独眼竜の誕生
幼名:梵天丸、後の政宗は、四、五歳の頃天然痘にかかり右目を失明してしまうのです。
その病で眼球は飛び出し、醜い顔を嘆き、いわゆる引っ込み思案になってしまうのです。
人に言葉を掛けられると赤面し、恥らうのが常でした。
その様子を見ていた家中に者も、他家の家臣達も将となる器ではない、と陰口をたたく者が多かったそうです。
ある日、片倉小十郎が・・・・
「公! 自分が不要と思うのなら、それはもう必要の無いもの、取ってしまいなさい。
もし戦場で敵にその飛び出した眼を摑まれたらどうなさいます?」
政宗は自分で切る事ができず、小十郎に頼むのです。
小十郎は刀を取り出し、政宗の眼を抉り取ったのです。
しかしながら、伝説として残っているもので、史実としての文献は私も未確認です。
あしからず あくまでも俗説です。
独眼竜政宗遺骨は語る・・最後のカルテはこちらです。
白石城
小田原参陣と毒殺未遂事件
天正18年(1590) 伊達政宗24歳のことです。
政宗は、佐竹氏を破り、関東に馬を進める意気込みでした。
しかし、上方から「秀吉に服従せよ」 「小田原に即刻参陣し、秀吉に謁見して忠節を尽くすべし」という勧告が頻繁に届くのです。
政宗は重臣達を集め、「小田原参陣に遅れてしまった。進んで生死を定めるべきか・・・、退いて生死を極めるべきか」と評議を重ねるのです。
伊達成実(しげざね)らは、「小田原参陣はもはや手遅れ。秀吉の出馬を待ち受け、上方勢と戦い、いさぎよく討ち死にしょう。 恥を後世に残すよりも、名をとどめることが武家の本望だ」と主張します。
しかし、片倉小十郎らは小田原参陣を主張して譲りませんでした。
そこで悩んだ政宗は、三月十六日の深夜、密かに片倉小十郎を訪ねるのです。
片倉は言いました。
「秀吉勢は天下の大軍です。 夏の蝿のように一度に二、三百打ち潰しても、二度、三度と追い払っても、ますます数が増えるばかりです。」
と切々と説得しました。
すると政宗公は「来月(四月)六日」小田原への出立を決意するのです。
そこで事件は起こるのです。
事前に説明しておきます。前年(1589)、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて芦名義広と合戦に勝利。政宗は、芦名氏の本城であった黒川城(鶴ヶ城)へ入る。これによって奥州の名門芦名家は滅亡。
この戦いについては、いづれ・・・
摺上原の戦いにチョット触れてます。伊達の忍者部隊「黒脛巾組」
出発前日の4月5日のことです。
黒川城の西館に住む母の義姫から、しばしの別れの挨拶と、食事に誘われるのです。
政宗は、喜んで食事に向かいました。
それは、弟小次郎を溺愛していた義姫からの言葉に嬉しくなったのでしょう。
久しぶりの歓談と御膳を終え「油いり菓子」か「膾(なます)」かを飲み下したあと、吐き出してしまいました。
母が公の額に手を当てた時”謀られた”と思った公は、邪険に母の手を払いのけました。
公は、片倉小十郎に背負われて帰城し、錦織郎休斎の「撥毒丸(はつどくがん」【解毒剤】を服用してことなきを得ました。
膳部係が毒見をするとたちまち吐血して絶息した。という話と
いや、毒殺計画を知り病気と称して帰城したとも言われております。
つまりこの事件は、自白した者によると、政宗公を殺害し、弟小十郎を伊達家の家督に据えようとする母義姫の計画だったのです。
一説には、・・・ショートカット・・・兄の最上義光に唆されたともいいます。
この事件の二日後の七日弟の小次郎は政宗に斬殺されたといいます。
この詳しい話は、後程・・・・
伊達小次郎の墓&斬殺の記事はここをクリック
こんな事があって、小田原参陣にますます遅れてしまったのです。
宮城野萩 県花です
追記
義姫の兄最上義光は天正17年5月、つまり前の年に寒河江光俊を名代として上洛させているので義光の口添えで秀吉に許しを乞えば、伊達家は安泰であると考えていたのです。
説には、この政宗暗殺計画は伊達家の実権を握ろうとする、兄義光の計画とも言われています。
戦っても負けるだろうし、小田原に遅れても処刑されるでしょう。
しかし、政宗は一枚上手でした。
