伊豆佐比賣神社
鎮座地:宮城県宮城郡利府町菅谷飯土井長者55
地名にも残っていますが、ここは長者(九門)屋敷跡である小高い丘の上にあります。
俗に御姫の宮と呼ばれていました。
祭 神:伊豆佐比賣命
延喜式神明帳での表記は伊豆佐賣となっているがイズサヒメと読んでいるそうだ。
これは五穀豊穣の神として祀っている。
また「奥羽観蹟聞老志」(享保4年著)には祭神を溝昨比(かうさひめ)としている。
これの理由は、ただ「圭田28束三毛田所祭溝昨比也」とあるのみと述べている。
この文は、Wikipediaに記載のものですが。他のブログ等もこれを引用したものでしょう。
自分も今回は同じでありますが。www
これは、領田=田令のことでしょう。
寺社や皇室等が所有する領田のこと、「寺田」「神田」とも呼ばれますが、一般にこのように
呼ぶ場合は領田そのもののことを指します。
神社の場合は、「圭田」、寺院の場合は「寄田」とも表記します。
つまり、溝昨比が祭られている神社の田んぼは28束と云うことですね。
束の単位については、しおがまさまの謎1にメモしてあります。
また、「宮城県神社名鑑」宮城県神社庁編では、式の掲載や文徳実録には伊豆佐とある
ことから、社殿を溝昨比とするのは、いかがか? としているようですが、やはり何かの根拠
があったと思いますので無視も出来ないのではと考えます。
「大日本神名辞書」では伊豆佐比賣命としていますが、どのような神か不明とし二説の推論を述べている。
1「湯の神」
利府町誌に「出羽国田川郡(現在の鶴岡市湯田川)の由豆佐比賣神社と同じ祭神で湯の湧き出る
を神の業となし、物の生み出す神を女神としたのであろう。
由豆佐とは「湯出沢」の義で湯の守り神とされる。
沢乙や産野原に当時は湯が湧いたのあろうか?
現在温泉が実在します。この社の4キロ圏内に二つの温泉があります。
また、そこまで至る丘陵で縄文前記の居住跡の遺跡があります。
2「穀霊の神」
鎮座地である飯土井ですが、「飯豊」の訛りではないか?と「出羽陸奥の古社」本郷薫著で述
べ、推論をしている。
陸奥国百座の中で温泉の湧き出るところの神は「温泉神社」と称し飯豊に関係している社は
「穀倉の神」や「生産の神」とされているようだ。としている。
また、「神明帳考証 巻5」に「按宮城以有屯倉名郡、伊豆佐比賣倉廩守護之神歟」との記述
があり、この巻では、当神社の祭神は穀霊の神である豊宇気姫としている。
これは、鎮座地が豪農九門長者の跡地のこともあり穀霊の神をお祭りしても不自然では無いでしょう。
利府村誌に「この神は女性で、米作地帯の水の灌漑を第一に司り、秋の五穀豊穣へと農民が精出す上、この辺一帯の往古から水田開墾以来日夜尊敬されていた神社である。」と記していることを挙げ、当神社の神は「五穀豊穣の女神」である伊豆佐比賣命または豊受姫命ではないかと考察している。とある。
村誌と町誌では見解が違うのでしょうか? これは、どちらも正しいのかも知れません。
周囲は田園に囲まれているわけですから、参拝に来る農民は五穀豊穣をお祈りするのは当然であり、鎮座する神が湯の神、水を司る神であっても、それはそれです。
水を司る=水田を守護する神とも考えられますからね。
それから、『延喜式陸奥一百座参拝録』安永7年(1778)に「伊津佐比賣命乗跡、俗ニ阿久玉御前ト云。」と記載されている。
俗に阿久玉御前とい云う・・・とありますが、後記する九門長者の伝説が影響していると思います。
由 緒:創祀年代不詳
『奥羽観蹟聞老志』・『封内名蹟志』寛保元年(1741年)・『新撰陸奥風土記』万延元年(1860)
などによれば、天武天皇2年(673)に圭田(祭祀用として天子から賜る田)を奉り神祭を
行ったと言い『封内名蹟志』では更に「古昔大社也」と記されている。
多賀城が国府や鎮守府を置いたのは神亀元年(724)ですから、それ以前の話であり無茶があるの
では?それとこの文書の論拠となる「惣国風土記」残編が偽書の疑いもあり一説としては取りあげられないようです。
しかし、土地の人々が信仰した社が元々あったのでは?と云う推論も出来ないわけでもない。
ただここは、屋敷跡であり田村麻呂が来た頃は、九門長者の屋敷があったとされるから、大
