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日の丸軍扇・片倉重綱
政宗公の初陣
政宗の初陣は天正九年(1581)五月上旬、十五歳の時でした。
相手は相馬氏(福島県)です。
政宗は先陣を希望して父からたしなめられるのです。
『大将は後軍に付くもの。 将士の活躍を観察し、論行功賞を下し、臨機応変の処置を行うものである』
と言われた公はこの道理に従って、後隊に属しておりました(仙台武鑑)
※論行功賞=本にはこのように書いてましたが、論功行賞かも=功績を論じ、その程度に応じて賞を与えること。
大阪夏の陣でも、2代片倉重綱が先頭立った(前回の記事の図)その功績は父景綱の認めていましたが政宗同様、先頭に立つものではないと、叱られました。
(しかし、これは白石城の3Dの映画での話しですが)
白石城
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1602(慶長7)年幕府は「一国一城」の制を敷いたため、諸国では多くの城が破却されました。
しかし、陸奥では仙台城の他に例外として白石城の存在が認められたのです。
景綱はこの城主となり、1万8千石を与えられました。
ただし直参大名ではなく、伊達家の家老的な立場です。
それでは、何故「一国一城」なのに許しを得たのでしょう。
政宗は城を建てると申告していません。
櫓(やぐら)を建てると申告したそうです。
なるほど、城ではありませんからね!
まぁ、これは俗説です。よくバスガイドさんがネタで話しています。
何故許されたのか???チョット調べる価値ありですね。
ちなみに、仙台城、隅櫓
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大阪夏の陣(1615年)
政宗の戦いの中で、ラストを飾る戦いだったでしょう。
しかし景綱は病気の為に従軍できず、代理として敵男・小十郎重綱を参陣させました。
そのとき、彼の配下には、陣羽織の後に「愛宕大権現」と大書きしたと伝えられています。
有名な直江景綱の「愛」の字のついた兜と同様に加護を祈ったのです。
重綱の活躍は目覚しく、道明寺の戦いでは、「伊達の騎馬鉄砲」を駆使して豊臣の将・後藤又兵衛基次を破り、伊達の武名を高めたのです。
豊臣軍の後続部隊が現れたのは、前軍は破滅しかけた昼過ぎのことでした。
濃霧の為に大幅に到着が遅れたそうです。
その中には、甲冑や旗などを赤色で統一した真田幸村隊もいました。
片倉隊などが一斉に真田隊に襲い掛かり乱戦となりましたが、やがて真田隊は退却し始めるのです。
この合戦で真田幸村は片倉重綱を見込み、大阪落城寸前に、その子女を彼に託したという。
幸村の次男・大八、三女・お梅です。
当時重綱には妻が居ましたが、後に妻が亡くなるとき、後妻にはお梅を・・・と言って亡くなったそうです。
後妻にお梅がなっております。
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天守閣から・・・
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金九曜紋綱代編軍配団扇・片倉重綱
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つづく
政宗公の初陣
政宗の初陣は天正九年(1581)五月上旬、十五歳の時でした。
相手は相馬氏(福島県)です。
政宗は先陣を希望して父からたしなめられるのです。
『大将は後軍に付くもの。 将士の活躍を観察し、論行功賞を下し、臨機応変の処置を行うものである』
と言われた公はこの道理に従って、後隊に属しておりました(仙台武鑑)
※論行功賞=本にはこのように書いてましたが、論功行賞かも=功績を論じ、その程度に応じて賞を与えること。
大阪夏の陣でも、2代片倉重綱が先頭立った(前回の記事の図)その功績は父景綱の認めていましたが政宗同様、先頭に立つものではないと、叱られました。
(しかし、これは白石城の3Dの映画での話しですが)
白石城
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1602(慶長7)年幕府は「一国一城」の制を敷いたため、諸国では多くの城が破却されました。
しかし、陸奥では仙台城の他に例外として白石城の存在が認められたのです。
景綱はこの城主となり、1万8千石を与えられました。
ただし直参大名ではなく、伊達家の家老的な立場です。
それでは、何故「一国一城」なのに許しを得たのでしょう。
政宗は城を建てると申告していません。
櫓(やぐら)を建てると申告したそうです。
なるほど、城ではありませんからね!
