YouTubeで発掘当時の様子が見れます。細かい部分で古代の人々の知恵や工夫が見られます。
三内丸山遺跡1994発掘の様子
三内丸山遺跡は15年ほど前には何度か訪れています。あの頃は立派なミュージアムなど無く、プレハブにあるボランティアの人に案内をしていただくというシンプルなものでした。
この遺跡は5500年~4000年の1500年間に渡り縄文人が住んでいたことが分かりました。
縄文時代の前期から中期に当たります。
それまでの縄文人の生活は、食料を求めて住居を転々としていたと云われていたのですが、そうした考えはくつがえされてしまったのです。
三内丸山ではすでに700棟以上の住居跡が発見されています。
今まで縄文人は4~5棟の小集落を作って生活していると思われて来ましたがそのような考えも覆されました。
この動画は青森の数々の遺跡を簡単に紹介しています。
「北海道・北東北の縄文遺跡群」~青森県の縄文遺跡~
海や山の恵みが定住を可能にさせたのでしょう。
大きさを比べるために奥に立っている人物と比べて下さい。
六本の柱の穴は直系2m 栗の木は直系1m高さ20mと推定される。 その柱の間隔は4.2m 一片35cmの縄文尺があったのではないかと推定される。それは他の建物にも応用されているからである。 なぜ上に何もないのか? それはいろいろな説がある為現在は何も置いていないそうです。
ゴミ捨て場 よく見ると土器のかけらが捨てられていますね。
ここは子供のお墓です。
この土器に遺体を入れて葬ったようです。
大型竪穴住居 長さ32メートル。 集会所兼共同作業場でしょう。
ジオラマで全体の様子です。
盛土ですが、発掘の様子が分かりますね。 相当数の土器が土から出ています。
この中の様子ですが、骨組みは藤のつたで編まれていますね。 わりと明るく撮れていますが、スマホの灯でISO感度を25600に上げて撮影しました。
現在も発掘は続いているようです。
さて発掘された物を見てみましょう。
説明を聞いたのですが、時間がかかり過ぎて・・・・左から人差し指・膝の皿・足だったかな?、右端は上腕骨だったと思います。
ヒスイの穴は中央に砂を置き水を垂らしながら石の棒で擦るようです。
三内丸山遺跡では国内最多の2千点以上の土偶が出土しています。人型の土偶は縄文時代に登場し弥生時代になると極端に減少するようです。
土偶は精神文化に関わる道具と言えます。集団の維持・安定、傷病の回復、感謝、願望、様々な儀式・儀礼など様々だったでしょう。
道具が多く発見されていますが、木製や骨などで加工しています。
釣り針も立派なものです。 21世紀に住む皆さんは、この道具を機械なしで作れますか?
5500年も前の人々は道具を使い生活してきました。
その知恵に驚かされます。
三内丸山が長い間集団生活をできたのは、豊富な食料や交易があったからだと思います。
発掘された食物は、ヒラメ・カレイ・豆・瓢箪・イネ科の種子・ゴボウ・エゴマ・イカ・タコの口・ブリ・サバ・
シカ・イノシシは少なくノウサギ・ムササビが多い。 クリ・クルミは大量に利用されたようだ。
DNA分析ではクリやウルシは栽培されていたようだ。 ニワトコ・サルナシ・ヤマグワ・ヤマブドウ・などの種も多く見つかっている。
私が所持している石斧ややじりです。
形のいいものは完全な形をしていましたが、小学校5年か六年の時、夏休みの作品で学校に提出しました。
先生は驚いていましたよ。 戻って来たはずなのですが、引っ越し等で紛失してしまいました。
残っているのは、これだけなのですが、なぜ割れているかというと、畑から出土しました。
耕運機などに巻き込まれ破損してしまったのです。
そこからは沢山取れました。 後に遺跡に指定されましたが、持ち主が畑として栽培できないとして取り下げてもらったそうです。
三内丸山遺跡1994発掘の様子
三内丸山遺跡は15年ほど前には何度か訪れています。あの頃は立派なミュージアムなど無く、プレハブにあるボランティアの人に案内をしていただくというシンプルなものでした。
この遺跡は5500年~4000年の1500年間に渡り縄文人が住んでいたことが分かりました。
縄文時代の前期から中期に当たります。
