城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

彦根城 内堀 中堀 横矢めぐり

2022-12-11 10:13:02 | 城郭
▼令和4年から令和5年の御案内チラシ
 
◆長谷川 この投稿は下記の再編集投稿です。
2021/10/13 14:09:41
 
▼のなみん様「匿名希望」
長谷川先生は彦根市西沼波町に住んでおられた
事もあり彦根城や彦根への愛着がよく表現されて
います。彦根城観光は彦根と言う地域にとり必須
の観光ポイントです。彦根城まだ見所が、多数眠
つている事をブログを見ているとよくわかります。
このような姿勢やスタンスは彦根への再訪を呼び
かける、彦根市への「リピーター作りには貢献」
して、おられると思います。以前ブログ「佐和
山城のいくえ」大変な人気を博しておりました。
 
◆一般様
デープ観光って何ですか?デープ観光の定義は?
 
◆対談者
一般観光ルートのような軽いサクサクザックリ
した軽いノリじやなくて見学する特定の場所を
より的確に正確かつ学術的にウンチクをも含め
てより詳しく深く丁寧に見学する特化した観光
がデープ観光と呼ばれております。長谷川先生
の場合は学門的生涯学習と定義されていますが
今回の余呉の6箇所の砦見学は織田信長の直属
の部下達、金森長近、不破勝光、徳山秀現や
原彦次郎等の信長の傘下に属した当時のバリ
バリの合戦や築城に関してプロ集団が築城した
珠玉の6砦です。だからその現実のバリバリの
砦を丁寧に見学したいと言うのがデープ見学!
参加される人は当時の砦の土塀の跡がマザマザ
と残っているのを実際に見て驚愕される訳です。
これが正にリアル!現実重視のリアル見学会。
▼過去のチラシです注意して下さい!
 
▼彦根城 内堀 中堀 横矢めぐり▼
 
◆一般様
彦根城の観光や城観光の深さ彦根城の観光
通の人々の彦根城見学の仕方が一味違う事
を痛感再認識したわ、やはり彦根松原側か
ら彦根城が設計されてる事は人生で一度も
教えられた事のない衝撃的な内容でしたよ!
 
◆みんな
ちよっと待ってよ!教えられた事聞いた事
は本当は二流で二次的な物じやないのです
か?試験に合格する優等生と新しい事発見
開発する研究者とは前者は事務的で後者は
考察研究気付き型のタイプの人間と言える。
例えばね!図書館の本を全て丸写し複写し
会話したり新聞記事を丸暗記して朝礼で引
用して所詮は「丸写し」「丸暗記」ですわ。
そう言う事はコピー機複写模倣人間ですよ。
人間は考える葦である。考える考察するか
ら人類は発名し発見し社会発展して来たの
我々「みんな」は長谷川先生と城址に行っ
も常に城址を熱心に見て考察して勉強する。
これからの時代は深いデープ観光の時代よ!
深堀の時代へ移行すると思われます。
 
◆反論者
くだらないバカバカしい投稿誰が見るか?
 
◆長谷川
くだらない記事と思わないで下さい!
城郭見学にとり「あなどり」軽視精神
が城址を見学する時の最大の致命傷に
なります。今回の記事は城址見学する
人の資質の問題です。どこに試験が潜
んでいるのか最後に解ります。これに
合格した人は100点軽視して侮った人
は中世城郭遺跡の見学においても欠点
でしょう。
現在の彦根城の内堀と中堀に設定されて
いる横矢掛かりを順次見学して行きます
先ずは中堀でいろは松の南にある横矢を
見学しましよう。いろは松、に見とれて
つい、見逃してしまう隅櫓台の遺構です。
 
▼ ★東から見ると天守は小さく▼見える
是は天守が南北から見て栄える南北栄えだからです。
堀際に近ずくと明確に今も残っています。
この櫓は佐和口門に侵攻する外敵に向け
追い矢つまり背後から射撃する構造です。
▼佐和口に侵攻する外敵の背中を攻撃。
▲いろは松自体は元来佐和口や天守閣を
敵から見透かされないようにする為の
翳「カザシの植え物」だったのでしょう。
 ▲目隠し/遮蔽用
 
佐和口門に入門する前に必ず気を付けたい
横矢は佐和口多門櫓がわざと故意にずらせ
て横矢を二重に設定している用意周到さに
注意しましよう。石垣の下には、犬走りも
観察する事が出来ます。これ見逃したら
城見学ではなく、城旅行と言う事ですね。
▼佐和口に侵攻する外敵に横矢で狙い打ち!
さて馬屋や表御殿の土塁を見学するのも
良いのですが、鐘の丸から降り降り降る
登塀石垣や竪堀も是非とも見学致します。
▲よく鐘の丸の石垣を観察すると「しのぎ積み」
と言う鈍角な石垣技巧が伺えます。中世城郭で
は野洲の小堤山城にも「しのぎ積み」が残って
います。勿論安土城天主台の隅石にも残ります。
▼近江篠原、小堤山城の「しのぎ積み石垣」
 
