ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

"No more Hiroshimas." 広島の惨劇は繰り返すな

2012年06月25日 15時37分25秒 | 国内の散歩道
ノー・モア・ヒロシマ
広島原爆資料館はウェブサイトで館内の資料を閲覧できます。動画もあるようです。
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/


一部名前が出てくるので、B29の乗組員のメンバーを掲載しておきます。

因みに「エノラ・ゲイ」の名前は機長ポール、ティベッツの母親の名前

B29 エノラ・ゲイ乗組員
機長操縦士 ポール、ティベッツ
副操縦士  ルイス
爆撃手   フィアビー
レーダー士 ビーザー
航法士   バンカーク
無線通信士 ネルソン
爆撃点火装置設定担当   パーソンズ
電気回路制御計測士    ジェブソン
後尾機銃手・写真撮影係り キャロン
同下機銃手・電気士    シューマード
計器手          ドウゼンバリー
レーダー技術士      スティボリック  

この文はボイスレコーダーから当時の状況を再現したもので、それをもっと省略し記述しました。
その一部です。

広島の上空、72飛行路には何の敵も妨害も無かった。
B29エノラ・ゲイは急降下急旋回の準備が整った。爆弾は投下から43秒後に爆発するように設定されている。
午前八時十五分十七秒、B29エノラ・ゲイの爆弾庫の扉がパットと開いた。
エノラゲイは突然に9000ポンドも軽くなったので10フィート近く跳ね上がった。
ティベッツはエノラ・ゲイを右へ急旋回させた。 激しい急旋回で乗組員は身動きが出来ない状態だった。

その時、地上では広島放送局のアナウンサーが空襲警報を放送する為にスタジオに入った。
防火帯では、監督達が号笛を吹き鳴らしだした。
何千人もの作業員達は定められた待避所へ掛けてゆけという合図だった。
作業員・・・・・その多くは学校の少年少女の生徒達だったのだ。

エノラ。ゲイの機上では、ジェブソンが秒読みを始めた。
あと5秒・4・3・・・
その瞬間、爆弾の内部では、地上5000フィートの高度で気圧スイッチが動いた。
爆弾の外殻が空気をつんざく音がゴーゴーという衝撃波音に高まっていたが、まだ下界では聞き取れなかった。

広島放送局ではアナウンサーが空襲警報のサイレンを鳴らすボタンを押し息を切らしながらマイクに向って放送した。
「午前八時十三分、中国軍管区発令・・・・・・・・・」

午前八時十六分ちょうど原子爆弾はエノラ・ゲイから離れ43秒後、6マイル落下し相生橋から800フィート外れ島医院のほぼ真上で爆発した。

このジオラマの赤いボールの地点ですね。

針の先ほどの大きさの紫がかった赤い一点の光が直径数百フィートの火の玉に膨れた。
その中心温度は5000万度であった。
爆発直下の地点「爆心地」の島医院でも温度は摂氏数千度に達した。
閃光の熱は1マイル(1609.344メートル)の距離で火災を生じ2マイル(3.218688メートル)の距離では人の皮膚を焼いた

エノラ・ゲイの乗員は、その閃光の強烈さに圧倒され誰も一言も言葉を発しなかった。
広島では火焔のつむじ風が吹きまくっていた。
赤と紫の巨大な灼熱の火の塊が天に立ち昇っていった。
火の柱の根元には超高温の空気が吸い込まれ一切の可燃物が燃え上がった。
エノラ・ゲイは広島から10マイルばかりのところを市を後ろにして飛んでいく、最初にポップキャロンが、幾尾から恐ろしい現象が起こるのを見つけた。

巨大な空気の塊が輪になってぐんぐん大きく広がりながら音速で上昇し、エノラ・ゲイ目がけて押し寄せてくる。

キャロンはゾッとして目がくらみそうになりながら仲間に知らせようとしたが、彼の絶叫は言葉にならなかった。
原発の衝撃波、それは空気が猛烈な力で圧縮されたために有形になったように見えた。
それは、キャメロンの目には「どこか遠くの天体の環が外れて我々目がけて飛び掛ってくる」ように見えた。
彼はもう一度わめいた。それと同時にその空気の環がエノラ・ゲイの翼と機体に追突して機を高く上げた。
ティベッツは操縦かんをつかんだ、しかし、ティベッツ酷く懸念したのは、衝撃波よりもむしろ衝撃波に伴った音であった。
それは「88ミリ砲の砲弾がすぐ横の脇で破裂した音に思えた。彼はすぐ「高射砲だ!」と怒鳴った。
それから4秒も経たぬうちに「もう一度来るぞ!」背骨も折れそうなほどの衝撃で第二の空気の壁がエノラゲイにぶち当たった。 機はもう一度投げ上げられた。
ティベッツが乗員に話かけた。
「あれは、地面に跳ね返ってきた衝撃波だ。」高射砲では無かった。 落ち着け・・・・・

