明かされる出版秘話
青森市から、北西へ車を走らせること二時間余り。市浦村は日本海に面した小さな村である。
遥か昔、安東氏が北方交易の拠点とした土地として伝えられるが、その栄光を想像させる施設は、今はほとんど残っていない。
市浦村で関係者らの取材を重ねているうちに浮き彫りになってきたのは、『外三郡誌』の出版に至るまでの不思議な経緯だった。
それは実に興味深く、奇妙な話だった。
市浦村役場が『外三郡誌』にかかわるようになったのは、白川治三郎村長時代(1791~83年)のこと。
村長と『外三郡誌』の発表者とされる和田、そして復数の編集委員は以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通して
付き合いがあったという
1972年(昭和47)頃、五所川原市から大変なもの(古文書)が発見されたという噂が五所川原周辺に広がったが、
それが後の『外三郡誌』だった。
それに絡んで、和田家から安東氏の秘宝の隠し場所が書かれた文書が見つかったという話も持ち上がり、一部では秘宝探しの動きが出たという。
当時、噂の文書を見た人によると、表紙には「安東文書」と書かれ、その後有名になる「東日流外三郡誌」とは、
そのころ呼ばれていなかったという。
和田家文書の信憑性を確かめるため、村役場は村史編集委員会を結成する前に、安東氏の秘宝の現場調査を行ったが、
大きな成果は収められなかったという。
このように和田と村長、複数の編集委員をつなぐ個人的な関係の中からいつしか生まれたのが、『外三郡誌』を村史に取り入れようという
計画だったという。
当初、編集委員は十人ほどで和田もその一員だった。
和田は『外三郡誌』が外部の目に触れることを極端に嫌がったため編集委員会は文書を一時借り出してはコピーし、
そのコピーを原資料として使ったという。
文書はB5判ほどの大きさで和田から一回に渡される文書はそれほど多くなかった。
『外三郡誌』の編集責任者に指名されたのは、十三湊の歴史に詳しい地元の郷土史家、豊島勝蔵(故人)だった。
地元の小学校の校長も務めた実直な豊島は、編集委員会から渡されたコピー文書を原稿化した。
文書の中にはコピーに交じって実際に筆で書かれたものもあったという。
和田から渡される古文書については、編集委員の間でもいろいろ話題になり、「墨が新しくて当て字が多い。
何より文章の形式が古いものではない。おかしい」との指摘があったという。
しかし、大勢を占めたのは「うそか真実かわからないが、とにかく面白い記録」という受け止め方だった。
もともと、『外三郡誌』は村史の参考文献として付け加える予定だった。
ところが、編集中に一足先に出版されたお隣の「車力村史」(1973年)に、門外不出であるはずの『外三郡誌』の一部が掲載されていたから、
関係者は仰天した。
先を越された以上は、『外三郡誌』を大きく扱うしかないと方針を転換し、単独の『資料編』として出版することに進路変更したという。
編集委員会の話し合いによって「文書のすべてを出し学者に批判してもらおう」ということで態度を決めたという。
結局、出版まで要した時間は約5年、文書の所有者である和田に対しては、村役場から謝礼が渡されるとともに、「和田は村活性化の立役者」
という声すら上がった。
しかし、出版後に多数の専門家から問い合わせや厳しい指摘を受けだしてから、編集委員たちも疑問を強く持ち出し、出版元の村役場も困惑。
そして・・・というわけだった。
津軽半島の寒村をどうにか有名にしたいという切ない「村おこし」の気持ちと、人間なら誰もが持っているささやかな「功名心」。
それが複雑に絡んで生まれたのが、「市浦村史資料編「東日流外三郡誌」と言えそうだった。
実は郷土館長当時に、お名前は忘れたが安東の『古文書』だ、といい五冊ほど持ってこられて、之は津軽で最も古い物で安東の事を
細かく書いてある。
当時の津軽は上方政府と違う「国」としての盛力者の安東がいたのだ、この古文書に書いてある。
これを津軽の歴史として認めてくれと言われた。
三冊程手に取ってみた。 文字の書き方や文面はそれほど古くない。紙質にしても何百年も前に感じられなかった。
珍しい古記録ですネ。歴史的資料かどうかと言うことは、専門的な鑑定と内容点検が必要ですから、京都大学にお願いして、
歴史的資料として良いか見て貰います。
ですから初めの方二冊、中間で一冊、終わりの方で二冊、五冊ほどお貸しくださいませんか?