▼彦根城鐘の丸「竪堀」と「登り石垣」「登り塀の跡」
 
表門枡形横にある一重櫓台の横矢もあり
鉢巻石垣腰巻石垣も是非見学しましょう。
とくに表御殿門枡形に続く橋脚は故意に
斜めに架橋されています。これは表御殿
の土居から横矢を掛ける為と思われます。
橋脚の橋詰の下の橋台の石垣も観察しま
しよう。
鐘之丸は特に堅固に作られており内堀
には横矢の石垣が見事にギザギサ屏風
の様に配置されています。腰巻石垣と
鉢巻石垣と連続横矢を取り入れた見事
な彦根城第一の要害とも言えましょう。
写真に写っている石垣の上にも空堀や
さらに石垣を堅固に構えて二重三重の
要害を構えている様子が理解できます。
鐘之丸南にある屏風折れ状の横矢
鐘之丸南にある横矢と腰巻石垣
 
暫く行くと大手門の橋と大手門口石垣
が見えてきます。橋脚に侵入する外敵
に横矢を掛ける為の堅固な多聞櫓石垣
も橋の向うに左手に見えます。橋の右
にも横矢も含めた石垣も見えます。橋
脚の橋詰の下の橋台の石垣もキッチリ
と観察しましましよう。
大手門の左の多聞櫓石垣の裾には犬走
も見えますし右端には横矢も見えます。
さて大手門枡形の北上には鐘之丸主郭
が聳えて見え、画面左には登り塀石垣
その右に竪堀を観察する事が出来ます。
私が現在歩いている場所は彦根城
の山城部の南裾を歩いています。
さてこの辺で山崎丸三重櫓、天守閣、
そして太鼓丸天秤櫓も仰ぎ見て見学
しましょう。これらの役目が彦根城
の南から見て栄えて見えるという事
はこの城が南、つまり西国「残存豊臣
勢力」に向けて威厳と威嚇を標すよう
な縄張りになっている事を暗示してい
ます。
▼西の丸三重櫓 ★これは天守級の立派な櫓。
▼本丸天守閣 真南から望む天守閣は荘厳です。
▼太鼓丸天秤櫓 ★双頭の櫓が力強く映えてます。
 
さて私は内堀の南から山崎郭の南へ
と至り、山崎丸南の横矢を撮影して
います。この辺民家もあり私有地へ
の踏込は常識として避けて下さい。
 
▼山崎郭南の横矢
さて今度は中堀の南へと進路を変えて
順次、横矢を観察したいと思います。
▼これは横矢折れです。石垣裾の犬走も注文。
▼これは櫓と横矢が右にあります。犬走りも
 緻密な本当に良い仕事しています。
▼これ京橋口門口渡橋を狙う厳しい順横矢です。
▼これは京橋からシャトレーゼさん
方面を撮影したもの横矢があります。
▼はっきりと中堀の隅櫓台が見えて
来ました。このあたりは彦根東高の
東南に該当致します。
▼このあたり聖ヨゼフ幼稚園のあたり
彦根東高校の東側に相当する横矢見事。
▼大分歩きました。再び元の佐和口門
へと戻ります。そして今度は城山の北
の内堀にある石垣の横矢を見学します。
▼表御殿の北にある門跡の石垣を観察
します。あります、あります、微細な
横矢三尺石垣がづれて神経質に横矢を
作っています。見落と▼さないで下さ
い。本当に繊細な良い築城しています。
▼さらに城山の北裾の内堀を歩きます。
黒門口の石垣が見えて来ました。これ
も順横矢と呼ばれる敵の左側面を突く
横矢です。残ってます、残ってます。
現代の黒門口は土橋になっていますが
明治の古写真では架橋になっています。
▼更に内堀を山崎郭に向けて進みます。
あります順横矢です犬走りも見逃さず
▼更に更に山崎郭「西」方向に進みます。
あります。あります。順横矢ですね!
ここも犬走り見逃してほしくないです。
▼更に更に更に山崎郭の西面に到着する
とかってここには三重櫓が存在したと
される場所です。その櫓は長浜城天守
だったとも伝承されます。おきな櫓台
で石垣も堅牢です。木俣土佐守が普段
生活していた、土佐殿郭とも呼ばれて
いました。彦根藩において木俣土佐守
は西の丸三重櫓や山崎丸三重櫓も管理
していましたので木俣土佐は実質大名
級と言えます。
 
▼横矢の掛かる大きな櫓です。いやこれは
もう天守級の堅牢な石垣で固めた櫓台です。
▼今度は珍しく金亀園、玄宮園の方に回り
横矢を撮影してみました。
本日の私の横矢遠足は12813歩でした。
距離は8.9Kmです。おなか空きました。
 
