ヤマタイ国と武内宿祢(たけしうちのすくね)
九州の筑紫平野に勢力を持っていた物部イニエ(印恵)王サツマ半島をまわり、日向に進んだ。
当時そこは都万国(つまこく)と呼ばれていたがそこに都を造った。
イニエ王がサツマで迎えた阿多津姫(コノハナサクヤ姫)は、イキメ(宮崎市生目)で長男を生んだ。
かれはイキメで生まれたので出生地を名としてイクメノ御子と呼ばれた。
コノハナサクヤ姫は都万の都で亡くなったので都万神社に祀られている。
そこの案内板には神話のように書かれているが記紀の日向神話は、3世紀の史実に基づいている。
当時中国では漢が亡びて三国時代になった。
三国の中で北に位置する魏の国は韓国北部にも領土を広げ、そこを帯方郡と称していた。
この時代の和国の実態を記した史書が「三国志」魏書であった。
記紀の製作者は、この本を読んで内容を詳しく把握していた。
しかし、記紀は、その実態を隠す方針で書かれた。
九州で活躍し九州で没した物部イニエ王を、ヤマト(奈良地方)に居たことにして崇神大王に変えた。
実在の人、阿多津姫を「木ノ花咲クヤ姫」に変えて、日向神話を作った。
当時は神社の巫女が広い地域の人々の尊敬を集めていた。
強い政権を作るためには巫女は必要不可欠な存在であった。
九州では宇佐家を中心に豊王国が形成されていたイニエ大王は、宇佐ノ宮の姫巫女(ヒメミコ)、豊玉姫を后に迎えるために豊王国と
連合することを決めた皇后、豊玉姫の名前は、日向神話では竜宮の乙姫の名前として扱われている。
豊玉姫皇后は豊彦と豊姫を生んだ。
王子と王女の二人はヤマトに行ってからは、それぞれ「豊来入彦」「豊来入姫」と呼ばれた。
イニエ大王は短命で都万国で没した。
大王の無きあと豊玉姫は皇太后としての権力を持ち、女王として君臨した。
魏の人には、「姫巫女」がヒミコと聞こえたらしく、三国志魏書ではヒミコと書いている。
ヒミコは夫君、イニエ大王の意志をついで物部第2次東征を行い、ヤマト磯城王朝を倒し、新しい王朝をつくる計画を立てた。
物部、豊連合王国を強化するためにヒミコ女王は各地の有力者を都の都万国に集めた。
当時の都万は魏書に書かれているように人口が5万人に増大し、都は西都原(さいとばる)まで広がっていた。
武内大田根が紀伊国から招かれ、物部勢力に起源を持つ敬称の「宿祢」を物部イクメ王から与えられた。 武内宿祢
近江国額田(ぬかだ)から招かれたのが額田彦、かれも敬称をもらい額田宿祢
但馬国から招かれたのは、田道間守であった。 彼は韓国語が話せたので、通訳を与えられた。
そして魏に贈り物を持たせ施設を派遣することを考えた。
豪族に与えて味方に加えるための銅鏡(三角縁神獣鏡ではない)と戦争に使う旗を代わりに貰うのが施設の目的であった。
239年には田道間守(たじまもり)と十市瓊入姫(とおちにいりひめ)が使者として帯方郡を通って魏の洛陽におもむいた。 三国志魏書には田道間守の名は短く「難升米(だしょうまい)」と書かれた。
十市瓊入姫は「都市年利(つしぎゅうり)」と書かれている。
魏国からは合計「八本の旗」を受け取った。
それらを豊玉姫女王は宇佐のヤワタノ社に飾った。 この八つの幡により社は「八幡神社」と呼ばれるようになった。
それまでは宇佐の主神は「月読ノ神」であったが、ヒミコの東征が成功したので後世には宇佐八幡は武力の神と見なされるようになった。
HP:明かされた古代出雲王国の秘密
九州の筑紫平野に勢力を持っていた物部イニエ(印恵)王サツマ半島をまわり、日向に進んだ。
当時そこは都万国(つまこく)と呼ばれていたがそこに都を造った。
イニエ王がサツマで迎えた阿多津姫(コノハナサクヤ姫)は、イキメ(宮崎市生目)で長男を生んだ。
かれはイキメで生まれたので出生地を名としてイクメノ御子と呼ばれた。
コノハナサクヤ姫は都万の都で亡くなったので都万神社に祀られている。
そこの案内板には神話のように書かれているが記紀の日向神話は、3世紀の史実に基づいている。
当時中国では漢が亡びて三国時代になった。
三国の中で北に位置する魏の国は韓国北部にも領土を広げ、そこを帯方郡と称していた。
この時代の和国の実態を記した史書が「三国志」魏書であった。
記紀の製作者は、この本を読んで内容を詳しく把握していた。
しかし、記紀は、その実態を隠す方針で書かれた。
九州で活躍し九州で没した物部イニエ王を、ヤマト(奈良地方)に居たことにして崇神大王に変えた。
実在の人、阿多津姫を「木ノ花咲クヤ姫」に変えて、日向神話を作った。
当時は神社の巫女が広い地域の人々の尊敬を集めていた。
強い政権を作るためには巫女は必要不可欠な存在であった。