預かり証も行政責任者と私の印を押してお渡しいたします、責任を持って取り扱います。
文章、字体、スミや書質は、年代も明らかになるし、内容は専門的ですから見抜くことも出来ますからと言った。
持って来られた人は、そんなことまでしてでなければ認められない貴重なものだ、と言い、サッサと風呂敷に包んでしまわれた。(中略)
その後、三群誌と三群誌絵図を購入して京都大学へ寄贈、送本した。
一ヶ月程経ってから返送されてきた。 半紙に、こうした事に興味を持たないで「近世・近代」を積極的に勉強する事を祈ります。
と三十字程のお便りでした。(『津軽魂を潰した人々』1992年)
つまり、謎の男は五所川原市郷土館の公的な”お墨付き”だけを欲しかったのでしょう。貴重な本ならば、京都大学で正式な鑑定を受けさらに
史料価値を上げたくなるはずだが、この男は逃げた。
編集者の証言
その『安東文書』なるものをじかに目にし、手にとっていた人物がいた。
当時、青森県立図書館に勤めていた三上強二だ。それも、当時和田の自宅居間でだ。
それは、紙も墨も新しく、古文書としての体裁をなしていないお粗末なものだったいう。
三上は思い出す。
「村長の親類から”有る文書を見てくれ”と頼まれて和田さんの自宅を訪ねたんだ。そうしたら居留守を使われてね。
そのまま帰るのもしゃくだから、”待たせてもらいましょう”と居間に上がって待っていたら、和田さんがやっと出てきたんです。
そこで見せられたのが『安東文書』なるもの。 最初に出てくるのが安東氏の系譜で長髄彦うんぬんという下りが出て来て、水軍の話になる。
思わず笑ったのが、この軍船の絵。 北欧のバイキングの船そのものなんですよ。
だから和田さんに「安東時代に、少なくとも日本でこんな船は造られていなかったはずだよ」と指摘しました。
そして、ずっと見ていって気付いたのは、紙と墨が合わないということ。 墨がなじんでいないんだな。
私も図書館に三十年間いましたから、古文書を見る機会には恵まれていました。
だから墨と紙の整合性、文体などがわかるわけで、”これはおかしい。まったくあっていない。信憑性が無い”と言い放ったわけですよ。
何より、表紙の『安東文書』の墨書きが何より和田さんの字でしたから、それで駄目だと・・・・
その時点ですでに、村長グループに、この文書のコピーが渡っていたのでしょう。
三十年以上過ぎた今でも、三上の脳裏にありありと浮かぶのは、”偽書”と指摘した時の和田の悔しそうな顔だった。
編集当時、同じ内容の部分が数か所もあり、年号もそれぞれに違っていたりして”変だな””変だな”とは思っていました。
そう思いながらの作業だったのです。
『外三郡誌』が”嘘”だと気づき出したのは、発刊後の事です。 多数の人から問い合わせがあり、専門家から指摘があったからです。
<以下省略>
市浦村史は現在公開されていないようです。 この件についてはこの辺で終了します。
どう考えても、『外三郡誌』関係の文書は和田氏が書いた事は紛れもない事実に思われます。
あの右上がりの癖字は、素人が見ても同一人物にしか見えません。
この偽書にはうんざりしてきましたので、短縮して書きたいと思います。
和田の元から新たにご神体が一つ、四柱神社(ししゃ神社:田沢湖町生保内地区)に加わったと人伝えに聞いていた。
それは「三千年前の遮光器土偶」とされていた。
佐々木(田沢湖町の旧家の当主)は、和田さんの説明によると、その遮光器土偶はつい最近、安藤氏の秘宝がある石塔山荒覇吐神社の
洞窟から出てきたもので、出土した十二個のうち無傷の一個をよこすということでした。
青森県の鑑定もあるとのこと。 そんな貴重なものなら無料でもらうわけにはいかないということで、青森県の鑑定料にあたる七万円を支払った。
遮光器土偶を受け取りに行った氏子たちは、本物である証拠に見つかった洞窟を見せてくれと頼んだが案内してくれなかった。
ながながと書きましたが、結論は偽物でレプリカとわかりました。石塔山荒覇吐神社も作りものものですが。
遮光器土偶はレプリカです。
上記の写真を見れば石塔山神社も偽物だということがわかります。本物のあらはばき神社に失礼ですよ。
新郷村にあるという「キリストの墓」
実は、村興しのために嘘の伝説を受け入れたが始まりだった。
下の写真は、鹿角のストーンサークルに行った時に撮ったものだが、古代史に興味が無かった頃から気になって知ってはいた。
バスガイドさんもここの伝説をお話する方もいる。
ネット上には、この「ナニャドラヤ」の歌の訳もあるが、もうどうでもいいので紹介しません。
こんもりと盛られた土の小さな丘二つ。
一つはキリストの弟イスキリの墓だそうである。墓守りの古老の話ではヘライというこの土地の名、民謡の歌詞ナニャドラヨーなどヘブライ語に
