モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

ポツダム宣言受諾を打電 ~東京中央電信局 (1/2)

2016年08月14日 | モールス通信
ポツダム宣言受諾を打電~終戦決定時の東京中央電信局(1/2)


東京上空に初めて米機が飛来したのは、昭和17年4月18日の白昼であった。航空母艦ホーネットを中心とする第18機動部隊と、同じく空母エンタープライズを旗艦とする第16機動部隊が北太洋で合流し、東京奇襲を目指して進んできた。そしてホーネットを発進したB25爆撃機16機は、午後0時半ごろ東京上空に進入し、爆弾、焼夷弾を投下して中国大陸に向けて飛び去った。

空襲になったら、家の中の押入れにかくれろといわれたのは、この17年ころからであった。縁の下か庭に防空壕を掘れと指示されたのは、18年夏ころからであった。19年6月16日、北九州がB29爆撃機20機によって空襲されて以来、連日のように繰り返される本土空襲は、銃後の生活を戦火の危険におとし入れていった。美しかった白亜の殿堂※も、茶かっ色に塗りつぶされて、カモフラージュがほどこされた。東側一帯には強じんな爆風よけがつけられ、広々とした屋上には、鉄板コンクリートを流し込んだ掩蓋(えんがい)が造られて、局舎は異様な姿に変わっていった。
※ 東京中央電報局の建物は、当時そう呼ばれていた。

19年3月、「決戦ノ現段階ニ鑑み電気通信ニ関スル決戦非常措置を徹底的ニ強化推進シモッテ戦局打開ニ最後的寄与ヲナサントス」という非常措置要綱が決定された。その措置の第1に、「重要都市ニオケル措置局、代位局ノ拡充強化」があげられた。措置局は急場をしのぐために運用されるものであり、代位局はやや長期にわたって代用されるものであった。東京中央電報局(以下、東京中電という。)は措置局に指定されて地下1階に設置された。ちょうど白亜の殿堂の正面玄関をはいり、エレベーター前から廊下をL字形に曲折するあたりまでの位置の地下室である。この地下室の天井(つまり地上1階の底面)を、厚さ1メートルばかりのコンクリートでかため、そこに軍用回線ならびに長距離回線を収容し、空襲時にはただちに切り替えられるようになっていた。戦時下のもようについて、当時の荒巻伊勢雄局長はつぎのように語っている。

「空襲は東京にだけではなく間断なく来襲し、この結果通信網はずたずたに切断され、麻痺状態はますますその度を深め、これにつれ通信運行状況は日日に悪化していった。こうした当時の状況を物語るものに「そ通状況報告」というのがあった。毎朝主幹が前日の模様を取りまとて私のところへ報告にくるのだが、「昨日は何回線動き、何分通信をしました」というような情けない報告が繰り返されるのが常だった。

ほとんどの回線が戦災で気息えんえんのところへ、機器の損耗、疲弊には目を覆うものがあったのであるから当然のことだが、その半身不随の設備をだましだまし使用する職員の苦心ははた目にも痛ましいものがあった。しかし職場の士気はお世辞ではなく、たくましいものがあった。寸時を惜しんで回線の復旧、通信のそ通に対していた。」


空襲は一般民衆の戦意喪失をねらって、無差別じゅうたん爆撃へと広がっていった。黄リン、樹脂、エレクトロンの焼夷弾が大量に投下され、都市は焼きつくされていった。

昭和20年3月9日、東京は大空襲に襲われた。夜半から来襲したB29爆撃機150機は、分散して低空から波状じゅうたん爆撃を行い、本所、深川、城東地区を中心に東京の4割を一夜にして焼きつくした。

続いて4月13日には同様爆撃を、豊島、新宿、渋谷、麹町地区に加え、5月25日には残った山手方面を焼いた。東京はこの三つの大空襲を中心に、前後102回の空襲を受け、帝都の大半は壊滅した。

ちなみに、元大本営陸軍部作戦課長の服部卓四朗の集計によれば、昭和20年中に日本本土を襲ったB29の機数は次のとおりであった。
1月490機、2月460機、3月1,295機、
4月1,930機、5月2,907機、6月3,270機、7月3,666機、8月1,490機
これらはほとんどマリアナ基地からの来襲であるが、硫黄島基地を発進したP51、沖縄基地発進のB25、P38、その他艦載機を含めると、昭和20年だけで実に延べ4万5,000機をこえる来襲機によって、日本の都市は破壊されたのであった。

昭和10年の有線と無線の合併により、東京中電は対外無線直通連絡回線網によって、世界の通信界に確固たる地位を占めていたが、戦争の拡大はその地位をまったく消滅させた。大平洋戦争の始まった16年12月8日、まず、東京中電~サンフランシスコP.W線、サンフランシスコR.C.A線(写真電信)、ロンドン線が途絶し、16年中にはアメリカ、イギリス関係の回線は全部ストップした。17年にはいると、東京中電対、メキシコ、リオデジャネイロ、リマ、ブエノスアイレス線が途絶した。18年には、サンチャゴ、ローマ線が、20年4月にはベルリン線さえ途絶した。そしてソ連の対日宣戦布告があった翌8月9日にはモスコー線も途絶し、わずかに東京中電~ジュネーブ回線のみが命脈をたもつ状態であった。

<<8月10日、ポツダム宣言の連合国への受諾は、この残ったジュネーブ回線によって打電された。(2/2)へ続く。>>


コメントを投稿