まぁ、これは俗説です。よくバスガイドさんがネタで話しています。
何故許されたのか???チョット調べる価値ありですね。
ちなみに、仙台城、隅櫓
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大阪夏の陣(1615年)
政宗の戦いの中で、ラストを飾る戦いだったでしょう。
しかし景綱は病気の為に従軍できず、代理として敵男・小十郎重綱を参陣させました。
そのとき、彼の配下には、陣羽織の後に「愛宕大権現」と大書きしたと伝えられています。
有名な直江景綱の「愛」の字のついた兜と同様に加護を祈ったのです。
重綱の活躍は目覚しく、道明寺の戦いでは、「伊達の騎馬鉄砲」を駆使して豊臣の将・後藤又兵衛基次を破り、伊達の武名を高めたのです。
豊臣軍の後続部隊が現れたのは、前軍は破滅しかけた昼過ぎのことでした。
濃霧の為に大幅に到着が遅れたそうです。
その中には、甲冑や旗などを赤色で統一した真田幸村隊もいました。
片倉隊などが一斉に真田隊に襲い掛かり乱戦となりましたが、やがて真田隊は退却し始めるのです。
この合戦で真田幸村は片倉重綱を見込み、大阪落城寸前に、その子女を彼に託したという。
幸村の次男・大八、三女・お梅です。
当時重綱には妻が居ましたが、後に妻が亡くなるとき、後妻にはお梅を・・・と言って亡くなったそうです。
後妻にお梅がなっております。
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天守閣から・・・
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金九曜紋綱代編軍配団扇・片倉重綱
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つづく
チョット説明不足でしたね。
当然、私が書いた物は俗説で、政宗の賢さを表現した作り話しかもしれません。後で手直ししておきたいと思います。
ただこの俗説がどこから出てきたのか、私も検証していません。
宮城県のバスガイドさんが、面白い裏話しとして話している方もいます。
歴史は、後生の人が作り上げたものも多く、どれが真実なのかわからないところにも、面白さがあります。
一国一城制の中で、許された大名は何故許されたのか…それもまた、調べるのが面白いですね。
誤解のないよう、訂正して置きます。
そしてまた、新たな発見をしたいものです。
コメントありがとうございました。
白石城は、一国一城令の例外として幕府から正式に「城」として認められていたと思いますよ。
城ではなく櫓というよりも、「天守ではなく櫓」といった方が正しいかと思います。櫓や天守・御殿などを含めた広い敷地全体が「城」です。
ちなみに、加賀百万石の金沢城や、薩摩藩の鶴丸城なども天守がなく、実は天守がない城の方が多かったりします。
石巻もよく行かせてもらいましたが、日和山には行ったことが無いんですよ。
一般的に言われる日和山と青葉山の話は、よく聞きましたが、中には、裏の裏をかいたんだと云う人まで現れ、ますますわからなくなっております。
貞山運河に付きましてもいずれ・・・と思っております。
北上川は物資の輸送に関しては重要な川でしたね。
政宗に逢って本音を聞きたいものです。
ただ「第一希望で幕府に申請すると却下される」と読んだ政宗がわざと「第一が青葉ヶ崎、第二が日和山」で申請したら、幕府は意外にもあっさりと「青葉ヶ崎を可とする」と言ったとか。石巻の知合いから聞いた話です。因みに第三希望は榴ヶ岡公園の辺りでした(奥州合戦の折、藤原泰衡が本陣を置いた国分ヶ原鞭楯がここだったそうです)。
石巻の日和山には、かつて葛西氏の館がありました。葛西氏は登米に本拠を移した後も、本国(葛西荘)との連絡を保つために現在の石巻を確保していました。北上川が仙台湾に流れるように河川を改修したのは、自領の北部地域や南部領からの物流を考えてのこと(貞山運河も含めて)。そこに居城を定めるのは、確かにあってもおかしくない話ですね。ただ仙台領全体を考える時、残念ながら石巻は東に偏っていたのだそうです。
それに関連する記事は、2007年12月15日の記事に触れてます。
資料により平山城となっていますが、丹治さんの意見に賛成なので見解として山城を書き加えたいと思ってました。
加えて、野蒜築港の記事もありますので探して見て下さい。多分宮城の散歩道辺りにあるかと?
私は「世界史・地理」中心で、ほんとは日本史はカラキシです。
それでも、仙台藩にかかわるお話には、興味しんしんですが。
仙台築城に関しては、実は政宗の本命は石巻の日和山であって、青葉山は第二候補であったように記憶しています。
でも、家康の気性を読んで、裏をかいた第二候補で申請したとか、いや、石巻では戦略上「攻撃的」すぎるため、はばかって仙台としたんだとか、諸説ありますよね。
日和山に築城し、なおかつ鎖国をしなければ、石巻は大坂ぐらいの規模の都市に成長していたのではないでしょうか。
水の利はもちろん、ヒンターランドは十二分に広いですし、なんといってもアメリカ大陸に近いですからね。
残念ながら読んでいないのですが、仙台領戦国こぼれ話・葛西氏と山内首藤一族・仙台領の戦国史などなどですね。
失礼しました。
もっと興味がわくのが早ければと、後悔してます。
だって、脳みそが退化しまして、頭を素通りしてゆきます。
紫桃さんは存じませんでした。
そもそも、興味を持ったのがここ10年ほど前からで若い時は全く興味がございませんでした。
大崎・葛西一揆についても、ちょっと勉強しないと…セキレイの目の話しもあるので…
実は、伊達治家記録の著者、平重道先生に出版されると届けていたのは私なんです。
当時は、伊達家の難しい本だな~と思っていただけです。
今更ながら、偉い先生だったんだなと感じてる次第です。
今、再度伊達騒動について調べているところです。
また、面白い話しや情報があったら教えて下さい。
ただ学校で習う「歴史」に東北地方のことはあまり出てきませんね。子供の頃から欲求が不満してました。それで少しでも東北地方のことが書いてある本を見つけると、むさぼるように読んだものです。
石巻に紫桃正隆さんという郷土史家がいらっしゃいます。紫桃さんは伊達政宗だけでなく、葛西や大崎のことも本にされています。
いわゆる「専門書」ではなく、論文体で考察する箇所と小説仕立ての箇所が交互に現れ、私たちのような門外漢にも読みやすい体裁です。紫桃さんのご本は、中学校の頃から座右の書でした。
ただ紫桃さんのご本を多く出版していた宝文堂が残念なことに閉店してしまったので、古書で求めるしかなくなってしまいましたが・・・
仰る通り山城でしょうね。
私は詳しく存じませんが、防御を優先すれば、前には広瀬川、後ろには竜ノ口渓谷がありますからね。
時代背景からも山城ですかねぇ
二の丸を居館とするならば、ますます山城だと言うことがわかりますね。
何で丹治さん詳しいんですか?