まだ、あるのですがこの辺で・・・・


昭和20年8月6日 午前8時15分

アメリカ軍が広島市に投下した原子爆弾は、実戦で使われた世界最初の核兵器である。
この一発の兵器により当時の広島市の人口約35万人のうち約14万人が死亡した。

これについては度々TVでも色々な角度から、放映しているが、元アメリカは兵が口にするのは、必ず
「パールハーバーがあるじゃないか!」と言って一切謝罪はしない。

日本が仕掛けた、戦争であることが根底にあるのでしょう。
広島・長崎に落とされてからは、その後実戦では使われていないのですが、大きな抑止力として現在数カ国所持している。
多くの問題を抱えている原爆だが、原子力または原発問題も踏まえ一人ひとり考えていただきたい。

悲惨な写真もありUPもためらいましたが、敢えて一部貼り付けました。





    







 

原爆投下前の様子



原爆投下後の様子






原子爆弾は、市街地の上空600メートルで目もくらむ閃光を放って炸裂し、爆心地から2キロメートルの及ぶ市街地の建物が跡形もなく破壊され焼きつくされ、爆風と熱線などによって多くの人々が亡くなりました。
かろうじて生き残った人々も、焼け焦げて血みどろになったボロボロの衣服をわずかに身にまとい、瓦礫の街を逃げ惑ったのです。






















私たちは、呉に向った。


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10 コメント

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原発の~ (維真尽(^^♪)
2012-06-25 21:18:23
再開
あり得ません

足元見られて
原油の高騰で産業界からの圧力があるのはわかりますが
大事なのは何か
野田総理 しっかりしてください
返信する
おばんです (ほでなすいっく)
2012-06-25 22:14:58
修学旅行でいきました
語り部さんのお話しも聞きましたよ

私たち日本人だけじゃなく
色んな国の方に見て、感じてほしい場所です

ワタシもまた行きたいです
返信する
検証中です (酔漢です)
2012-06-26 00:58:42
仁科が広島を視察した時の手紙を検証しております。また、日本の原爆開発が頓挫した経緯もくだまきにしようとまとめております。
今に繋がる。それが何なのか。
自分で知りたい。動機です。

上記の後の言葉が中々出て来ません。
ご容赦下さい。
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維真尽さんへ (ひー)
2012-06-26 12:18:15
入れ替わり立ち替わり、首相が代わり、国民からは相手にされず、世界からバカにされ、なめられ、もう無力の政権なのは承知のこと、いっそ解散するべし。
ところが、代わりの政治かも現在いないというありさま。自分の財布ばかり心配して、国の財布は見ていなかったでき損ないはだれでしよう。
このくらいにしておくか。
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ほでなすいっくさんへ (ひー)
2012-06-26 12:34:58
日本は、こんなことをされても、相手に何も言わず相手の文化を取り入れ進歩し成長してきました。
ところが、台湾やシンガボールや南アジアを除く隣国は、いつまでもあーだゴーダ言って世界からの嫌われ者になっている。心の小さな国ですね。

だいたいサッカーの時、日本人の皆さん大震災おめでとう。の垂れ幕ですからね。
教育もできない貧しい国にはなりたく無いですね。
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酔漢さんへ (ひー)
2012-06-26 12:52:19
原爆の後、アメリカ軍は医療関係を含む貴重データをすべて持って行ったと聞いております。確かに世界初の実戦爆弾の効果ですから、データは欲しいですね。
日本人は、言い訳のできる貴重な実験台でしたね。
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広島 (大京)
2012-06-26 22:48:03
パールハーバー攻撃は、大義名分を得るために、アメリカ側では日本軍の攻撃を知っていたにもかかわらず、わざと日本軍に攻撃させたとも言われています。
日本はもっと近代日本史も、学生に教えるべきだと思います。(ただ、世界各国の良い部分を貪欲に吸収するのは、日本人の国民性だとは思いますが。)
うちの夫は、近代日本史に詳しく、夫婦旅行がてらに知覧や摩文仁の丘、ひめゆりの塔など行きました。私も一人旅で遊就館や原爆ドームなどをまわりました。
思うことは、ただ「日本人なら、知っていてほしい」ということです。わたしも何も知らないでいた1人でした。だからなおさら、行ってみて感じたことを若い人に伝えています。まだまだ知らないことばかりですけれど・・・。
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お晩です (あーさん)
2012-06-26 23:28:51
先月、見たばかりですぅ
尤も、昭和43年頃にも見てますが
更にその前は昭和29年頃にも

♪二度と許すまじ原爆を~♪
高校の時、よく唄いました
返信する
大京さんへ (ひー)
2012-06-27 07:23:53
遊就館・・靖国神社ですね。
以前急ぎ足で見たので、じっくり見たいと思っていました。
あそこも、見ごたえありますね。
広島では、軍港であった呉れに宿泊しました。
次は、海上保安大学校・鉄のくじら館(潜水艦)・最後に大和ミュージアムを記事にしょうかと考えています。

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あーさんへ (ひー)
2012-06-27 07:34:16
ちょっとずれて入れば、会えましたね。
資料館も新しくなったような?
長崎もすっかり様変りしました。
やはり見学していただく為に拝観料はべらぼうに安いですね。
宮島とここを見て、足がクタクタでしたよ。
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