秀吉の軍勢は二十数万で海には数千艘の船で埋めつくされていたようです。
参陣する前に何度も書状を出しています。つまり言い訳です。
それと、秀吉と謁見する際、政宗公は水引きで髪を束ね、白装束の姿・・・
秀吉の顔を仰ぐと平伏しました。
この時、政宗24歳、秀吉54歳でした。
政宗が退出する時、秀吉は「政宗、政宗」・・・「ここへ、ここへ。近くに寄れ、近くに寄れ」と声をかけました。
公は途中で脇差を差したまであることにに気がつき、脇差を抜きだし、かたわらの和久宗是に投げて、秀吉に近づきました。
秀吉は杖で地面を指しながら、「ここへ、ここへ」その場所まで進み平伏すると、
秀吉は、政宗公の首を杖で突きながら、「其の方は愛(う)奴だ。いい時期に来たものだ。もう少し遅くきたばらば、ここが危なかったな」といいました。
後年公は、この時首筋に熱湯をかけられたような思いだったといっております。
次は、仙台城・白石城や大阪夏の陣についてチョット・・・
幼名:梵天丸、後の政宗は、四、五歳の頃天然痘にかかり右目を失明してしまうのです。
その病で眼球は飛び出し、醜い顔を嘆き、いわゆる引っ込み思案になってしまうのです。
人に言葉を掛けられると赤面し、恥らうのが常でした。
その様子を見ていた家中に者も、他家の家臣達も将となる器ではない、と陰口をたたく者が多かったそうです。
ある日、片倉小十郎が・・・・
「公! 自分が不要と思うのなら、それはもう必要の無いもの、取ってしまいなさい。
もし戦場で敵にその飛び出した眼を摑まれたらどうなさいます?」
政宗は自分で切る事ができず、小十郎に頼むのです。
小十郎は刀を取り出し、政宗の眼を抉り取ったのです。
しかしながら、伝説として残っているもので、史実としての文献は私も未確認です。
あしからず あくまでも俗説です。
独眼竜政宗遺骨は語る・・最後のカルテはこちらです。
白石城
小田原参陣と毒殺未遂事件
天正18年(1590) 伊達政宗24歳のことです。
政宗は、佐竹氏を破り、関東に馬を進める意気込みでした。
しかし、上方から「秀吉に服従せよ」 「小田原に即刻参陣し、秀吉に謁見して忠節を尽くすべし」という勧告が頻繁に届くのです。
政宗は重臣達を集め、「小田原参陣に遅れてしまった。進んで生死を定めるべきか・・・、退いて生死を極めるべきか」と評議を重ねるのです。
伊達成実(しげざね)らは、「小田原参陣はもはや手遅れ。秀吉の出馬を待ち受け、上方勢と戦い、いさぎよく討ち死にしょう。 恥を後世に残すよりも、名をとどめることが武家の本望だ」と主張します。
しかし、片倉小十郎らは小田原参陣を主張して譲りませんでした。
そこで悩んだ政宗は、三月十六日の深夜、密かに片倉小十郎を訪ねるのです。
片倉は言いました。
「秀吉勢は天下の大軍です。 夏の蝿のように一度に二、三百打ち潰しても、二度、三度と追い払っても、ますます数が増えるばかりです。」
と切々と説得しました。
すると政宗公は「来月(四月)六日」小田原への出立を決意するのです。
そこで事件は起こるのです。
事前に説明しておきます。前年(1589)、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて芦名義広と合戦に勝利。政宗は、芦名氏の本城であった黒川城(鶴ヶ城)へ入る。これによって奥州の名門芦名家は滅亡。
この戦いについては、いづれ・・・
摺上原の戦いにチョット触れてます。伊達の忍者部隊「黒脛巾組」
出発前日の4月5日のことです。
黒川城の西館に住む母の義姫から、しばしの別れの挨拶と、食事に誘われるのです。
政宗は、喜んで食事に向かいました。
それは、弟小次郎を溺愛していた義姫からの言葉に嬉しくなったのでしょう。
久しぶりの歓談と御膳を終え「油いり菓子」か「膾(なます)」かを飲み下したあと、吐き出してしまいました。
母が公の額に手を当てた時”謀られた”と思った公は、邪険に母の手を払いのけました。
公は、片倉小十郎に背負われて帰城し、錦織郎休斎の「撥毒丸(はつどくがん」【解毒剤】を服用してことなきを得ました。
膳部係が毒見をするとたちまち吐血して絶息した。という話と
いや、毒殺計画を知り病気と称して帰城したとも言われております。