好きなだけですか?自分はまだまだ勉強不足です。
色々教えて下さいね。
今になって興味が沸いてる次第です。
二の丸が二代忠宗の時に作られると、城主の居館としての機能も藩の政庁としての機能も二の丸に移りました。本丸はよほどの重要な儀式の時しか使われず、「本丸詰を命ず」となると、若くて元気のよ過ぎる家臣に対し、「本丸で反省してろ」ということだったようです。
ある本に「二の丸の防御施設には甘さがある」という意味のことが書かれてました。でも最初から居館として造営したとすれば、防御機能のことはあまり念頭にはなかったのも当然ではないでしょうか。
普段の生活や政務は麓にある二の丸の居館で行い、一旦緩急ある際は本丸に立て籠る。中世から戦国時代にかけての山城は、そのような構想で建てられていたと聞きました。仙台城を山城だと思う所以です。
この道は相馬から斎里屋敷に行く時通りましたね。
古戦場跡も地図で確認出来ました。
機会がありましたら行って見ます。
初陣は確か5分5分の引き分けだったような?
情報ありがとうございました。
ここは、本当に県境ですね。
ここは山間の谷を出て平地が開ける所。金山から南に進めば旗巻峠があったんじゃないでしょうか(旗巻峠では戊辰の役の時に、西軍についた相馬と伊達の軍勢が戦いましたね)。
確かに軍事的に重要な地点で、相馬と伊達が争ったのもよく分ります。
山頂に立つと、本当に眺めがいいですよ。是非一度おいでになることをお薦めします。
中は空っぽなので、チョット寂しいです。
イヤミのシェーは、誰もがやりましたよね。
後藤又兵衛、真田幸村、共に大坂方では有名な武将。彼等と関わりがあったとは。
白石城、行ってみたいです。
やはり~力関係ですよね
それだけ~文句を言わせない力を持っていたということでしょう~ね
はたぼう~ なつかしいジョウ~
短くと思いながらも、外せないこともあり…
裏話的なものもありますが、混乱するのでやめました。
ひーさんの筆、益々冴え渡ってきました♪
みっちゃん知らないか・・・
ついつい、扇がアタマの上にのっかってる殿様のマンガ思い出しちゃうぅ・・・
そろそろ違う話題をと考えてますが、もうチョット写真があるのでお付き合い下さい。
さすが名門校余裕のビールというとこですかwww
奥羽越列藩同盟33藩・・・
戊辰戦争・・・
ヒェ~キリがないので、そろそろ締めようかと。
写真がまだあるので、もう少しお付き合い下さい。
本には、真田の名前が仙台藩の家臣?の中に実在したとしか書いてありませんでした。
後で見に行きます。
健康診断の結果は如何でしたか?
何事もない事を祈っています。
白石城は城ではなく、櫓とは考えましたね。
白石城の歴史も分かりつつ、政宗公と
片倉小十郎さんの話にも興味深いですね。
次回も楽しみにしています。
手前の石垣の麓の芝生。
あそこで寝っころがって、缶ピー吸ってたなー。
白石の刈田郡は、最後の最後に伊達領に加えられたのでしたな。上杉軍との係争地でしたからね。危なく?福島県になってしまうところでした。
白石城といえば、奥羽越列藩同盟ですね。
あの時、本気で戦っていれば、勝てる可能もあったと思います。
官軍側は装備は近代化していましたが、動員数は千単位でしたから。
幕府&奥羽越側には榎本海軍も付いていましたしね。
でも「錦の御旗」。
これには東北人は極端に弱いですからね・・・
二代目のときに幸村の兄貴、伊豆の守信之の家系と偽って真田に復姓したそうだ。
ところで、ちょいと確認のつもりで仙台真田家について検索したら・・・
なんと!仙台真田家現当主のHPを発見してしまった!!!
HP名はずばり「眞田」、タイトルコールに曰く、「隠していたわけではなく、とりたてて言わなかっただけ。そうしたら、400年も埋もれてしまった。もう、徳川幕府に遠慮しなくてもいいだろう・・・」・・・だと。
ビックリしたなぁ~もぅ
熊本城にいってみたくなりました。
続き楽しみです。