きな社殿があったとすれば屋敷が無くなってからと考えられます。
もしかしたら、屋敷の中に祀られていたか、隣地にあったものが遷宮されたか?その沿革は不明です。
その後の記録では、852年(仁寿2年)「日本文徳天皇実録」8月7日の条には、正五位下
の神階が授与されたことが記録にあり、延長5年(927)には、小社に列しています。
12~13世紀頃に建築された社殿が万治3年(1160)2月の類焼により消失。
正徳5年(1715)に仙台藩主綱村公(四代)が社殿を健造したと伝られる。
江戸時代後期には末社とされていたようですが、『新撰陸奥風土記』でも疑問を述べている。
私が思うには綱村公が手掛けた神社は多く鹽竈神社を中心に末社にしてしまったのか、土地の人が勝ってにそう呼んでいたのか?
根本の所は謎ですが、現在の祭神からは無関係に思います。
しかし、宮城郡4座(伊豆佐売神社・志波彦神社・鼻節神社・多賀神社)の関係がこの頃なら
確立しており、そう呼ばれたのかも知れません。
過去に鹽竈神社には賀茂神社があった時代もあり、祭神が定まっていなかった時代があります
から何でもありかも?
大正5年に5社を合祀(沢乙の小刀神社・熊野神社・神谷沢の熊野神社・菅谷の熊野神社・
入菅谷の加茂神社)熊野神社はクナトノ大神にも通ずる部分もあり気になるところですが、彼方此方にありますからね。 大正9年に本殿等を新築。
奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし):1719年に完成した全20巻に及ぶ仙台藩の地誌である。著者は仙台藩の儒学者で絵師でもあった佐久間洞巌 綱村公の名による
入口は坂になっていて鳥居を正面から見るには遠くの正面からしか見えません。
珍しく扁額はただの切った板でした。
九門長者屋敷の伝説
ここには、今から約千二百十余年前、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。
その時、造った外濠や長者の井戸が現在も残っている。
この長者屋敷跡について、次のような伝説がある。
「長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた、彼女はもと紀伊の国の斎大納言(いっきだいなごん)という公家の姫君で大変美しい頭の良い娘であったが、伊勢参詣の帰り、悪者どもに騙され、この九門長者の召使いとして売られて来たのである。
そこで、彼女は自分の身を守る為「普通の人には醜い女と見え、身分高い人には元の美しい姫の姿に見えるように」と守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。
時の征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、この九門長者の家にお立ちよりになり、彼女を見初めた。
延暦十八年巳年(779)八月一日、彼女は男子を出産、名を千熊丸といい、当時の人々は神童と呼んでいた。
千熊丸は十三歳になった時、母と共に都へ上り、父の将軍と親子の対面をし、二代目田村麻呂将軍となった。」ということである。
田村麻呂の二代目は聞いたことがありませんね。 坂上田村麻呂の本を含め今回7冊ほどアマゾンから購入何かわかったら記事にします。
このストーリーは、以前 南宮神社/津波に流された女神・多賀城市でも紹介しています。
話はもっと長いようです。千熊丸は長者の息子として育ったようです。
さて、今回伊豆佐比賣神社に行ったわけですが、境内に入ると、最近は参拝者が居ないような雰囲気でした。
実に空気が淀んでいるといいますか? 今までにも何度も感じていますが、清々しくなる神社とそうでない神社があります。 今回は後者の方でしたね。
拝殿の横には飯土井稲荷明神があり朱塗りの社と白狐に塗られた秘書の狐は何とも不気味でした。
宮城郡4社の一社であり、式内社でもある神社なのですが、どうも駄目でした。
稲荷明神の方には寄れず、ズームを使って遠めに撮影したのです。
その理由が、帰って来てから調べてわかりました。
偶然写真にも写っておりました。ある意味良かったです。
飯土井稲荷明神
この場所は長者屋敷の井戸の上なのでしょうか?