つまりこの事件は、自白した者によると、政宗公を殺害し、弟小十郎を伊達家の家督に据えようとする母義姫の計画だったのです。
一説には、・・・ショートカット・・・兄の最上義光に唆されたともいいます。
この事件の二日後の七日弟の小次郎は政宗に斬殺されたといいます。
この詳しい話は、後程・・・・
伊達小次郎の墓&斬殺の記事はここをクリック
こんな事があって、小田原参陣にますます遅れてしまったのです。
宮城野萩 県花です
追記
義姫の兄最上義光は天正17年5月、つまり前の年に寒河江光俊を名代として上洛させているので義光の口添えで秀吉に許しを乞えば、伊達家は安泰であると考えていたのです。
説には、この政宗暗殺計画は伊達家の実権を握ろうとする、兄義光の計画とも言われています。
戦っても負けるだろうし、小田原に遅れても処刑されるでしょう。
しかし、政宗は一枚上手でした。
秀吉の軍勢は二十数万で海には数千艘の船で埋めつくされていたようです。
参陣する前に何度も書状を出しています。つまり言い訳です。
それと、秀吉と謁見する際、政宗公は水引きで髪を束ね、白装束の姿・・・
秀吉の顔を仰ぐと平伏しました。
この時、政宗24歳、秀吉54歳でした。
政宗が退出する時、秀吉は「政宗、政宗」・・・「ここへ、ここへ。近くに寄れ、近くに寄れ」と声をかけました。
公は途中で脇差を差したまであることにに気がつき、脇差を抜きだし、かたわらの和久宗是に投げて、秀吉に近づきました。
秀吉は杖で地面を指しながら、「ここへ、ここへ」その場所まで進み平伏すると、
秀吉は、政宗公の首を杖で突きながら、「其の方は愛(う)奴だ。いい時期に来たものだ。もう少し遅くきたばらば、ここが危なかったな」といいました。
後年公は、この時首筋に熱湯をかけられたような思いだったといっております。
次は、仙台城・白石城や大阪夏の陣についてチョット・・・
白石城の天守は、「歴史的建造物の再現」ということで建築基準法の特例が認められたのだそうですね。この法律によれば、三階以上の建物は木造では建てられないのだとか(由緒ある旅館や料亭が再建されないのはそのせいだとか)。
あの天守、高知城や掛川城と同じぐらいの規模なんだと聞きました。石垣の積み方も、天守と大手門では少し違ってます。
模擬天守と称してなかったものを作るのでなくて、復元する。外観復元ではなくて、伝統工法による復元。白石城は価値のある建物です。
また行ってみたくなりました。
義姫は岩下志麻で小次郎は岡本健一だったよ
小次郎は津山だったかしら?
うろ覚えです
遅れた理由。毒殺未遂事件が・・・。
何か、スッキリした気分。
ずっと前から何で小田原へ遅れたのかと思ってました。
だけど、実母に?こわ~~い!!
また職場にいました。
家でバタバタ打ち込んで来ました。
三階以上は鉄筋じゃないとダメなのは、聞いてました。
特別許可が出たのは、いいことですね。
だから、説明書きが所々にあったのですね。
中は、資料館になってるのかと思いきやガランとして何も無かったので、もったいないなぁ~と思ったのですが、建築物としてみれば、いいのですね。
鶴ヶ城の瓦が赤瓦に替えるそうで、黒い瓦のうちに、写真を撮っておこうかと思っております。
でもコメントは嬉しいので大歓迎です。小次郎のお墓が津山にあるんですよ。
それで津山って出てきたのかな?
政宗も流石に母を斬ることは出来なかったのでしょう。
小次郎を嫌いではありませんでしたが、小次郎が生きてるから、母は政宗を狙う…しかたがなかったのかも?
母はその後、実家に帰ったようです。
有名な割にはその生涯は全く知らない私です。
ひーさんと桃源児さんのブログを読んで勉強せねば^^
戦国時代・・・
いろんなドラマがあったんでしょうね。
でも毒盛られるなんて・・・かなしー
今よりも政権争いって・・・大変だったわよね・・・涙
ほにほに、あっちゃこっちゃほっつぎ歩ってっちゃなぁ~
オラも再建して間もない頃に白石城に行ったげっと、併設のシアターで「戊辰の役」の3Dシネマ見っときに仙台の飲み屋のママさんたち(ほぼバッパ集団)の慰安旅行と一緒になって、そのテンションに圧倒されたのを覚えでます。