北辰一刀流の創始者
千葉周作ゆかりの地
宮城県栗原市花山を訪れました。市町村が合併し日本全国の旧町名が消えていくのを悲しく思っている小生です。
宮城の人々にとってここは、やはりここは花山村なのです。
宮城の子供達は、5年生になるとここにある花山少年自然の家で泊まりで体験学習をします。
しかし、宮城岩手内陸地震で行けなくなったかも知れません。
ちなみに子供達の当時の作品です。
脱線しました。失礼
道路標識に従って行ったら、生誕の地とされる方へ着きました。
元々ここが目的では無かったので、全体の風景を写真に撮らないでしまったのですが、看板だけは撮ってきました。
すみません読んで下さい。手抜きさせていただきます。
出生については2説あります。それは後半で・・・
なんとここ、月曜は休館日かと避けて行ったのに、なんと月・火・水が休館日でした。調べてから来るものですね。
いつも、思いつきで出かけますのでこうなるのですね。反省
千葉 周作の生年月日は、寛政5年(1793年)~ 安政2年12月10日(1856年1月17日)
しかし、寛政6年(1794年)1月1日とする説もある。
これは、Wikiの情報だが、百科事典では(1793~1855)、広辞苑では、(1794~1855)とあります。歴史はいい加減なのでしょうか??
この千葉周作は、北辰一刀流の創始者でありその門下生から多数の幕末の著名人を輩出した。
その人物とは浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などがいる。
尚、坂本龍馬は直接の弟子ではなく定吉に剣を学んだ。
※山南敬助を主人公とした小説を「桃源児さん」が執筆しております。1話は、こちらから「さんなんさん1」
陸奥国栗原郡に生まれ、父も剣の使い手であった。
15歳で下総に国松戸に移り、16歳で小野派一刀流、浅利又七郎義信に入門。
その後も修行を重ね、北辰一刀流を唱える。
詳しくは下記参照
Wikiから引用
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山(生れも育ちも主張)の2説がある。佐藤訓雄による近年の研究では、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で出生したとする説が有力とされている。父は千葉忠左衛門成胤(馬医者として浦山寿定とも)。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したと称する。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。
周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家出をし宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移る。まもなく周作は親元を離れ(しばらく松戸の父の許に滞在したと言う説もある)中西派一刀流の流れを汲(く)む浅利義信に入門した。他にも浅利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し北辰一刀流を創始した。この際に中西から受けた伝書を焼き捨てたとする伝承もあるが伝書の実物が現存しているため、これは誤りである。
文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴。
玄武館の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(練兵館)・「位の桃井」(士学館)とならんで、玄武館は「技の千葉」と称され、この3道場は後に幕末江戸三大道場 と称された。
天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。
今夜、21:00にドライブに出かけます。返信は遅れますのでご了承を、また訪問も出来ずにいました。いま、しばらくお待ち下さい。
千葉周作ゆかりの地
宮城県栗原市花山を訪れました。市町村が合併し日本全国の旧町名が消えていくのを悲しく思っている小生です。
宮城の人々にとってここは、やはりここは花山村なのです。
宮城の子供達は、5年生になるとここにある花山少年自然の家で泊まりで体験学習をします。
しかし、宮城岩手内陸地震で行けなくなったかも知れません。
ちなみに子供達の当時の作品です。
脱線しました。失礼
道路標識に従って行ったら、生誕の地とされる方へ着きました。
元々ここが目的では無かったので、全体の風景を写真に撮らないでしまったのですが、看板だけは撮ってきました。
すみません読んで下さい。手抜きさせていただきます。
出生については2説あります。それは後半で・・・
なんとここ、月曜は休館日かと避けて行ったのに、なんと月・火・水が休館日でした。調べてから来るものですね。
いつも、思いつきで出かけますのでこうなるのですね。反省
千葉 周作の生年月日は、寛政5年(1793年)~ 安政2年12月10日(1856年1月17日)
しかし、寛政6年(1794年)1月1日とする説もある。
これは、Wikiの情報だが、百科事典では(1793~1855)、広辞苑では、(1794~1855)とあります。歴史はいい加減なのでしょうか??