それまでの縄文人の生活は、食料を求めて住居を転々としていたと云われていたのですが、そうした考えはくつがえされてしまったのです。
三内丸山ではすでに700棟以上の住居跡が発見されています。
今まで縄文人は4~5棟の小集落を作って生活していると思われて来ましたがそのような考えも覆されました。
この動画は青森の数々の遺跡を簡単に紹介しています。
「北海道・北東北の縄文遺跡群」~青森県の縄文遺跡~
海や山の恵みが定住を可能にさせたのでしょう。
大きさを比べるために奥に立っている人物と比べて下さい。
六本の柱の穴は直系2m 栗の木は直系1m高さ20mと推定される。 その柱の間隔は4.2m 一片35cmの縄文尺があったのではないかと推定される。それは他の建物にも応用されているからである。 なぜ上に何もないのか? それはいろいろな説がある為現在は何も置いていないそうです。
ゴミ捨て場 よく見ると土器のかけらが捨てられていますね。
ここは子供のお墓です。
この土器に遺体を入れて葬ったようです。
大型竪穴住居 長さ32メートル。 集会所兼共同作業場でしょう。
ジオラマで全体の様子です。
盛土ですが、発掘の様子が分かりますね。 相当数の土器が土から出ています。
この中の様子ですが、骨組みは藤のつたで編まれていますね。 わりと明るく撮れていますが、スマホの灯でISO感度を25600に上げて撮影しました。
現在も発掘は続いているようです。
さて発掘された物を見てみましょう。
説明を聞いたのですが、時間がかかり過ぎて・・・・左から人差し指・膝の皿・足だったかな?、右端は上腕骨だったと思います。
ヒスイの穴は中央に砂を置き水を垂らしながら石の棒で擦るようです。
三内丸山遺跡では国内最多の2千点以上の土偶が出土しています。人型の土偶は縄文時代に登場し弥生時代になると極端に減少するようです。
土偶は精神文化に関わる道具と言えます。集団の維持・安定、傷病の回復、感謝、願望、様々な儀式・儀礼など様々だったでしょう。
道具が多く発見されていますが、木製や骨などで加工しています。
釣り針も立派なものです。 21世紀に住む皆さんは、この道具を機械なしで作れますか?
5500年も前の人々は道具を使い生活してきました。
その知恵に驚かされます。
三内丸山が長い間集団生活をできたのは、豊富な食料や交易があったからだと思います。
発掘された食物は、ヒラメ・カレイ・豆・瓢箪・イネ科の種子・ゴボウ・エゴマ・イカ・タコの口・ブリ・サバ・
シカ・イノシシは少なくノウサギ・ムササビが多い。 クリ・クルミは大量に利用されたようだ。
DNA分析ではクリやウルシは栽培されていたようだ。 ニワトコ・サルナシ・ヤマグワ・ヤマブドウ・などの種も多く見つかっている。
私が所持している石斧ややじりです。
形のいいものは完全な形をしていましたが、小学校5年か六年の時、夏休みの作品で学校に提出しました。
先生は驚いていましたよ。 戻って来たはずなのですが、引っ越し等で紛失してしまいました。
残っているのは、これだけなのですが、なぜ割れているかというと、畑から出土しました。
耕運機などに巻き込まれ破損してしまったのです。
そこからは沢山取れました。 後に遺跡に指定されましたが、持ち主が畑として栽培できないとして取り下げてもらったそうです。
笠神の丘陵地帯も東京オリンピック(今度のじゃないですよ)頃までは食料の宝庫でした。
アケビやタラの芽はとり放題でしたし、栗(持ち主がいるぞ!)も山ほど落ちてました。
イチジクも柿も(そりゃ他所の家の敷地!)食べ放題でした。
...狩猟じゃないか.....
三内丸山遺跡が見つかった当時は、東北人としては、「どーだぁ!」とそっくり返りたい気分でした。
東京は長い長い間、ただの葦の野っぱらでしかなかったのですからね。
皮ごと食べてましたよ。なかなかです。
昔は柿の木もあったのですが、震災後廃棄しました。
平泉が繁栄していたころの江戸は田舎でしたからね。
今すっかり退化していますよ。
穴開けるのに時間をかけてコツコツ本当凄いです。
東京でも針の展示があり、また管玉も関東いっぱい出ているんで技術の継承あると凄いんですよね。
三内丸山も行きたいので昔からお土産買ってきて貰ったなあ。勾玉で赤い色が入った物でした。懐かしいので探してみます。