非常に似ていること、昔、子供の頃に炭で十字を書き入れたという風習、語源がどこにあるかわからない多くの言葉、加えてキリストがこの地に
生存したということを記した文献がはっきりあるという事実など種々の信じがたい話をしてくれた。
「歴史上、キリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされ、そこで死んだということになっている。 でも本当は違うんだ。
弟のイスキリが身代わりになったんだな。 窮地を脱したキリストは東へ東へと逃れ、ついには日本にたどり着いた。それが八戸だ。
八戸に上陸後、キリストは居を戸来に定めて地元の女性と結婚し、幸せに暮らしたそうだ。
だから、戸来の中には今でも時々、白人のような顔つきをした人が現れる。キリストの名残りだ。
キリストの身代わりとなったイスキリの頭髪と耳を戸来に埋めてねんごろに供養したがそれがいまに残る墓なんだそうだ。
戸来にある二つの墓はキリストとイスキリのもの、そういう事なんだ」
驚くことに、昭和の産物であるはずのキリスト伝説が、江戸時代に編纂されたとされる和田家文書にもしっかりと登場しているとなると・・・・・。
それが明らかにされたのは、1994年4月下旬に奈良市の奈良大学で開かれた市民参加型の公開シンポジウム「東北王朝・東日流外三郡誌偽作事件」
(ヤマタイ国研究会主催)でのことである。
シンポジウムでは、「東日流外三郡誌」をはじめとする一連の和田家文書が「昭和の知識で書かれた現代人の製作である」と改めて報告されるとともに
製作の際に使われたと考えられる「種本」の存在まで具体的に列挙された。
「外三郡誌」問題は新たな段階を迎えようとしていた。
奈良大学を会場にシンポジウムが開かれ、全国から古代史の研究家やファンら百人以上が詰めかけた。
東北を拠点に吹き荒れる嵐が、古代史の分野で無視できないほど”巨大化”してきたことから、急遽シンポジウムを開くことになったのだ。
嵐の名はもちろん「外三郡誌」偽書問題だ。
一連の和田家文書は、昭和以降の知識で書かれているという特徴があります。
ですから、江戸時代に書かれたというのは真っ赤なウソなのです。
その最たる例が青森県のキリスト伝説です
キリスト伝説は1935年に創作された作り話です。
それなのに、和田家文書には寛政六年(1794)の情報として載っています。
キリスト伝説が登場する和田家文書は『奥州風土記 全』。 このなかの「戸来上下大石由来」という項に次の記載があった。
戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す
寛政六年七月二日 秋田孝季
新郷村の戸来地区にはキリストの墓という変わった遺跡がある、とはっきり書かれている。
ところが、である。原田によると、キリスト伝説が降ってわいたように戸来地区(当時戸来村)に出現したのは、前途のようにたかだか
七十年ほど前の1935年8月のことで、江戸時代以前などではなかった。
きっかけをつくったのは、古代史マニアの画家、鳥谷幡山(とやばんざん)だった。
鳥谷はその前年の1934年、村役場の招きで十和田湖に隣接する迷ケ平(まよがたい)を見て回っていた。
しかし迷ケ平は村内の西端にに位置する高原で、村役場は十和田八幡平国立公園の一部にともくろんでいた。
しかし、不幸にも選定から外されてしまった。 このため、村役場が次善の策として思いついたのが、観光資源・迷ケ平の大々的な売り込みだった。
その宣伝役を仰せつかったのが鳥谷というわけだった。
鳥谷は日本にもピラミッドがあると信じ、村内にある大石神山がそうだろうと考えていた。
和田家文書の表題にある「戸来大石由来」とはこの大石神山のことを指していた。
鳥谷は村役場と相談した結果、天津教という新興宗教の教祖である竹内巨麿に白羽の矢を立て、大石神山がピラミッドであることを竹内に
確認させようとした。
竹内を呼んだ理由は簡単だった。 天津教の教祖に代々伝わるとされる古文書で、教典と位置づけられている「竹内文献」にある。
この中で日本はかつて世界最高の聖地であり、キリストをはじめモーゼ、釈迦、孔子、マホメットらが来日したと説かれていたからである。
いわゆる「聖者来日伝承」である。
戸来を訪れた竹内は、鳥谷らとともに大石神山を視察した。
すると、竹内は大石神山の麓の集落にある二つの盛土の前で突然立ち止まり、「やはり、ここだ」と騒ぎ始めた。
その後、竹内は教団本部に戻り、神宝である「竹内文献」のなかからキリストの遺言が見つかったと発表し、戸来の盛り土がキリストの墓だとした。
これがキリストの墓”発見”のいきさつだった。