九州では宇佐家を中心に豊王国が形成されていたイニエ大王は、宇佐ノ宮の姫巫女(ヒメミコ)、豊玉姫を后に迎えるために豊王国と
連合することを決めた皇后、豊玉姫の名前は、日向神話では竜宮の乙姫の名前として扱われている。
豊玉姫皇后は豊彦と豊姫を生んだ。
王子と王女の二人はヤマトに行ってからは、それぞれ「豊来入彦」「豊来入姫」と呼ばれた。
イニエ大王は短命で都万国で没した。
大王の無きあと豊玉姫は皇太后としての権力を持ち、女王として君臨した。
魏の人には、「姫巫女」がヒミコと聞こえたらしく、三国志魏書ではヒミコと書いている。
ヒミコは夫君、イニエ大王の意志をついで物部第2次東征を行い、ヤマト磯城王朝を倒し、新しい王朝をつくる計画を立てた。
物部、豊連合王国を強化するためにヒミコ女王は各地の有力者を都の都万国に集めた。
当時の都万は魏書に書かれているように人口が5万人に増大し、都は西都原(さいとばる)まで広がっていた。
武内大田根が紀伊国から招かれ、物部勢力に起源を持つ敬称の「宿祢」を物部イクメ王から与えられた。 武内宿祢
近江国額田(ぬかだ)から招かれたのが額田彦、かれも敬称をもらい額田宿祢
但馬国から招かれたのは、田道間守であった。 彼は韓国語が話せたので、通訳を与えられた。
そして魏に贈り物を持たせ施設を派遣することを考えた。
豪族に与えて味方に加えるための銅鏡(三角縁神獣鏡ではない)と戦争に使う旗を代わりに貰うのが施設の目的であった。
239年には田道間守(たじまもり)と十市瓊入姫(とおちにいりひめ)が使者として帯方郡を通って魏の洛陽におもむいた。 三国志魏書には田道間守の名は短く「難升米(だしょうまい)」と書かれた。
十市瓊入姫は「都市年利(つしぎゅうり)」と書かれている。
魏国からは合計「八本の旗」を受け取った。
それらを豊玉姫女王は宇佐のヤワタノ社に飾った。 この八つの幡により社は「八幡神社」と呼ばれるようになった。
それまでは宇佐の主神は「月読ノ神」であったが、ヒミコの東征が成功したので後世には宇佐八幡は武力の神と見なされるようになった。
HP:明かされた古代出雲王国の秘密
後は幡に付いてなんですよね。
一般的にどんなものか頂いたのは?って講演会で聞いた時も色々知識がまだ頭のない中で考えてます。でそれを立てる道具らしい物があるとか聞いた事もあります。
で布かなあとも思ってましたけど、鏡もあるんだったら金属のが妥当ではないかな?とも。
相手もこれはないだろうという物を見せつける為もありそうなので。
で一般にも興味が高い時代の件なのでピンボケ発言で申し訳ないような気もしますが知識ない時点でのイメージ書いておきますね。
この前国立博物館で見てきたんですけど、ドイツだったらゴルトシュミートっていうかな?金属を模様のように繋いだ物で 博物館では階段脇に飾られていた物があったんですよね。それは平面での透し彫りみたいな物を4面くっ付けて立体にしていました。
どんな用途で何かは?っ展示であったのですがちょうど説明の時間の間際でじっくり見ることも出来なくてただ通ったけどでしたので。八幡ですから一対4面で門みたいな所に両方に立てるとか?布製でなく金属製で薄い素材なのを想像しました。
田道間守さんに聞いてみたいですね。
田道間守さんは昔からなんだか気になる方で、垂仁さんのお墓の中に関係ある地がありますし、お菓子の神っていうお話にちなんで神社にもどうしても行きたくて行ってみた場所もあります。
でこの前飛鳥にいったんであの辺りに関係ある方だったら更に嬉しいですけどね。多分薬師信仰や木の信仰を持っていたんではないか?とちょっと思ってます。健康によいとか長寿とかって結局食べ物や植物の効能の知識ですからね。
長屋王の方だったか?でバジルの花粉も出ているならば物の移動や知識の移動、そして発酵食品や食品保存の知識も飛鳥ですでにあった可能性もありますからね。
後11代の垂仁さんは、イクメという音が付くんですね。お子さん達は昔からいい素材に思えてなりませんでした。かなり気になりますし、大昔に奈良に行った時に行けば良かったと思っていた神社が移動したような印象があるのですが、それは8代の孝元天皇のお墓の近くなんですよね。時代でいうとその辺りも関係してくるのでしょうね。いろいろな事が気になってきますよ。
今回の舞台と繋がるかはわかりませんが、8〜11辺りの時代と関わって来るなら舞台はJR奈良駅辺りでしょうね。イサカワには八幡社もあった気もしますからね。
面白くなってきそうです。3744、5986
まだ、この内容もかみ砕いて理解できていません。
ほとんど本の引用です。
2度3度読みましたがまだよくわからない。
基礎知識が無い私には、何から何まで理解するのが大変です。まぁ、すべて理解しようとは思っいませんが!