この千葉周作は、北辰一刀流の創始者でありその門下生から多数の幕末の著名人を輩出した。
その人物とは浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などがいる。
尚、坂本龍馬は直接の弟子ではなく定吉に剣を学んだ。
※山南敬助を主人公とした小説を「桃源児さん」が執筆しております。1話は、こちらから「さんなんさん1」
陸奥国栗原郡に生まれ、父も剣の使い手であった。
15歳で下総に国松戸に移り、16歳で小野派一刀流、浅利又七郎義信に入門。
その後も修行を重ね、北辰一刀流を唱える。
詳しくは下記参照
Wikiから引用
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山(生れも育ちも主張)の2説がある。佐藤訓雄による近年の研究では、陸前高田市気仙町字中井の天満宮下で出生したとする説が有力とされている。父は千葉忠左衛門成胤(馬医者として浦山寿定とも)。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために役を辞して栗原郡長岡村荒谷(現宮城県大崎市古川荒谷)へ移り、その子の吉之丞常成は北辰夢想流剣術を創始したと称する。父・成胤もいったんは指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったという。その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、馬医者を開業する。
周作5歳の頃、父は妻を捨て周作だけ連れて家出をし宮城県栗原郡長岡村荒谷へ移る。まもなく周作は親元を離れ(しばらく松戸の父の許に滞在したと言う説もある)中西派一刀流の流れを汲(く)む浅利義信に入門した。他にも浅利義信の師匠の中西子正などの指南を受けて腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、妻(浅利の養女)を連れて独立し北辰一刀流を創始した。この際に中西から受けた伝書を焼き捨てたとする伝承もあるが伝書の実物が現存しているため、これは誤りである。
文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の一流を興した。この北辰一刀流は精神論に偏らず合理的な剣術であったため人気を得た。それまでの剣術は習得までの段階が8段階で費用も時間も多くにかかるのに対し、北辰一刀流の教え方は、主に竹刀を使用し段階を3段階と簡素化したことが特徴。
玄武館の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤」(練兵館)・「位の桃井」(士学館)とならんで、玄武館は「技の千葉」と称され、この3道場は後に幕末江戸三大道場 と称された。
天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩前藩主の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。
今夜、21:00にドライブに出かけます。返信は遅れますのでご了承を、また訪問も出来ずにいました。いま、しばらくお待ち下さい。
細かい事を言わせて貰うと
1枚目の花山村教育委員会の看板は相当な悪文ですねぇ
1 剣豪の才能
2 小いさい
3 玄武館は江戸随一の道場とし→玄武館を
すんまへん
anyhow 何故松戸(ウチの近く)だったのか興味が湧くところです。
なかなか面白い話がありまして、ブログのネタとして登場させようかと思案しております。
先の地震からようやく再開となるようです。
僕らは開設初期のメンバーでしたので、あのオイエンテーリングのコースを作ったりしました。キャンプ場では熊との出会いもありました。屋敷の損壊を気にかけておりましたが無事な様子ですね。久しぶりに出かけたくなりました。春の「御駒山」は「かたくり」が絨毯のように咲く斜面があるのです。
本当 何とかしなければと 思いますよね
何か妙案はありませんか?
千葉周作の北辰一刀流、幕末にはかなり隆盛しましたね。
ここは一度、行ってみたいものです。
ナイトドライブですか、お気をつけて、行ってらっしゃいませ。
土産話を楽しみにしています。
お江戸(多摩は江戸ではないです)や京の人間には無理でしょう。
松戸といえば、新撰組は隣接した流山で再起を図っています。
やはり何かがある土地なのでしょうか?
サッカーの国際Aマッチで惨敗するたびに、眠れない夜となってしまいます。
花山に野外活動に行った時に作ったのでしたね!!
ここは、栗駒の須川温泉行った帰りに通りますね。(行きは一関側からいきます。)
地震があってから、須川温泉に行ってませんが、この連休に日帰りで遠回りして行って見たいと思ってます。
白濁の湯が私を呼んでます~
読んでませんでしたww
いや~教育委員会・・・よく堂々と名前を出してますね。他にも・・門弟を抱えるまでなりました。
まるで外国人の日本語のよう・・・いやそれ以下かも?
開設初期では、今の伝統の創始者ですね。
被害も大きくは無かったのでしたら何よりです。
また安心して学び、遊べる自然の家に戻って欲しいですね。
また、楽しい話を楽しみにしております。
腹立たしささえあります。
まぁ、ゆかりの地と言うだけですね。
なんとナイトドライブは1060キロに及びました。
全部記事にするのは大変かも・・・・