怖くてゆっくり見れませんでしたので何ともいえませんが?
焼けた欅の怒り
ここには、樹齢千年を越える大欅がありました。
昭和41年のことです。この欅が火を発して幹の中まで焼損してしまったのです。
その為、伐採することになりましたが作業に使われた斧が次々と折れ作業にあたった職人二名までが不幸にあったのです。
その上、木材を買った人にまで変事が起こったため、買主の人が輪切りを社に納めて祭りを行ったと云います。
また、枝に至るまで木目が美しかったので近郊の人が持ち帰ったところ、やはり災いがあり恐ろしくなって返還されたものが雨覆いの下に積まれています。
この雨覆いが下の写真にあります。足場パイプで組まれた枠にトタン屋根で覆われています。
暗闇でしたが画像処理したら浮き出てきました。
これで一つの謎が解けました。
鳥居の扁額が普通の神社ではありえないただの板でした。
地元の大手の木材会社です。
買主はこの会社なのでしょうか?
気になるのは、火を発して幹の中まで焼損・・・とあるのですが、それほど焼けたのに輪切りにして神社に納めたというのは、話が違うのでは?
木材会社が焼けた木を購入するでしょうか? 焼けたのに枝まで綺麗に残っていたのでしょうか?
どうもガテンがいきません?
お稲荷さんかと思ったら愛宕神社でした。
鎮座地:宮城県宮城郡利府町菅谷飯土井長者55
地名にも残っていますが、ここは長者(九門)屋敷跡である小高い丘の上にあります。
俗に御姫の宮と呼ばれていました。
祭 神:伊豆佐比賣命
延喜式神明帳での表記は伊豆佐賣となっているがイズサヒメと読んでいるそうだ。
これは五穀豊穣の神として祀っている。
また「奥羽観蹟聞老志」(享保4年著)には祭神を溝昨比(かうさひめ)としている。
これの理由は、ただ「圭田28束三毛田所祭溝昨比也」とあるのみと述べている。
この文は、Wikipediaに記載のものですが。他のブログ等もこれを引用したものでしょう。
自分も今回は同じでありますが。www
これは、領田=田令のことでしょう。
寺社や皇室等が所有する領田のこと、「寺田」「神田」とも呼ばれますが、一般にこのように
呼ぶ場合は領田そのもののことを指します。
神社の場合は、「圭田」、寺院の場合は「寄田」とも表記します。
つまり、溝昨比が祭られている神社の田んぼは28束と云うことですね。
束の単位については、しおがまさまの謎1にメモしてあります。
また、「宮城県神社名鑑」宮城県神社庁編では、式の掲載や文徳実録には伊豆佐とある
ことから、社殿を溝昨比とするのは、いかがか? としているようですが、やはり何かの根拠
があったと思いますので無視も出来ないのではと考えます。
「大日本神名辞書」では伊豆佐比賣命としていますが、どのような神か不明とし二説の推論を述べている。
1「湯の神」
利府町誌に「出羽国田川郡(現在の鶴岡市湯田川)の由豆佐比賣神社と同じ祭神で湯の湧き出る
を神の業となし、物の生み出す神を女神としたのであろう。
由豆佐とは「湯出沢」の義で湯の守り神とされる。
沢乙や産野原に当時は湯が湧いたのあろうか?