それまで、戸来にはキリスト伝説などなかったのに!!!である。
私の意見だが、笑ってしまいますね。キリストの遺言だとか、ただの盛り土をキリストの墓だとか・・・・
竹内文献を読んだ人はまじめにそう思っているのでしょうか?? これでは偽書と言われてもおかしくないですね。
竹内が二つの盛土の前で「ここだ」と大げさにうなずき、村長に「ここには十来塚と記しなさい」とご託宣を行ったという経緯がよくわかる。
その根拠となったのが「だれにも見せない古文献」である「竹内文献」だった。
村長は、このご託宣こそが村起こしの絶好のチャンスと飛びついた。
こうして世にも不思議なキリスト伝説が、それまでほとんどの日本人が耳にしたこともなかった東北の寒村で産声をあげたのだった。
それから二年後、早くも山根菊子が著書「光は東方より」で戸来を東方の聖地にまつり上げ、一躍有名にした。
山根は聖者来日伝承を研究していた。
筆者は、良く考えれば、岩手~青森 この辺の地名は一戸、二戸、三戸、八戸などと戸が入っている。これは簡単に言ううと牧場の名残
昔は馬の産地で、一の牧場の戸 二の牧場の戸 戸は柵の扉を想像するとわかりやすい。昔殿様が、お互いの牧場を競い合わせ良い
馬を作ろうとしたのです 。 戸来と書いてヘブライと読ませたのは、考えすぎ、戸から来る、素直に考えれば隣の戸か来たと考えれば
何の不思議もない。町おこしでこれはやりすぎでは、イスキリの話はうまくできていますがね。証拠が不足です。
さらに二年後の1939年には、ドキュメンタリー映画「日本に於けるキリストの遺蹟を探る」が公開された。
映像が持つ宣伝効果は大きかった。
映像や活字は、誰もが信用してしまいますね。 視聴率や販売部数を上げるには面白味や話題性が大事ですからね。
東日流外三郡誌もTVに取り上げられましたが、後日、謝罪の放送があったようです。
村が騙された
岩手県衣川村
衣川村とは、わかりやすく言えば、世界遺産の平泉に隣接する街で、あの大河ドラマ「炎立つ」の舞台でもあり、または衣川の合戦は
弁慶の立往生でも有名な戦地でもある。平泉は源義経最期の地でもあり、歴史のネタは豊富である。
この地で、前九年の役・後三年の役という戦いがあった。内容は省略しますが、つまり国府軍と安倍氏の戦いである。
この話は敢えて小生のブログでもHPでも語っていない。 なぜか? それはただ長くなるからです。
登場人物も多いし家族関係も複雑化していしてゆきます。
話はそれましたが、ここでの問題は、その安倍氏の墓に関する問題でした。
以前にも書きましたが、今から16年程前に自分は仕事(旅行・バス)の関係で週に一度は平泉を訪れていました。
その時、間違いなく大きな看板で「安倍一族の墓」とあったのです。
いつか個人で行ってみようと考えていましたがいつのまにか消えていたのです。
その理由がこの本で知ることになりました。
簡潔に話せば・・・・
「安倍一族の墓苑」(撮影:安倍義雄 1988年6月)
この安倍一族の墓ににあった遺骨は、クジラの骨だったのです。
掘り起こされた骨壺。中に入っていた「安倍頼時の遺骨」は、その後の鑑定でクジラの化石であることが判明した。
平安時代中期の前九年の役(1056~1062)で源頼義に敗れ、鳥海柵(岩手県金ヶ崎か宮城県鳴子町といわれる)
で討ち死にしたとされる蝦夷の首長、安倍頼時の遺骨と称するものを調べてみたら、なんとクジラの骨だった、というのである。
この大問題にも外三郡誌の和田が深くかかわっていた。
頼時の直系の子孫とされる安倍義雄(東京都府中市)さんは、「もう頭にきました。先祖が侮辱されたようで腸わたが煮えくり返る思いです。
以前、衣川村をたまたま通りがかって、「安倍一族の墓苑」という看板を目にした時からおかしいなとは思っていたんですがね。
こういうのを歴史の歪曲、改竄というのではないでしょうか。一種の犯罪行為です。
名誉棄損です。先祖である頼時の骨をネタに、善意の関係者をだましたことは絶対に許せません」
外三郡誌の和田は、頼時の骨とされるものを石塔山荒覇吐神社から「分骨した」と言っている。
安倍氏は金ヶ崎で亡くなったのに、五所川原の聞いたこともない石塔山などという神社にあったとは初耳だ。
こんな話を書くのも腹立たしいので、この辺にします。
この墓苑には一千万円以上の経費がかかりました。
村がだまされたのです。
この骨なのですが、人間の骨ではなく、古代のナガスクジラの耳周骨(ペリオティック)の化石との判定だった。
和田の著書「知られざる東日流日下王国」の中に登場する「津保化族の骨片」。と全く同じものであることがわかる。
長々と書きましたが、これでこの記事は終了とします。
あなたはそれでも、東日流外三郡誌を信じますか?
