モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

谷口稜曄~二十五年目の回想と証言(1/2)

2016年08月09日 | 原爆
◆長崎原爆投下~二十五年目の回想と証言 

谷口稜曄(たにぐちすみてる)

二十五年前の八月九日、私は住吉町の路上に赤い自転車を走らせていた。電報配達員になって二年め、十六歳だった。
運命の一瞬、目のくらむような閃光、左後方からのはげしい爆風で、私は三メートル先の路上にたたきつけられ、自転車は飴のようにまがっていた。不思議に痛みも出血もなかった。三百メートル先の兵器工場の地下壕にたどりついた。そのとたん、ひきつるような痛みが背中から全身をおそった。

それから三晩、地下壕で呻きつづけ、四日目に救護班に救出されて諫早の国民学校に運ばれ、更に数日して長与国民学校に送られた。どこでも新聞紙の灰を油にこね合わせたものを薬の代わりにぬってもらう程度の治療だった。一か月後には更に新興善校の救護所へ廻された。アメリカ軍が俯伏せになっている私を撮影していったのはその頃であったろうか。そしてその年の十一月に、大村の病院に移されたのだった。

二十五年前、まっかに焼けただれ、俯伏せになった十六才の少年・・・・、それは疑いもなく私のかっての姿である。この苦痛に耐える顔、灼けるような赤い皮膚の色が、私の目のなかで、ふと虐殺されたベトナムの少年の顔と色に変貌する。

「殺してくれ!」と私は何度叫んだろう。やけどの痛みと絶望的な気持から、死んでしまいたい、と何度思ったことだろう。この生々しい血と皮膚の色をみていると、私にはこうした複雑な思いがわきたってくる。

戦争から解放され、「平和」がよみがえって、もう二十五年。昨今の世相をみれば、もう二十五年前の苦しみなど忘れ去られようだ。だが、私はその忘却を恐れる。

忘却が、新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れる。私は、かつての自分もそのひとコマに含めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが自分の体の中によみがえり,拡がってくるのを覚える。私はモルモットではない。もちろん見せ物ではない。だが、私の姿を見てしまったあなたは、どうか目をそむけないで、もう一度よく見てほしい。私は奇跡的に生きのびたが、今なお私たちの全身には原爆の呪うべき爪跡がある。私は、じっと私たちを見つめるあなたの目のきびしさ、あたたたかさを信じたい。

だからこそ、あなたたちの視線を受けとめつつ、私はもう一度証言を試みたい。映画は、私たちが体験してきた生き地獄の何万分の一、いや何十万分の一ほども再現していない。

私は原爆にあってから一年九か月、俯伏せに寝たっきりで身動きすらできず、ベットの上が毎日食堂になり、また便所でもあった。

私の姿を見る者は誰もが、いつ死ぬか、いつ死ぬかと、まだ死んでないのが不思議に思うほどだった。私の体は、背後の方が腰のバントをしていた部分を残して尻まで丸焼けになり、左足の外側が膝から上が全部床ずれがつき、左ひじが百十度より以上には伸びなくなっていた。

二十二年の五月、傷がいくらか良くなり起きれるようになった。また自分の足で歩くことができるようになった。

その時ほど嬉しかったことはない。周囲の人、とくに看護婦さんや先生たちも自分のことのように喜んでくれた。

その間には二回息が止まって、この世から遠ざかったこともあった。二十四年三月、背中の傷は全治せぬままだったが、やっと退院する日が迫ってきた。それについて、新しい不安がまた打ち寄せてきた。それは、このような体で退院して満足に仕事ができるだろうか、みんながどんな目で見るだろうかという不安だった。それを思うと夜も眠れず、病院の外に出て泣いたことも何度かあった。

いよいよ退院の日がきた。私を知る人は皆、涙を浮かべて私が見えなくなるまで見送ってくれた。

退院して四月になって元の職場に復帰した。しかし、左ひじの自由がきかないので、翌二十三年、整形手術を受けた。だが、結果は良くなかった。また、二十六年に大学病院で左顔面と顎の整形手術を受けて、いくらか見良くなった。

しかし他方、その前年六月、すでに朝戦戦争が始まり、アメリカでは再び原爆使用の声もきかれていた。「最初に原爆を使用する政府を原爆犯罪人とみなす」という平和署名が弾圧のなかですすめられていた。やがて平和の世論は勝って、朝鮮に平和がかえってきた。しかし、そのあたとラオス、ベトナムと新しい戦争の火は絶えることがない。

昭和三十年八月、第一回原水禁止世界大会が開かれ、被爆者のひとりが壇上に立って訴えた。私は自分と同じ境遇にある被爆者たちの「もういやだ」というたたかいを知った。ためらいを捨てて私は平和への証人となる道をえらんだ。※1



もう半ばあきらめていた命だったから、私は新しい生命を「原爆との戦い」のために捧げたい、と願った。

昭和三十一年私は結婚した。見合いでは被爆者ということで断られたが・・・。二年後に長女、更に二年後に長男が生まれた。後遺症のことを恐れていた私にとって、五体満足な赤ん坊が生まれたときは涙がでた。

結婚当初、平和運動に参加する私に、妻は不安と不満をもったようだが、私は自分のえらんだ道を進んだ。そして妻もまた平和のためのよき同伴者となった。※2

当時は、自分の傷ついた体をさらけだして人の前に出ることは私もまたいやだった。もちろん、今も見せ物などになりたくない。だが、それだからといって私たち被爆者が日陰にかくれているわけにはいかない。私たちは内心の苦しみとたたかいながら、平和運動に参加せずにはおれなかった。