現在温泉が実在します。この社の4キロ圏内に二つの温泉があります。
また、そこまで至る丘陵で縄文前記の居住跡の遺跡があります。
2「穀霊の神」
鎮座地である飯土井ですが、「飯豊」の訛りではないか?と「出羽陸奥の古社」本郷薫著で述
べ、推論をしている。
陸奥国百座の中で温泉の湧き出るところの神は「温泉神社」と称し飯豊に関係している社は
「穀倉の神」や「生産の神」とされているようだ。としている。
また、「神明帳考証 巻5」に「按宮城以有屯倉名郡、伊豆佐比賣倉廩守護之神歟」との記述
があり、この巻では、当神社の祭神は穀霊の神である豊宇気姫としている。
これは、鎮座地が豪農九門長者の跡地のこともあり穀霊の神をお祭りしても不自然では無いでしょう。
利府村誌に「この神は女性で、米作地帯の水の灌漑を第一に司り、秋の五穀豊穣へと農民が精出す上、この辺一帯の往古から水田開墾以来日夜尊敬されていた神社である。」と記していることを挙げ、当神社の神は「五穀豊穣の女神」である伊豆佐比賣命または豊受姫命ではないかと考察している。とある。
村誌と町誌では見解が違うのでしょうか? これは、どちらも正しいのかも知れません。
周囲は田園に囲まれているわけですから、参拝に来る農民は五穀豊穣をお祈りするのは当然であり、鎮座する神が湯の神、水を司る神であっても、それはそれです。
水を司る=水田を守護する神とも考えられますからね。
それから、『延喜式陸奥一百座参拝録』安永7年(1778)に「伊津佐比賣命乗跡、俗ニ阿久玉御前ト云。」と記載されている。
俗に阿久玉御前とい云う・・・とありますが、後記する九門長者の伝説が影響していると思います。
由 緒:創祀年代不詳
『奥羽観蹟聞老志』・『封内名蹟志』寛保元年(1741年)・『新撰陸奥風土記』万延元年(1860)
などによれば、天武天皇2年(673)に圭田(祭祀用として天子から賜る田)を奉り神祭を
行ったと言い『封内名蹟志』では更に「古昔大社也」と記されている。
多賀城が国府や鎮守府を置いたのは神亀元年(724)ですから、それ以前の話であり無茶があるの
では?それとこの文書の論拠となる「惣国風土記」残編が偽書の疑いもあり一説としては取りあげられないようです。
しかし、土地の人々が信仰した社が元々あったのでは?と云う推論も出来ないわけでもない。
ただここは、屋敷跡であり田村麻呂が来た頃は、九門長者の屋敷があったとされるから、大
きな社殿があったとすれば屋敷が無くなってからと考えられます。
もしかしたら、屋敷の中に祀られていたか、隣地にあったものが遷宮されたか?その沿革は不明です。
その後の記録では、852年(仁寿2年)「日本文徳天皇実録」8月7日の条には、正五位下
の神階が授与されたことが記録にあり、延長5年(927)には、小社に列しています。
12~13世紀頃に建築された社殿が万治3年(1160)2月の類焼により消失。
正徳5年(1715)に仙台藩主綱村公(四代)が社殿を健造したと伝られる。
江戸時代後期には末社とされていたようですが、『新撰陸奥風土記』でも疑問を述べている。
私が思うには綱村公が手掛けた神社は多く鹽竈神社を中心に末社にしてしまったのか、土地の人が勝ってにそう呼んでいたのか?
根本の所は謎ですが、現在の祭神からは無関係に思います。
しかし、宮城郡4座(伊豆佐売神社・志波彦神社・鼻節神社・多賀神社)の関係がこの頃なら
確立しており、そう呼ばれたのかも知れません。
過去に鹽竈神社には賀茂神社があった時代もあり、祭神が定まっていなかった時代があります
から何でもありかも?