偽書東日流外三郡誌3-1に戻る
青森市から、北西へ車を走らせること二時間余り。市浦村は日本海に面した小さな村である。
遥か昔、安東氏が北方交易の拠点とした土地として伝えられるが、その栄光を想像させる施設は、今はほとんど残っていない。
市浦村で関係者らの取材を重ねているうちに浮き彫りになってきたのは、『外三郡誌』の出版に至るまでの不思議な経緯だった。
それは実に興味深く、奇妙な話だった。
市浦村役場が『外三郡誌』にかかわるようになったのは、白川治三郎村長時代(1791~83年)のこと。
村長と『外三郡誌』の発表者とされる和田、そして復数の編集委員は以前からの知り合いで、骨董品のやりとりなどを通して
付き合いがあったという
1972年(昭和47)頃、五所川原市から大変なもの(古文書)が発見されたという噂が五所川原周辺に広がったが、
それが後の『外三郡誌』だった。
それに絡んで、和田家から安東氏の秘宝の隠し場所が書かれた文書が見つかったという話も持ち上がり、一部では秘宝探しの動きが出たという。
当時、噂の文書を見た人によると、表紙には「安東文書」と書かれ、その後有名になる「東日流外三郡誌」とは、
そのころ呼ばれていなかったという。
和田家文書の信憑性を確かめるため、村役場は村史編集委員会を結成する前に、安東氏の秘宝の現場調査を行ったが、
大きな成果は収められなかったという。
このように和田と村長、複数の編集委員をつなぐ個人的な関係の中からいつしか生まれたのが、『外三郡誌』を村史に取り入れようという
計画だったという。
当初、編集委員は十人ほどで和田もその一員だった。
和田は『外三郡誌』が外部の目に触れることを極端に嫌がったため編集委員会は文書を一時借り出してはコピーし、
そのコピーを原資料として使ったという。
文書はB5判ほどの大きさで和田から一回に渡される文書はそれほど多くなかった。
『外三郡誌』の編集責任者に指名されたのは、十三湊の歴史に詳しい地元の郷土史家、豊島勝蔵(故人)だった。
地元の小学校の校長も務めた実直な豊島は、編集委員会から渡されたコピー文書を原稿化した。
文書の中にはコピーに交じって実際に筆で書かれたものもあったという。
和田から渡される古文書については、編集委員の間でもいろいろ話題になり、「墨が新しくて当て字が多い。
何より文章の形式が古いものではない。おかしい」との指摘があったという。
しかし、大勢を占めたのは「うそか真実かわからないが、とにかく面白い記録」という受け止め方だった。
もともと、『外三郡誌』は村史の参考文献として付け加える予定だった。
ところが、編集中に一足先に出版されたお隣の「車力村史」(1973年)に、門外不出であるはずの『外三郡誌』の一部が掲載されていたから、
関係者は仰天した。
先を越された以上は、『外三郡誌』を大きく扱うしかないと方針を転換し、単独の『資料編』として出版することに進路変更したという。
編集委員会の話し合いによって「文書のすべてを出し学者に批判してもらおう」ということで態度を決めたという。
結局、出版まで要した時間は約5年、文書の所有者である和田に対しては、村役場から謝礼が渡されるとともに、「和田は村活性化の立役者」
という声すら上がった。
しかし、出版後に多数の専門家から問い合わせや厳しい指摘を受けだしてから、編集委員たちも疑問を強く持ち出し、出版元の村役場も困惑。
そして・・・というわけだった。
津軽半島の寒村をどうにか有名にしたいという切ない「村おこし」の気持ちと、人間なら誰もが持っているささやかな「功名心」。
それが複雑に絡んで生まれたのが、「市浦村史資料編「東日流外三郡誌」と言えそうだった。
実は郷土館長当時に、お名前は忘れたが安東の『古文書』だ、といい五冊ほど持ってこられて、之は津軽で最も古い物で安東の事を
細かく書いてある。
当時の津軽は上方政府と違う「国」としての盛力者の安東がいたのだ、この古文書に書いてある。
これを津軽の歴史として認めてくれと言われた。
三冊程手に取ってみた。 文字の書き方や文面はそれほど古くない。紙質にしても何百年も前に感じられなかった。
珍しい古記録ですネ。歴史的資料かどうかと言うことは、専門的な鑑定と内容点検が必要ですから、京都大学にお願いして、
歴史的資料として良いか見て貰います。
ですから初めの方二冊、中間で一冊、終わりの方で二冊、五冊ほどお貸しくださいませんか?
