戦いが終わって穏やかになった日本は、元和となり景綱は59歳でこの世を去った。
数名の家臣も殉死を遂げたといいます。
その後、片倉家は《1代景綱ー2代重長ー3代景長》と続き、伊達騒動の時には、3代景長が4代藩主、伊達綱村をよく補佐したとききます。
片倉家代々が「伊達の功臣」と言われる由縁なのです。
明治維新の頃、新政府軍に反抗したため賊軍となった伊達家は所領を大幅に削減され、また片倉家も所領を失い、片倉家中は北海道に開拓団として移り住み、その移住地が札幌市白石区です。
※2代景綱は後に重長と改名し、その才能と武勇は父、景綱に勝るとも劣らなかった。
マイクロバスが街を巡ってくれます。どこで間違ったかモノクロになってました。
奥羽越列藩同盟の軍旗です。この白石城で列藩会議が行われました。
人形は、白石のキャラクターこじゅうろう君です。(写真はほでなすいっくさんからジッテきました。
長々とお付き合いありがとうございました。
そろそろ現代に戻りたいと思います。
後は、小出しに触れて行きたいと思います。
今、伊達騒動について、振り返り勉強中です。いずれまた・・・
数名の家臣も殉死を遂げたといいます。
その後、片倉家は《1代景綱ー2代重長ー3代景長》と続き、伊達騒動の時には、3代景長が4代藩主、伊達綱村をよく補佐したとききます。
片倉家代々が「伊達の功臣」と言われる由縁なのです。
明治維新の頃、新政府軍に反抗したため賊軍となった伊達家は所領を大幅に削減され、また片倉家も所領を失い、片倉家中は北海道に開拓団として移り住み、その移住地が札幌市白石区です。
※2代景綱は後に重長と改名し、その才能と武勇は父、景綱に勝るとも劣らなかった。
マイクロバスが街を巡ってくれます。どこで間違ったかモノクロになってました。
奥羽越列藩同盟の軍旗です。この白石城で列藩会議が行われました。
人形は、白石のキャラクターこじゅうろう君です。(写真はほでなすいっくさんからジッテきました。
長々とお付き合いありがとうございました。
そろそろ現代に戻りたいと思います。
後は、小出しに触れて行きたいと思います。
今、伊達騒動について、振り返り勉強中です。いずれまた・・・
所管が大蔵省に移った明治7年には民間に払い下げられ、
その後お城は解体されてしまったんだと・・・
それからおよそ120年たった平成7年、
市民の念願かなって天守三階櫓と大手門の再建がなった!
それも、ぜんぶ昔からの工法で・・・
いい話じゃないの
情けない!
維持困難で城を解体したのも如何かと。残念でなりませぬ。
お城は他に名古屋城と弘前城に行った事があるよ
名古屋城のでかさにビックリ
チョコっと使わしてもらいました。
弘前城も確か櫓(やぐら)だったと思いますよ。
仙台は天守閣を持ちませんから、瑞巌寺を大きくした感じです。
でも、もったいなかったですね。
今作れば、何十億かかりますよ。
しかし白石区とはっ!
がめてきたとゆうことです。www
こじゅうろう君、彦根のひこにゃんにも似ているような。
私もそう思いました。
確か、亘理町と伊達市の交流が、現在でも盛んであると記憶しています。
ご維新の際の「外様の蝦夷地入植」では、仙台藩の実例は、数少ない成功例でしたからね。
「賊軍」と区分されても、奥州諸藩は時代の流れに疎く、ただの「反薩長」でしかなかったのにねー。
会津藩なんかは「勤皇」の権化の藩であったのに、まったく薩長の横暴には怒り心頭です。
斗南藩の地の下北半島北端を歩き回ったことがありますが、恐山を筆頭に奥州の怨嗟の情念が満ちているようで、びびりまくりでした。
あそこの卑は、会津を向き、その台座の石垣は鶴ヶ城の石を使ったとか…
蝦夷地に開拓で入った伊達家とその人々の苦労も察するおもいです。
先日テレビで伊達市の伊達家の当主がでてましたよ。