ポツダム宣言受諾を打電(2/2)
~終戦決定時の東京中央電報局
20年7月26日、ついに米・英・華3か国は、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
ポツダム宣言は、日本の主権、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの条件をあげ、最後に無条件降伏か壊滅か、次のように即時決定を迫った。
「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみ」
8月6日広島に原爆投下、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日長崎に原爆投下とつづき、いよいよ政府は決断の時期に迫られた。
8月9日の戦争最高指導会議は、降伏条件をめぐって意見が対立し、容易に結論はだし得なかった。ことここに至って、鈴木首相はポツダム宣言に対する最終態度を決定する御前会議を要請、9日午後11時50分から皇居の防空壕内で御前会議が開かれた。
8月10日午前2時30分、ついに戦争中止の聖断がくだった。
つづいて午前3時から閣議が開かれ、御前会議決定を閣議決定として午前6時、米・英・ソ・華の4か国に対してボツダム宣言受諾の電報を打電することとなったのである。
ポツダム宣言と電信と」が詳しく伝えている。それを要約すると次のとおりである。
ルーズベルト大統領の親電にはじまり、ポツダム宣言受諾の電報に終わった東京中電の、“太平戦争電信裏面史”は、まことにドラマチックでさえあった。
長かった戦争は終わった。8月15日を境に電信はふたたび文化の先駆としてスタートしたのである。
~終戦決定時の東京中央電報局
20年7月26日、ついに米・英・華3か国は、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
ポツダム宣言は、日本の主権、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの条件をあげ、最後に無条件降伏か壊滅か、次のように即時決定を迫った。
「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみ」
8月6日広島に原爆投下、8月8日ソ連対日宣戦布告、8月9日長崎に原爆投下とつづき、いよいよ政府は決断の時期に迫られた。
8月9日の戦争最高指導会議は、降伏条件をめぐって意見が対立し、容易に結論はだし得なかった。ことここに至って、鈴木首相はポツダム宣言に対する最終態度を決定する御前会議を要請、9日午後11時50分から皇居の防空壕内で御前会議が開かれた。
8月10日午前2時30分、ついに戦争中止の聖断がくだった。
つづいて午前3時から閣議が開かれ、御前会議決定を閣議決定として午前6時、米・英・ソ・華の4か国に対してボツダム宣言受諾の電報を打電することとなったのである。
ポツダム宣言と電信と」が詳しく伝えている。それを要約すると次のとおりである。
「ここにおいてポツダム宣言の受諾をいかにして連合国に通告するかということになるのだが、その方法は対外無線電信回線を利用する以外に道はない。当時東京中電の対外無線は、ジュネーブ1回線がようやく命脈を保っているにすぎなかった。
このジュネーブ回線が確保されていた一事実は、敗戦日本にとって僥倖といわねばならない。終戦の裁可はくだされたとはいえ、正式の受諾を通告しない間は、米空軍は1日1都市の割合で來襲し、通告が遅れればそれだけ無用の損害を被らなければならなかった。したがって、ジュネーブ回線が健在したことがいかに重要な意味を持っていたかを裏書きできる。
結果において受諾をめぐる重要電報は、8月10日から終戦の日を迎えるまで、ジュネーブ回線を通じて無事にそ通し、その大任を果たしたのだが、この取扱いは東京中電にとっても、歴史的な重大事だといってさしつかえないと思うが、その立場は微妙且つ苦しいものであった。ことの是非は外務省を信ずることによって判断は容易であったが、最大の難関は受諾関係信の取扱いを、職員がはたして素直に受け入れてくれるであろうか、もし拒否されたらどうするかということであった。
ポツダム宣言受諾後においても、「驕敵撃滅へ死中おのずから活を信ず」という陸軍大臣の布告が出され、軍の将校連はなおかつ本土決戦の構えを強くしていた例でもわかるように、軍はもとより一般国民においても、日本の敗戦は絶対にあり得ないことであり、最後の勝利を信じ切っている社会情勢の中で、東京中電の職員のみが例外であり得るはずはなかった。
