵(60㎏)の米を炊いていたといいます。
たまげてします。
考古資料館
台所の2階が資料館のなっていまして。地主時代の文献や出土品などが展示してありましたが、 土地の台帳の多さには驚きました。
丸太彫りの舟や埴輪、土器なども展示されてました。
このようなぶ厚い台帳が何十冊もありました。
当主は自分の土地を把握出来たのですかね?
ビリアード台ですが、七代目 伊藤文吉がアメリカ留学より持ち帰ったものです。
ちなみに「文吉」は4代目を除き、襲名しています。
こんな埴輪が発掘されていますが、やはり大昔はこんなスタイルをしていたのでしょうね。
一階に戻ります。
天井を見ると、沢山の張りが見えます。
この庇(ひさし)を支える丸桁(まるけた)は杉の一本物です。
長さ30m(16間半)
明治16年に会津の只見川沿いにある三島町の山林(地名は、別名:お蔵入り)より阿賀野川を筏で運ばれたものです。
なにこれ?
実はこれ、婚礼の時に出された献立表です。
婚禮御祝式献立
婚礼の御祝は三日間に渡りおこなわれます。その三日分献立が書いてあるのですが、凄い量ですね。
三角形の電話ボックス
長くなりました、次回につづく
豪邸
ここまで維持されているのに
驚きました
いいですねぇ 日本建築 (^_-)~☆
毎朝、一俵の米、一体、何人分なのかと思ってしまいます。
かなりの使用人もいたということですね。
きっと、バカ息子と呼ばれるでしょう。ww
毎日一俵ですからね。
従業員は50人ほどのようです。
プラス家族ですかね。