城郭 長谷川博美 基本記録

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伊勢崎城古図から城を学ぶ

2024-10-07 08:33:12 | 関東の城 ビイスタ工法

群馬県伊勢崎市曲輪町

伊勢崎城古図から城を学ぶ

伝承

那波宗俊赤石左衛門尉に築させた城。

最初赤石城と呼ばれたが由良成繁

城主となり「伊勢崎城」へと改名。

 

◆猜疑者

城郭ビイスタ論など日本国

の城には存在致しません!

享保年間の城郭測量記した

『量地指南図』など幻想だ

長谷川城郭学もウソですよ。

◆長谷川

伊勢崎城古図から日本の城の

測量の真髄を学びましよう。

日本の城の伝統はそう浅く

はないと私は考えています。

◆那和宗俊ウイッキペデイア

那波 宗俊(なわ むねとし)は、戦国時代武将山内上杉家後北条氏の家臣。上野国赤石城主。

略歴

[編集]

那波氏は上野の国人

那波勝宗の子として誕生。系図では長尾景長の娘を室とするが、景長の娘は母親で長尾景誠の娘を室としたとする説もある[1]

天文10年(1541年)、近隣諸氏(深谷上杉家足利長尾氏厩橋長野氏成田氏桐生佐野氏)と連合して新田金山城横瀬氏を攻撃するが失敗に終わる。その後、後北条氏に寝返って山内上杉家を攻めるとこれら周辺諸氏は横瀬氏と共に宗俊を攻めるが、小幡氏などの西上野の諸氏が離反した結果、関東管領上杉憲政越後国に追われた。

永禄3年(1560年)、憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)によって赤石城が攻撃され、12月には赤石城・那波城が陥落、降伏した宗俊は後北条方の有力与党とみなされたため、所領を奪われて間もなく没した。

那波氏の所領は横瀬氏(由良氏)に与えられるが、後に同氏が後北条氏に寝返った為、謙信は人質として差し出されていた宗俊の遺児・顕宗を旧領に復帰させる方針に転じることになる。

◆質問者

崎城(明石城)の古図には

1直線ビイスタ読取れますか?

 

◆長谷川

古図からはアからイへの直線

的縄張が読み取れます。

 

◆質問者

この腺には群馬高崎城の様な

扇形ビイスタ読み取れますか?

 

▼高崎城ビイスタ

 

◆長谷川

センスのある質問をされます

私は伊勢崎城に扇型ビイスタ

が存在したと考えております。

◆長谷川

様々なビイスタが読み取れます。

下図は典型的な重複型ビイスタ。

 

◆対談者

城郭には方円の縄が使われて

いると古来より言われますが

伊勢崎城に円の縄張読み取れ

ますか?

 

◆長谷川

読取れます。

◆質問者

中央から放射状に縄張をしてま

すか?

◆長谷川

読取る事が可能です。

 

 


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