令和3年12月5日宇土古墳探訪
先週参加した鞠智城シンポジムで配布された冊子の49ページの図4「有明海沿岸の(熊本)の古墳編年図」を見て、熊本における古墳の出現ってのが、ランダムではなく順番があるのを知ったのは大きな収穫だった。
具体的には、宇土半島基部を皮切りに菊池川流域→白川上流(阿蘇)・緑川中流域→氷川流域・球磨川下流域となっているようだ。
シンポジムが終わったあと、それを示した兵庫県立考古博物館館長に質問してみた。
「先生、これって古墳製作集団みたいな団体か、あるいは製作の技術者みたいな人々がヤマト政権から派遣されて、各地を移動しながら、その土地の豪族とともに作ってったってことですか?」
「技術者が派遣されてたかどうかは、古墳だけではわかりません。それに伴った埴輪の種類や様式などの統一性がわかれば、そういう専門性のある技術者がいたということになるのかもしれません、でも、そのことを証明するのはなかなか難しいでしょうね〜。しかし、おっしゃるとおり、この古墳があたかも移動して作られているように見えるのは、ある決まった豪族が古墳を作りながら移動したのではなく、その土地の豪族とヤマト政権の関係性を示しているのだと思います。」
「ってことは、この順番は、ある意味、ヤマト政権のご意向というか政策の一貫だったことなのでしょうか?」
最後の質問については残念ながら時間切れという感じになってしまった。先生は他の人の声かけに応じなければならず、ちゃんとした返事を頂くことはできなかった。
しかし、順序だった古墳の造営は、ヤマト政権の意図がはたらいた結果と見るべきではなかろうかと強く思ったのだった。
そして昨日、熊本県の前方後円墳の皮切りとなった宇土半島基部の古墳を見に行った。ここが最初の造営地に選ばれた理由は何なのか、それを考えてみたくなったのだ。
訪ねた古墳は、向野田古墳(むこうのだこふん)、天神山古墳などなど。この二者は、県内の数ある前方後円墳のうち十傑に入る規模を持ち、天神山古墳にいたっては、全長110mでベスト2。そして、各古墳を巡りながら地形や位置関係を体感してみた。
そして古墳時代において宇土半島は、まだ「宇土島」だったのではないかと直感したのだった(このことについては、おいおい証明できそう、ってか、誰かが既に指摘しているとことと思う)。
宇土半島の基部は、地図を見ればわかるとおり、まさに九州の中心。
主な長距離の移動や運搬は、その昔から、海運だ。
現在、宇土半島の基部は陸地化しているが、その昔は浅海か湿地帯であってもおかしくない低平地が狭小ではあるが南北に繋がっている。古墳時代は「運河」だったのかもしれない。であるならば、当地は海運交通の要衝と考えることができる。
いずれにしろ、ここを海路として通過することを想像すると、両岸の小高い丘陵に造営された古墳は、まさに海峡沿いのランドマークだ!
ヤマト政権は、古墳時代の始め頃、この九州のど真ん中を最重要拠点としたのではないだろうか。そして、九州一円にその影響力を拡大していったのかもしれない。
いい日曜日だった。
先週参加した鞠智城シンポジムで配布された冊子の49ページの図4「有明海沿岸の(熊本)の古墳編年図」を見て、熊本における古墳の出現ってのが、ランダムではなく順番があるのを知ったのは大きな収穫だった。
具体的には、宇土半島基部を皮切りに菊池川流域→白川上流(阿蘇)・緑川中流域→氷川流域・球磨川下流域となっているようだ。
シンポジムが終わったあと、それを示した兵庫県立考古博物館館長に質問してみた。
「先生、これって古墳製作集団みたいな団体か、あるいは製作の技術者みたいな人々がヤマト政権から派遣されて、各地を移動しながら、その土地の豪族とともに作ってったってことですか?」
「技術者が派遣されてたかどうかは、古墳だけではわかりません。それに伴った埴輪の種類や様式などの統一性がわかれば、そういう専門性のある技術者がいたということになるのかもしれません、でも、そのことを証明するのはなかなか難しいでしょうね〜。しかし、おっしゃるとおり、この古墳があたかも移動して作られているように見えるのは、ある決まった豪族が古墳を作りながら移動したのではなく、その土地の豪族とヤマト政権の関係性を示しているのだと思います。」
「ってことは、この順番は、ある意味、ヤマト政権のご意向というか政策の一貫だったことなのでしょうか?」
最後の質問については残念ながら時間切れという感じになってしまった。先生は他の人の声かけに応じなければならず、ちゃんとした返事を頂くことはできなかった。
しかし、順序だった古墳の造営は、ヤマト政権の意図がはたらいた結果と見るべきではなかろうかと強く思ったのだった。
そして昨日、熊本県の前方後円墳の皮切りとなった宇土半島基部の古墳を見に行った。ここが最初の造営地に選ばれた理由は何なのか、それを考えてみたくなったのだ。
訪ねた古墳は、向野田古墳(むこうのだこふん)、天神山古墳などなど。この二者は、県内の数ある前方後円墳のうち十傑に入る規模を持ち、天神山古墳にいたっては、全長110mでベスト2。そして、各古墳を巡りながら地形や位置関係を体感してみた。
そして古墳時代において宇土半島は、まだ「宇土島」だったのではないかと直感したのだった(このことについては、おいおい証明できそう、ってか、誰かが既に指摘しているとことと思う)。
宇土半島の基部は、地図を見ればわかるとおり、まさに九州の中心。
主な長距離の移動や運搬は、その昔から、海運だ。
現在、宇土半島の基部は陸地化しているが、その昔は浅海か湿地帯であってもおかしくない低平地が狭小ではあるが南北に繋がっている。古墳時代は「運河」だったのかもしれない。であるならば、当地は海運交通の要衝と考えることができる。
いずれにしろ、ここを海路として通過することを想像すると、両岸の小高い丘陵に造営された古墳は、まさに海峡沿いのランドマークだ!
ヤマト政権は、古墳時代の始め頃、この九州のど真ん中を最重要拠点としたのではないだろうか。そして、九州一円にその影響力を拡大していったのかもしれない。
いい日曜日だった。