この本の興味は4000年の歴史を口伝で伝承されていた家系の方の執筆です。実際にどのように口伝されてきたのか真実を知りたいのですが、時代が進み発掘された遺跡に話が合わせて作られたとすれば残念です。 しかしこれが真実ならば素晴らしいと思います。
まだ、3分の1です。他にもう一冊あります。
割愛しながら記録にしたいと思っています。
ところで、「八幡」ですが、私が中学のころまでは「ハチマン」とは読んだことがありません。
仙台に行くようになってから、ハチマン神社があることに気づきます。 なぜかといいますと。 住んでいた住所が多賀城市八幡(やわた)字鎮守××(旧地名)現在は「×丁目」になっています。
鎮守は多賀城に国府と鎮守府が置かれていたことに関係すると思います。 歴史の中から生まれてきた地名を役所の都合で簡単に消し去り番号を羅列する今のやり方には腹立たしいです。
「ヤワタ」や「ヤハタ」と言っていました。
八幡神社があるのですが、そこは「やわた遺跡」と言われています。
呼び名はどっちでもいいのですかね?
日本語はむずかしいですね。八つの旗を素直に呼べば「やはた」ですね。 いまだにわかりません?
多賀城八幡神社の記事。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/1a6f8367b0b3fb30cf976f494ba4595e
震災後の記事
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/086a0663ae0235fdb42f61a71e52c5e5
早く退職して、好きなだけ日本中周りたいです。
叶うだろうか?海外もまた行きたくてパタパタしています。
勉強嫌いな私が何故こんなことをしているのか不明です。何度かブログをやめようと思うのですが、毎日500~600のIPアドレスと今日も3665ページも何かしらアクセスされています。検索エンジンも含まれていると思いますが・・・。
そう思うと更新しなくちゃて思うんですよね。
ボケ防止にもなるでしょうし・・・(笑)
でもなんか興味のない人にも知ってほしいと思いながら書くのですが、興味のない人はこんな文字だらけの記事は見ないでしょうね。
以前、娘が電車に乗っていたとき隣の席の人が「ひーさんの散歩道」を見ていた。と言ってました。
それから小さな甥っ子なのですが、平家の落人などをネットで勉強していたそうです。我が家に来てPCの画面を見て勉強していたのは私が書いた記事だったのです。 驚いていましたよ(笑)
意外な人が読んでいてくれることにやめられなくなってしまったのです。
脱線してしまいましたね。失礼!
ヤハタやヤワタという音のが興味ありますね。この前テレビか何かでやってましたけどお寺の名前は音読なんですね。なので仏教に属してお山を付けたらハチマンになるんでしょうか?そう考えるとヤワタの方が興味わきますね。
東京の電車では元八幡行きってのがあるんですけどあれもモトヤワタ行きと発音してますね。
地形的には山形状が多そうですので山の付いたお寺機能からまた神社になってハチマンになっちゃたのかな?住民が一番音にこだわるでしょうね。
このタイミングでなので深読みして調べてみますね。
ひーさんの散歩道お隣で見てたらびっくりしちゃいますね。どこでどう繋がるか?そこもかなり興味深いです。何しろ東北は情報がないんですけど、逆に噂的な曖昧な情報は少なくてとっても有益に感じますよね。ひーさんの信念もありますし。
今後も楽しみにしております。4750
東京なんかは葦の茂る湿地帯であったろうし。
宮城も広大な平野部は洪水だらけの湿地帯で、仙台も「宮城野原」ですしね。
出雲とか日向とか吉備とか会津が栄えていましたし、東北では多賀城が断然大都会?でした。
そう、息子たちには「昔は東京よりも多賀城が都会だったんだぞ」としょっちゅう吹き込んできました。
鉄兄弟は「しょせん仙石線は4両じゃないか」と言い返してきますが....
実は2人息子とも、酔漢さんのご長男の高校の後輩です....
奈良が都だったころ、この多賀城・鹽竈は遠かったことでしょう。
ここに国府を築き鎮守府を置き、平泉での戦い、アテルイやモレの時代、坂上田村麻呂が5万の兵を率い戦いますが敗れます。次に10万の兵で戦います。つまり多賀城には十数万の人口があったわけです。
この時代の人数にしては大きいと思います。
都人は国司で来ていた源融(みなもとのとおる:光源氏のモデルの一人)が都に帰って鹽竈の話をし、それを聞いている貴族は東北にあこがれるのです。
多賀城の末の松山や野田の玉川などの万葉の詩はそんな人々が書いたのかも知れませんね。
仙石線は4両でも東北本線は6両もあるのでよろしく。
酔漢さんの長男って確か地下の仕事でしたかね。
クロンシュタットさんがネットから消えた時は本当に心配しましたよ。
青森の三内丸山遺跡は仕事で何度か行っているのですが、そのころは興味もなく中は見たことがなかったのです。九月に青森に行きますので休みが取れれば行きたいと思っています。縄文時代の遺跡は青森も多いですからね。
そうそう八幡・・・・語源はやはり八本の旗がしっくりきますね。