預かり証も行政責任者と私の印を押してお渡しいたします、責任を持って取り扱います。
文章、字体、スミや書質は、年代も明らかになるし、内容は専門的ですから見抜くことも出来ますからと言った。
持って来られた人は、そんなことまでしてでなければ認められない貴重なものだ、と言い、サッサと風呂敷に包んでしまわれた。(中略)
その後、三群誌と三群誌絵図を購入して京都大学へ寄贈、送本した。
一ヶ月程経ってから返送されてきた。 半紙に、こうした事に興味を持たないで「近世・近代」を積極的に勉強する事を祈ります。
と三十字程のお便りでした。(『津軽魂を潰した人々』1992年)
つまり、謎の男は五所川原市郷土館の公的な”お墨付き”だけを欲しかったのでしょう。貴重な本ならば、京都大学で正式な鑑定を受けさらに
史料価値を上げたくなるはずだが、この男は逃げた。
編集者の証言
その『安東文書』なるものをじかに目にし、手にとっていた人物がいた。
当時、青森県立図書館に勤めていた三上強二だ。それも、当時和田の自宅居間でだ。
それは、紙も墨も新しく、古文書としての体裁をなしていないお粗末なものだったいう。
三上は思い出す。
「村長の親類から”有る文書を見てくれ”と頼まれて和田さんの自宅を訪ねたんだ。そうしたら居留守を使われてね。
そのまま帰るのもしゃくだから、”待たせてもらいましょう”と居間に上がって待っていたら、和田さんがやっと出てきたんです。
そこで見せられたのが『安東文書』なるもの。 最初に出てくるのが安東氏の系譜で長髄彦うんぬんという下りが出て来て、水軍の話になる。
思わず笑ったのが、この軍船の絵。 北欧のバイキングの船そのものなんですよ。
だから和田さんに「安東時代に、少なくとも日本でこんな船は造られていなかったはずだよ」と指摘しました。
そして、ずっと見ていって気付いたのは、紙と墨が合わないということ。 墨がなじんでいないんだな。
私も図書館に三十年間いましたから、古文書を見る機会には恵まれていました。
だから墨と紙の整合性、文体などがわかるわけで、”これはおかしい。まったくあっていない。信憑性が無い”と言い放ったわけですよ。
何より、表紙の『安東文書』の墨書きが何より和田さんの字でしたから、それで駄目だと・・・・
その時点ですでに、村長グループに、この文書のコピーが渡っていたのでしょう。
三十年以上過ぎた今でも、三上の脳裏にありありと浮かぶのは、”偽書”と指摘した時の和田の悔しそうな顔だった。
編集当時、同じ内容の部分が数か所もあり、年号もそれぞれに違っていたりして”変だな””変だな”とは思っていました。
そう思いながらの作業だったのです。
『外三郡誌』が”嘘”だと気づき出したのは、発刊後の事です。 多数の人から問い合わせがあり、専門家から指摘があったからです。
<以下省略>
市浦村史は現在公開されていないようです。 この件についてはこの辺で終了します。
どう考えても、『外三郡誌』関係の文書は和田氏が書いた事は紛れもない事実に思われます。
あの右上がりの癖字は、素人が見ても同一人物にしか見えません。
この偽書にはうんざりしてきましたので、短縮して書きたいと思います。
和田の元から新たにご神体が一つ、四柱神社(ししゃ神社:田沢湖町生保内地区)に加わったと人伝えに聞いていた。
それは「三千年前の遮光器土偶」とされていた。
佐々木(田沢湖町の旧家の当主)は、和田さんの説明によると、その遮光器土偶はつい最近、安藤氏の秘宝がある石塔山荒覇吐神社の
洞窟から出てきたもので、出土した十二個のうち無傷の一個をよこすということでした。
青森県の鑑定もあるとのこと。 そんな貴重なものなら無料でもらうわけにはいかないということで、青森県の鑑定料にあたる七万円を支払った。
遮光器土偶を受け取りに行った氏子たちは、本物である証拠に見つかった洞窟を見せてくれと頼んだが案内してくれなかった。
ながながと書きましたが、結論は偽物でレプリカとわかりました。石塔山荒覇吐神社も作りものものですが。
遮光器土偶はレプリカです。
上記の写真を見れば石塔山神社も偽物だということがわかります。本物のあらはばき神社に失礼ですよ。
新郷村にあるという「キリストの墓」
実は、村興しのために嘘の伝説を受け入れたが始まりだった。
下の写真は、鹿角のストーンサークルに行った時に撮ったものだが、古代史に興味が無かった頃から気になって知ってはいた。
バスガイドさんもここの伝説をお話する方もいる。
ネット上には、この「ナニャドラヤ」の歌の訳もあるが、もうどうでもいいので紹介しません。
こんもりと盛られた土の小さな丘二つ。
一つはキリストの弟イスキリの墓だそうである。墓守りの古老の話ではヘライというこの土地の名、民謡の歌詞ナニャドラヨーなどヘブライ語に