大正5年に5社を合祀(沢乙の小刀神社・熊野神社・神谷沢の熊野神社・菅谷の熊野神社・
入菅谷の加茂神社)熊野神社はクナトノ大神にも通ずる部分もあり気になるところですが、彼方此方にありますからね。 大正9年に本殿等を新築。
奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし):1719年に完成した全20巻に及ぶ仙台藩の地誌である。著者は仙台藩の儒学者で絵師でもあった佐久間洞巌 綱村公の名による
入口は坂になっていて鳥居を正面から見るには遠くの正面からしか見えません。
珍しく扁額はただの切った板でした。
九門長者屋敷の伝説
ここには、今から約千二百十余年前、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。
その時、造った外濠や長者の井戸が現在も残っている。
この長者屋敷跡について、次のような伝説がある。
「長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた、彼女はもと紀伊の国の斎大納言(いっきだいなごん)という公家の姫君で大変美しい頭の良い娘であったが、伊勢参詣の帰り、悪者どもに騙され、この九門長者の召使いとして売られて来たのである。
そこで、彼女は自分の身を守る為「普通の人には醜い女と見え、身分高い人には元の美しい姫の姿に見えるように」と守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。
時の征夷大将軍である坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、この九門長者の家にお立ちよりになり、彼女を見初めた。
延暦十八年巳年(779)八月一日、彼女は男子を出産、名を千熊丸といい、当時の人々は神童と呼んでいた。
千熊丸は十三歳になった時、母と共に都へ上り、父の将軍と親子の対面をし、二代目田村麻呂将軍となった。」ということである。
田村麻呂の二代目は聞いたことがありませんね。 坂上田村麻呂の本を含め今回7冊ほどアマゾンから購入何かわかったら記事にします。
このストーリーは、以前 南宮神社/津波に流された女神・多賀城市でも紹介しています。
話はもっと長いようです。千熊丸は長者の息子として育ったようです。
さて、今回伊豆佐比賣神社に行ったわけですが、境内に入ると、最近は参拝者が居ないような雰囲気でした。
実に空気が淀んでいるといいますか? 今までにも何度も感じていますが、清々しくなる神社とそうでない神社があります。 今回は後者の方でしたね。
拝殿の横には飯土井稲荷明神があり朱塗りの社と白狐に塗られた秘書の狐は何とも不気味でした。
宮城郡4社の一社であり、式内社でもある神社なのですが、どうも駄目でした。
稲荷明神の方には寄れず、ズームを使って遠めに撮影したのです。
その理由が、帰って来てから調べてわかりました。
偶然写真にも写っておりました。ある意味良かったです。
飯土井稲荷明神
この場所は長者屋敷の井戸の上なのでしょうか?
怖くてゆっくり見れませんでしたので何ともいえませんが?
焼けた欅の怒り
ここには、樹齢千年を越える大欅がありました。
昭和41年のことです。この欅が火を発して幹の中まで焼損してしまったのです。
その為、伐採することになりましたが作業に使われた斧が次々と折れ作業にあたった職人二名までが不幸にあったのです。
その上、木材を買った人にまで変事が起こったため、買主の人が輪切りを社に納めて祭りを行ったと云います。
また、枝に至るまで木目が美しかったので近郊の人が持ち帰ったところ、やはり災いがあり恐ろしくなって返還されたものが雨覆いの下に積まれています。
この雨覆いが下の写真にあります。足場パイプで組まれた枠にトタン屋根で覆われています。
暗闇でしたが画像処理したら浮き出てきました。
これで一つの謎が解けました。
鳥居の扁額が普通の神社ではありえないただの板でした。
地元の大手の木材会社です。
買主はこの会社なのでしょうか?
気になるのは、火を発して幹の中まで焼損・・・とあるのですが、それほど焼けたのに輪切りにして神社に納めたというのは、話が違うのでは?