ところで他方、私の背中の傷は直径四センチほどが全治せず、私は毎年それで悩まされ、何回かそのために仕事を休んだ。たまりかねて方々の病院に行ったが、手術しても五分五分で良くなるのかどうか疑問だった。しかし、あんまり苦しむのがいやで三十五年に原爆病院へ入院し、全身麻酔でそのケロイドを手術し切除してもらった。さいわいこれは一回で成功し、それ以後あまり痛まなくなった。

もちろん、慢性の造血機能障害で今でも体がだるく疲れやすい。しかし、「おれはあの地獄から生き残ったのだ」という意識がわれしらず沸きおこって、私は生きぬき、たたかいぬくことに喜びと慰めを見だす。

しかし、私たちが歩んできたような、こんな苦しみは、もう私たちだけで沢山だ。私たちの息子や娘たちは平和に豊かに生きてほしい。そのためにみんなが最大の力をつくして平和のために頑張ってほしい。

だが、私たちのこの切実な願いと裏腹に主義主張の違いだとかで平和運動が分裂し、また誰よりも虚心に団結して完全援護法制定をかちとるべき被爆者の運動さえ分裂してきた。さいわい、最近になって長崎の被爆者団体は統一した運動のために連絡協議の組織をつくったが、私たちは誰よりも強く統一を願っている。部分的意見の相違は留保して明日の前進のため討論を重ねるとしても、根本の目標において一致するなら団結できないことはないはずだ。私は自分が進んできたこの道を、人から何と云われようと固く信じ、今後も進む覚悟である。

ベトナムからカンボジアへと戦火は今も止まらない。しかし、いったい誰のため、なんのために殺しあいが続けられねばならぬのか。なんの憎しみもないはずの人間同士、同じ民族同士が殺しあわねばならぬ根本の理由は何なのか。アメリカのいう「ベトナム化計画」というのは何なのか。この6月、自動延長となった日米案保条約のもとで、沖縄の核基地はどうなるのか。毒ガス兵器はどうなるのか。日米共同声明が70年大のアメリカの「アジア化計画」の中核として日本を婿えらびしたのであるとしたら、その強大なアメリカの「核の傘」のもとにある私たちは、いま何をすべきか。沖縄を含めた日本の基地のすべてを含めた日本の基地のすべてが、アジアの兄弟たちに向けられている現実のもとで、私たちの真の自由と独立、平和への道はどこへ開かれるのか。※3

すくなくとも私たち長崎と広島の被爆者は、私たちの祖国の核武装、核大国への道を強く拒否する。それを企図するいかなる犯罪に加担することをも拒否する。そして、その新しい犯罪を告発するための「証言」に、私たちは進んで署名しよう。




(注記~増田)
※1、1954年(昭和29)、アメリカのマーシャル群島のビキニ環礁での水爆実験で、マグロ漁船第五福竜丸の乗組員23名が被爆。焼津港に帰って、1人が病院で死亡し、同船していた多数の者に原爆症の症状がでた。マーシャル群島の住民が汚染され、46人が死亡した。

水爆の詳細が発表され、世界は、深刻なショックを受けた。15メガトンの威力を持つ水爆は、広島のウラン爆弾1千発以上、長崎型のプルトニウム爆弾約7百発に相当する威力を持っていた。第1回原水爆禁止世界大会は、この水爆実験を契機に開催された。

この会には、長崎からも被爆者が参加、大会から帰ってきた1人に誘われた谷口氏は、「原水禁運動」に参加することにした、と後に述べておられる。

※2 谷口さんのよき同伴者となった妻の栄子さんは、平成28年4月30日、86歳で死去された。(長崎新聞)

※3、ガス兵器は1979年(昭和45)、ハワイ諸島の西方900Kmの米国領ジョンストン島に移送された。また、沖縄基地に核兵器は、1975年(昭和47)沖縄の日本復帰までに全て撤去された。   

◆谷口稜曄(たにぐちすみてる)氏について:

谷口氏は、昭和4年(1929)生れ、現在87歳。長崎市在住。
昭和18年、逓信省時代の長崎本博多郵便局に電報配達員として就職、電報と郵便の配達業務に従事した。後、逓信省が郵政省と電気通信省にわかれた昭和24年(1948)に長崎電信局員となった。昭和61年(1986)に退職、以来、被爆者運動に専念。

氏は、平成18年(2006)に長崎原爆者協議会会長に就任。平成22年(2010年)から日本唯一の被爆者団体組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被爆団協)の代表委員、3人のうちの1人を務めている。

今年5月、オバマ大統領が広島を訪れ、スピーチを終え出席者に歩みより、最初に被爆者の代表、坪井直(91歳)と握手を交わした。新聞報道によれば、谷口氏も招待されたが、入院中だったため欠席。

なお、谷口氏のことについては次回(2/2)に、長崎電信局の原爆投下時のことについては、稿をあらためて書かせて頂く予定です。




1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメント日 2021-6-17  (コメント書いた人「ひろこ」  書いた人「ひろこ」)
2021-06-20 15:20:20
■「ひろこ」さんコメント
「このお話しは、伝えていきたいです。忘れてはいけないことです。」

■コメント返信者 増田 
コメント有難うございました。
国内にも世界にも、あなたのお考えが広がることを切に祈っております。
返信する

コメントを投稿