そこで幹部と相談の結果、外信課の主事、主任を中心とする中堅職員の若干を選び、絶対に秘密を保持することを申し渡し、ようやく事態の処理を図ることができたのであった。いわゆる箝口令によって言葉の自由を束縛された数日間は、さぞ苦しい日々だったと思う。後日その任に当たった諸氏は、その時の心境を「さあ大変なことになった。これは裏切り行為だ。国賊行為だ。どうして同僚に顔向けできよう。しかし誰かがやらなければならない仕事だ。俺達は電信屋じゃないか。通信はわれわれの仕事だ」と割り切ったということだが、終戦後も暫くの間は身も心も細る思いだったと述懐していた・・・。
15日正午、かの玉音放送となったのであるが、その日の午前2時か3時ごろ、早くもジュネーブ経由でワシントンから「降伏の条件などについて検討するから、マニラのマッカーサー司令部と連絡せよ」という内容の電報が入ってきたのである。その後も終戦処理をめぐるこのような電報がたくさん入電したが、すべてジュネーブ回線を利用して東京中電を経て外務省へ届けられたのである。このときほど電信の重要性と機能のめざましさを痛切に感じたことはなかった。
このようにして戦後処理という国家存亡の舞台裏で、電信が本来の使命を遺憾なく発揮し、無事大任を果たし得たことは、東京中電の歴史に特筆大書されてしかるべきものと思う・・・。」
このジュネーブ回線が確保されていた一事実は、敗戦日本にとって僥倖といわねばならない。終戦の裁可はくだされたとはいえ、正式の受諾を通告しない間は、米空軍は1日1都市の割合で來襲し、通告が遅れればそれだけ無用の損害を被らなければならなかった。したがって、ジュネーブ回線が健在したことがいかに重要な意味を持っていたかを裏書きできる。
結果において受諾をめぐる重要電報は、8月10日から終戦の日を迎えるまで、ジュネーブ回線を通じて無事にそ通し、その大任を果たしたのだが、この取扱いは東京中電にとっても、歴史的な重大事だといってさしつかえないと思うが、その立場は微妙且つ苦しいものであった。ことの是非は外務省を信ずることによって判断は容易であったが、最大の難関は受諾関係信の取扱いを、職員がはたして素直に受け入れてくれるであろうか、もし拒否されたらどうするかということであった。
ポツダム宣言受諾後においても、「驕敵撃滅へ死中おのずから活を信ず」という陸軍大臣の布告が出され、軍の将校連はなおかつ本土決戦の構えを強くしていた例でもわかるように、軍はもとより一般国民においても、日本の敗戦は絶対にあり得ないことであり、最後の勝利を信じ切っている社会情勢の中で、東京中電の職員のみが例外であり得るはずはなかった。
そこで幹部と相談の結果、外信課の主事、主任を中心とする中堅職員の若干を選び、絶対に秘密を保持することを申し渡し、ようやく事態の処理を図ることができたのであった。いわゆる箝口令によって言葉の自由を束縛された数日間は、さぞ苦しい日々だったと思う。後日その任に当たった諸氏は、その時の心境を「さあ大変なことになった。これは裏切り行為だ。国賊行為だ。どうして同僚に顔向けできよう。しかし誰かがやらなければならない仕事だ。俺達は電信屋じゃないか。通信はわれわれの仕事だ」と割り切ったということだが、終戦後も暫くの間は身も心も細る思いだったと述懐していた・・・。
15日正午、かの玉音放送となったのであるが、その日の午前2時か3時ごろ、早くもジュネーブ経由でワシントンから「降伏の条件などについて検討するから、マニラのマッカーサー司令部と連絡せよ」という内容の電報が入ってきたのである。その後も終戦処理をめぐるこのような電報がたくさん入電したが、すべてジュネーブ回線を利用して東京中電を経て外務省へ届けられたのである。このときほど電信の重要性と機能のめざましさを痛切に感じたことはなかった。
このようにして戦後処理という国家存亡の舞台裏で、電信が本来の使命を遺憾なく発揮し、無事大任を果たし得たことは、東京中電の歴史に特筆大書されてしかるべきものと思う・・・。」
ルーズベルト大統領の親電にはじまり、ポツダム宣言受諾の電報に終わった東京中電の、“太平戦争電信裏面史”は、まことにドラマチックでさえあった。
長かった戦争は終わった。8月15日を境に電信はふたたび文化の先駆としてスタートしたのである。
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