木材会社が焼けた木を購入するでしょうか? 焼けたのに枝まで綺麗に残っていたのでしょうか?
どうもガテンがいきません?
お稲荷さんかと思ったら愛宕神社でした。
田村麻呂の二代目、確かに聞いたことがありません。
樹齢千年の欅は、御神木となったものでしょう?
大事に扱わないと、こうなるわけですね。
恐ろしいです。
それなりの心構えが入りますね
注意も必要ですね。
私も現地に参拝に参りましたが、ひーさん同様、怖さを感じました。何となく判りましたが、全てを公表するのは大変怖いため省略します。
さて、言える事ですが、「悪玉」については岩手県にも「アク玉伝説」があります。ただ、悪玉の相手は田村麻呂では無く、父親の苅田麻呂です。
田村麻呂の身体的特徴は大きい説も小太り説もあり、二人いた可能性も否定できませんが、岩手県の伝説の方が的を得ているかと思います。
最後に欅だけでなく、境内の桜等の木を切った方も数名急死していると聞いています。参拝も丁重におこない、石ころの一つも持ち帰るべきではないですね。
ではでは。
二代目では無くそれが田村麻呂なのではと?
ただ、辻褄が合わなくなると確証も出来なくなりますからね。
鶴岡の由豆佐売神社は機会があったら行きたいと思います。
春になってからですね。
このような理由で伐採が出来ない木が田沢湖の外周にあります。木は道路の真ん中にありそれを避けるように道が作られました。
Googleマップでも確認できますよ、御座石神社の右側を道路に沿って見ればわかります。
伐採しようと鋸を当てると次々亡くなったそうです。
最後に酔った勢いで、俺が切ってやると意気込んで行った人も亡くなってしまい、伐採を断念し、道路が避けることになりました。
近くには雨乞いの木もあり、田沢湖初め十和田・大潟の三湖伝説もあり、神秘的な湖ですね。
調べてみるとやはり桜に次いで柿木は祟り易い様です。
有名な樹医も桜の木を切って、1年間原因不明の病気で立ち上がれなくたと聞きます。植物と言えども霊的なモノを感じます。
さて田沢湖の木々の話、興味深いですね。田沢湖といえば辰子伝説。辰子が永遠の美を観音様に願って、龍になったとのことですが、日本語は辰の文化の言葉と言えます。中国から位の低い三本指の龍が来る前に、辰が居たのではないかと考えています。
御座石神社も興味深いですねぇー。祭神は「沼河姫」。
伊豆佐比売神社の「溝咋姫」の別名は「活玉衣姫」、「玉櫛姫」です。
つまり、溝咋姫は事代主の妻、活玉衣姫は大物主の妻。最後の玉櫛姫ですが、櫛玉命=ニギハヤヒですから、その妻の可能性があります。
そして沼河姫は大国主に求婚されている。
っと言う事は「溝咋姫=沼河姫」とも考えられます。更に沼河姫も瀬織津姫と同神説があります。
一言言えることは、これらの女神は皆恐ろしい面があると言うことは確かなようです。
ではでは。
龍神については、吉田大洋氏の本も半分(笑)読んでいます。
その池も数年前に周りを整備したようです。
昔は、週に1~2回は通っていましたよ。
短い記事にしていました。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/d0bb4c282d4202d82f55555ed529f104
それから、十和田湖に入る小坂からの道筋に七滝の伝説があります。やはり大蛇が出てきます。
記事にしていたと思ったらまだ書いていませんでした。
いずれ書きたいと思います。
家にあった柿木をやむを得ず伐採します。
お祈りしておきますよ。
”研究”です♪
引き続き、お願いします <(_ _)>
違うところに書いてもいいのですが、色々関連することが出てきますので・・・
つまらない記事ですが、何かわからないものを追いかけているような気がします。
深みに嵌った足はなかなか抜けないものです。