非常に似ていること、昔、子供の頃に炭で十字を書き入れたという風習、語源がどこにあるかわからない多くの言葉、加えてキリストがこの地に
生存したということを記した文献がはっきりあるという事実など種々の信じがたい話をしてくれた。
「歴史上、キリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされ、そこで死んだということになっている。 でも本当は違うんだ。
弟のイスキリが身代わりになったんだな。 窮地を脱したキリストは東へ東へと逃れ、ついには日本にたどり着いた。それが八戸だ。
八戸に上陸後、キリストは居を戸来に定めて地元の女性と結婚し、幸せに暮らしたそうだ。
だから、戸来の中には今でも時々、白人のような顔つきをした人が現れる。キリストの名残りだ。
キリストの身代わりとなったイスキリの頭髪と耳を戸来に埋めてねんごろに供養したがそれがいまに残る墓なんだそうだ。
戸来にある二つの墓はキリストとイスキリのもの、そういう事なんだ」
驚くことに、昭和の産物であるはずのキリスト伝説が、江戸時代に編纂されたとされる和田家文書にもしっかりと登場しているとなると・・・・・。
それが明らかにされたのは、1994年4月下旬に奈良市の奈良大学で開かれた市民参加型の公開シンポジウム「東北王朝・東日流外三郡誌偽作事件」
(ヤマタイ国研究会主催)でのことである。
シンポジウムでは、「東日流外三郡誌」をはじめとする一連の和田家文書が「昭和の知識で書かれた現代人の製作である」と改めて報告されるとともに
製作の際に使われたと考えられる「種本」の存在まで具体的に列挙された。
「外三郡誌」問題は新たな段階を迎えようとしていた。
奈良大学を会場にシンポジウムが開かれ、全国から古代史の研究家やファンら百人以上が詰めかけた。
東北を拠点に吹き荒れる嵐が、古代史の分野で無視できないほど”巨大化”してきたことから、急遽シンポジウムを開くことになったのだ。
嵐の名はもちろん「外三郡誌」偽書問題だ。
一連の和田家文書は、昭和以降の知識で書かれているという特徴があります。
ですから、江戸時代に書かれたというのは真っ赤なウソなのです。
その最たる例が青森県のキリスト伝説です
キリスト伝説は1935年に創作された作り話です。
それなのに、和田家文書には寛政六年(1794)の情報として載っています。
キリスト伝説が登場する和田家文書は『奥州風土記 全』。 このなかの「戸来上下大石由来」という項に次の記載があった。
戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す
寛政六年七月二日 秋田孝季
新郷村の戸来地区にはキリストの墓という変わった遺跡がある、とはっきり書かれている。
ところが、である。原田によると、キリスト伝説が降ってわいたように戸来地区(当時戸来村)に出現したのは、前途のようにたかだか
七十年ほど前の1935年8月のことで、江戸時代以前などではなかった。
きっかけをつくったのは、古代史マニアの画家、鳥谷幡山(とやばんざん)だった。
鳥谷はその前年の1934年、村役場の招きで十和田湖に隣接する迷ケ平(まよがたい)を見て回っていた。
しかし迷ケ平は村内の西端にに位置する高原で、村役場は十和田八幡平国立公園の一部にともくろんでいた。
しかし、不幸にも選定から外されてしまった。 このため、村役場が次善の策として思いついたのが、観光資源・迷ケ平の大々的な売り込みだった。
その宣伝役を仰せつかったのが鳥谷というわけだった。
鳥谷は日本にもピラミッドがあると信じ、村内にある大石神山がそうだろうと考えていた。
和田家文書の表題にある「戸来大石由来」とはこの大石神山のことを指していた。
鳥谷は村役場と相談した結果、天津教という新興宗教の教祖である竹内巨麿に白羽の矢を立て、大石神山がピラミッドであることを竹内に
確認させようとした。
竹内を呼んだ理由は簡単だった。 天津教の教祖に代々伝わるとされる古文書で、教典と位置づけられている「竹内文献」にある。
この中で日本はかつて世界最高の聖地であり、キリストをはじめモーゼ、釈迦、孔子、マホメットらが来日したと説かれていたからである。
いわゆる「聖者来日伝承」である。
戸来を訪れた竹内は、鳥谷らとともに大石神山を視察した。
すると、竹内は大石神山の麓の集落にある二つの盛土の前で突然立ち止まり、「やはり、ここだ」と騒ぎ始めた。
その後、竹内は教団本部に戻り、神宝である「竹内文献」のなかからキリストの遺言が見つかったと発表し、戸来の盛り土がキリストの墓だとした。
これがキリストの墓”発見”のいきさつだった。
それまで、戸来にはキリスト伝説などなかったのに!!!である。
