『三玉山霊仙寺を巡る冒険』《番外編 歴史にみる「滑石(かっせき)」》
法花寺地区で採取される「滑石」は、歴史的な側面から見た場合、どのような意味を持つのか考えてみました。
「滑石(かっせき)」と「ワクド石遺跡」
菊池郡大津町杉水に「ワクド石遺跡」と呼ばれる縄文後期~晩期(約3千年前)の大規模な住居址遺跡があります。この遺跡からは土器のほか勾玉(まがたま)、土偶、石包丁、石鍋等が出土してますが、そのなかに籾(もみ)の圧痕がついた土器片が発見されています。この発見は当時の考古学会に稲作の渡来の時期に疑問を投げかけ、そのことで耳目を集めた遺跡として知られています。
この遺跡の調査報告書を読んで思わず小踊りしてしまった部分があります。それは出土した勾玉(まがたま)の玉材(材料)について分析した結果、ヒスイの他に蛇紋岩の岩脈に随伴して産出したと推定される「滑石」が見い出されたという記載があったからです。
「滑石」はその加工のしやすさから現在も彫刻の材料として広く使われていますが、3千年も前の昔から装飾の材料として使われていたのです。報告書では、その「滑石」の産地については特定できずに課題を残したままとなっています。しかし、その「滑石」の産地は、先に紹介した山鹿市北方に位置する法花寺鉱床や平山鉱床と考えられます。
これらの鉱床は、ワクド石遺跡から北東に僅か20数キロで歩いて日帰りできる距離にあり、当時あった「茂賀の浦」を舟で渡れば目と鼻の先の関係です。狩猟採取を生業にしていた縄文人の探索能力をもってすれば、「滑石」のありかなど造作なく見つけることができたのではないでしょうか。
このように山鹿地域の滑石鉱床には、数千年におよぶ古い歴史があると考えられます。
「滑石(かっせき)」と「凡導寺の経筒(ぼんどうじのきょうづつ)」
平安時代の末期の1050年代は釈迦入滅後の2千年を経た末法(まっぽう)の世になり、破壊や天変地異が相次ぐ時代になるといった末法思想が国中に広がりました。こうした末法思想を背景に、現世の不安から逃れるとともに来世での極楽往生を求めて浄土教が流行しました。
そして、人々が救いを求めてを託したのは、阿弥陀仏の造立供養のほかに、書写した経典を、その願いが56億7千万年後の弥勒出生のときに受け容れられるように地に埋める「埋経(まいきょう)」でした。「埋経」には、瓦に経を刻み込む瓦経や、写経を入れる経筒(きょうづつ)がありました。経筒には弥勒信仰を勧める法華経(妙法蓮華経)の写経が入れられたとされています。
明治四十年(1907年)二月のことです。「凡導寺の経筒」が不動岩の西麓にある金比羅神社境内の土の中から偶然に発見されました。表面に刻まれた文字からは、久安元年(1145年)に僧慶有が弥勒下生にあうことを念願して埋経したことがうかがわれます。現在、この経筒は県の考古資料として指定され、山鹿市立博物館で保管されています。そして、その経筒は「滑石」製であるとされています。
この経筒のもととなった滑石も先に紹介した法花寺鉱床から産出したものではないでしょうか。鉱床の名前と同様にその滑石が採れる集落の名は法花寺(ほっけじ)です。集落の奥には古寺の法華寺がひっそりと残っています。近年、集落の人達によって修復されたお堂には、金色に塗られた千手観音立像がご本尊として手厚く祀られています。
信仰の対象となった法華経にちなんだ地名が千年を経た現在にまで引き継がれ、さらに、この地から採れた岩石で「埋経」が行われていたかもしれない。このことを知ると、歴史の深さとともに、地続きとなっている永い時間の流れにロマンを感じずにはいられません。
法花寺地区で採取される「滑石」は、歴史的な側面から見た場合、どのような意味を持つのか考えてみました。
「滑石(かっせき)」と「ワクド石遺跡」
菊池郡大津町杉水に「ワクド石遺跡」と呼ばれる縄文後期~晩期(約3千年前)の大規模な住居址遺跡があります。この遺跡からは土器のほか勾玉(まがたま)、土偶、石包丁、石鍋等が出土してますが、そのなかに籾(もみ)の圧痕がついた土器片が発見されています。この発見は当時の考古学会に稲作の渡来の時期に疑問を投げかけ、そのことで耳目を集めた遺跡として知られています。
この遺跡の調査報告書を読んで思わず小踊りしてしまった部分があります。それは出土した勾玉(まがたま)の玉材(材料)について分析した結果、ヒスイの他に蛇紋岩の岩脈に随伴して産出したと推定される「滑石」が見い出されたという記載があったからです。
「滑石」はその加工のしやすさから現在も彫刻の材料として広く使われていますが、3千年も前の昔から装飾の材料として使われていたのです。報告書では、その「滑石」の産地については特定できずに課題を残したままとなっています。しかし、その「滑石」の産地は、先に紹介した山鹿市北方に位置する法花寺鉱床や平山鉱床と考えられます。
これらの鉱床は、ワクド石遺跡から北東に僅か20数キロで歩いて日帰りできる距離にあり、当時あった「茂賀の浦」を舟で渡れば目と鼻の先の関係です。狩猟採取を生業にしていた縄文人の探索能力をもってすれば、「滑石」のありかなど造作なく見つけることができたのではないでしょうか。
このように山鹿地域の滑石鉱床には、数千年におよぶ古い歴史があると考えられます。
「滑石(かっせき)」と「凡導寺の経筒(ぼんどうじのきょうづつ)」
平安時代の末期の1050年代は釈迦入滅後の2千年を経た末法(まっぽう)の世になり、破壊や天変地異が相次ぐ時代になるといった末法思想が国中に広がりました。こうした末法思想を背景に、現世の不安から逃れるとともに来世での極楽往生を求めて浄土教が流行しました。
そして、人々が救いを求めてを託したのは、阿弥陀仏の造立供養のほかに、書写した経典を、その願いが56億7千万年後の弥勒出生のときに受け容れられるように地に埋める「埋経(まいきょう)」でした。「埋経」には、瓦に経を刻み込む瓦経や、写経を入れる経筒(きょうづつ)がありました。経筒には弥勒信仰を勧める法華経(妙法蓮華経)の写経が入れられたとされています。
明治四十年(1907年)二月のことです。「凡導寺の経筒」が不動岩の西麓にある金比羅神社境内の土の中から偶然に発見されました。表面に刻まれた文字からは、久安元年(1145年)に僧慶有が弥勒下生にあうことを念願して埋経したことがうかがわれます。現在、この経筒は県の考古資料として指定され、山鹿市立博物館で保管されています。そして、その経筒は「滑石」製であるとされています。
この経筒のもととなった滑石も先に紹介した法花寺鉱床から産出したものではないでしょうか。鉱床の名前と同様にその滑石が採れる集落の名は法花寺(ほっけじ)です。集落の奥には古寺の法華寺がひっそりと残っています。近年、集落の人達によって修復されたお堂には、金色に塗られた千手観音立像がご本尊として手厚く祀られています。
信仰の対象となった法華経にちなんだ地名が千年を経た現在にまで引き継がれ、さらに、この地から採れた岩石で「埋経」が行われていたかもしれない。このことを知ると、歴史の深さとともに、地続きとなっている永い時間の流れにロマンを感じずにはいられません。