私の意見だが、笑ってしまいますね。キリストの遺言だとか、ただの盛り土をキリストの墓だとか・・・・
竹内文献を読んだ人はまじめにそう思っているのでしょうか?? これでは偽書と言われてもおかしくないですね。
竹内が二つの盛土の前で「ここだ」と大げさにうなずき、村長に「ここには十来塚と記しなさい」とご託宣を行ったという経緯がよくわかる。
その根拠となったのが「だれにも見せない古文献」である「竹内文献」だった。
村長は、このご託宣こそが村起こしの絶好のチャンスと飛びついた。
こうして世にも不思議なキリスト伝説が、それまでほとんどの日本人が耳にしたこともなかった東北の寒村で産声をあげたのだった。
それから二年後、早くも山根菊子が著書「光は東方より」で戸来を東方の聖地にまつり上げ、一躍有名にした。
山根は聖者来日伝承を研究していた。
筆者は、良く考えれば、岩手~青森 この辺の地名は一戸、二戸、三戸、八戸などと戸が入っている。これは簡単に言ううと牧場の名残
昔は馬の産地で、一の牧場の戸 二の牧場の戸 戸は柵の扉を想像するとわかりやすい。昔殿様が、お互いの牧場を競い合わせ良い
馬を作ろうとしたのです 。 戸来と書いてヘブライと読ませたのは、考えすぎ、戸から来る、素直に考えれば隣の戸か来たと考えれば
何の不思議もない。町おこしでこれはやりすぎでは、イスキリの話はうまくできていますがね。証拠が不足です。
さらに二年後の1939年には、ドキュメンタリー映画「日本に於けるキリストの遺蹟を探る」が公開された。
映像が持つ宣伝効果は大きかった。
映像や活字は、誰もが信用してしまいますね。 視聴率や販売部数を上げるには面白味や話題性が大事ですからね。
東日流外三郡誌もTVに取り上げられましたが、後日、謝罪の放送があったようです。
村が騙された
岩手県衣川村
衣川村とは、わかりやすく言えば、世界遺産の平泉に隣接する街で、あの大河ドラマ「炎立つ」の舞台でもあり、または衣川の合戦は
弁慶の立往生でも有名な戦地でもある。平泉は源義経最期の地でもあり、歴史のネタは豊富である。
この地で、前九年の役・後三年の役という戦いがあった。内容は省略しますが、つまり国府軍と安倍氏の戦いである。
この話は敢えて小生のブログでもHPでも語っていない。 なぜか? それはただ長くなるからです。
登場人物も多いし家族関係も複雑化していしてゆきます。
話はそれましたが、ここでの問題は、その安倍氏の墓に関する問題でした。
以前にも書きましたが、今から16年程前に自分は仕事(旅行・バス)の関係で週に一度は平泉を訪れていました。
その時、間違いなく大きな看板で「安倍一族の墓」とあったのです。
いつか個人で行ってみようと考えていましたがいつのまにか消えていたのです。
その理由がこの本で知ることになりました。
簡潔に話せば・・・・
「安倍一族の墓苑」(撮影:安倍義雄 1988年6月)
この安倍一族の墓ににあった遺骨は、クジラの骨だったのです。
掘り起こされた骨壺。中に入っていた「安倍頼時の遺骨」は、その後の鑑定でクジラの化石であることが判明した。
平安時代中期の前九年の役(1056~1062)で源頼義に敗れ、鳥海柵(岩手県金ヶ崎か宮城県鳴子町といわれる)
で討ち死にしたとされる蝦夷の首長、安倍頼時の遺骨と称するものを調べてみたら、なんとクジラの骨だった、というのである。
この大問題にも外三郡誌の和田が深くかかわっていた。
頼時の直系の子孫とされる安倍義雄(東京都府中市)さんは、「もう頭にきました。先祖が侮辱されたようで腸わたが煮えくり返る思いです。
以前、衣川村をたまたま通りがかって、「安倍一族の墓苑」という看板を目にした時からおかしいなとは思っていたんですがね。
こういうのを歴史の歪曲、改竄というのではないでしょうか。一種の犯罪行為です。
名誉棄損です。先祖である頼時の骨をネタに、善意の関係者をだましたことは絶対に許せません」
外三郡誌の和田は、頼時の骨とされるものを石塔山荒覇吐神社から「分骨した」と言っている。
安倍氏は金ヶ崎で亡くなったのに、五所川原の聞いたこともない石塔山などという神社にあったとは初耳だ。
こんな話を書くのも腹立たしいので、この辺にします。
この墓苑には一千万円以上の経費がかかりました。
村がだまされたのです。
この骨なのですが、人間の骨ではなく、古代のナガスクジラの耳周骨(ペリオティック)の化石との判定だった。
和田の著書「知られざる東日流日下王国」の中に登場する「津保化族の骨片」。と全く同じものであることがわかる。
長々と書きましたが、これでこの記事は終了とします。
あなたはそれでも、東日流外三郡誌を信じますか?
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