また城見学の御仲間の皆様と会える日が来
る事を楽しみにしてます。その節は宜しく。
 
そして全く出会った事のない新しい御仲間
と楽しく語れる機会がある事も希望します。
 
以上 歴史城郭研究家 長谷川博美
 
さてさて最後にあなたに質問します今回の
記事でどの写真に貴方は興味を感じました?
▼これや
▼これや
▼これや
▼これと言われる人は?
以上写真に興味を感じたら貴方は中世城郭
研究家として近世城郭研究家として超一流
興味を強く感じた城址見学愛好家様も一流
▼安土城八角平
▼観音寺城 伝布施淡路丸
▼佐々木六角方 和田山城
 
それに対して何だ!それくらい
くだらない,些細な事を言うと
思われ反発された人の心の中は
見なくてよい、省略してよいと
言う、倦怠の心が潜んでいます。
世の中に省略して良いと言われ
簡単に軽薄に従う人の多い事か?
 
自動車教習所で本当に良い先生
とは!踏切で、十字路で本当に
安全確認した人を合格とします!
 
この記事を読んで不快に感じる人
は城址を見る人ではなく観光の人
と思います。城址観光も城址見学
も互いを理解し仲良くしましょう!
 
時々中世城郭には絶対微細な横矢
など無いと言い張る人がおられて
その言にハイハイその通りと合点
する人の何と多い事か長谷川自身
が城址を詳細に見る人間ではなく
元々城址は繊細に作られている事
を認識してください。令和はもう
ブラウン管でもハイビジョンでも
ない。それ以上の繊細な画像社会。
 
 
 
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奈良城郭推薦図書の御案内

2022-11-30 17:12:05 | 城郭

奈良城郭推薦図書の御案内

 

奈良県内在住の方々また

日本国内に御在住の城郭

愛好家諸氏各位様に向け

絶好の好著を御紹介しま

す。また書籍推薦します。

書籍 タイトル

『奈良中世城郭事典』

 

出版社

         戎光祥出版

 

編著

   高田徹 氏

   

 


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断然女性有利?幾何学と日本城郭論の新発見!

2022-06-10 07:08:00 | 城郭

断然女性有利?幾何学と日本城郭論の新発見!

◆対談者

下の動画は城郭ブームなので再生回数当然に

多いと絶対確信していたけど全く再生されず。

◆奈良女性

何故私が宇陀松山城長谷川先生のビイスタ

解説に共鳴出来たのか?その裏話しますね!

先ず午前中に宇陀松山城の投稿を読んでも

全く心には響かなかったのね!PCから離れ

て子供が、紙飛行機を床に捨てっぱなしで

私はその紙を平にして新聞ストッカーの方

に捨てて新聞ともに捨てる予定でしたのよ

新聞広告で作られた紙飛行機を見て衝撃を

受けたんです。何と子供が折った紙飛行機

には放射線状に開いた折り目が付いていた!

これだこれだ子供は無意識に幾何学の事を

知らず自然体で紙飛行機を折っている無意

識に放射状幾何学を使ってた事に気づいた!

先生の宇陀松山城ブログが突然理解できた!

これは面白いわ!これ断然楽しい世界な訳!

学芸員も大学教授も誰一人城郭ビイスタ論

を絶対に教えてくれない!これこそ民間学!

結局学問は民衆の為民衆により作られるわ!

本当は官民協同して史跡を研究すべきです!

◆一般様

流石に素晴らしい!紙飛行機から城を悟るか?

 

◆長谷川

そうですね!素晴らしいヒラメキ!気付力です!

ピタゴラスもニュートンもエジソンも気付く人!

折り紙、糸取り、いずれも幾何学作業なのです。

城の経始/縄張をいち早く発見する可能性の人は

城郭博士気取のバリバリの男性城郭愛好家様よ

りも時と場合よって、城郭の幾何学論ビイスタ

論や幾何の折紙を体験した女性の方が有利です。

幾何学の幾何とは何度も重なりあう事を幾何と

と元来言います。女性は古来より編み物や織物

縄文土器作りなど繰り返されるプリントが好き!

織物の折は折り返し交錯するシャトルの動きで

傘もそうなんですよ。放射状の傘の骨が重なり

あうから日本人は傘を「かさ」と言いますよね。

伊吹山の神様をタタミヒコと呼ぶのは畳の様に

幾何学模様が折り返しが繰り返されてる様です

畳「たたみ」は基本的に幾何学的な編み物の事

▼ 弥高寺百坊遺跡のビイスタ構造

 

◆おじさん

ほう!これは面白いね。伊吹の神がタタミヒコか!

▼奈良 宇陀松山城 ビイスタ論

◆京都女性

いやいや長谷川先生!宇陀松山城ビイスタ論本当

に驚愕しました。わたし何度か宇陀に行ってます

まさかね?私あのような解説に接するとは夢にも

思わず青天の霹靂!雷に打たれたような気分です。

 

 

◆反論者

ふん何も感動も驚きもせんわい!そんな論述は

城郭研究の邪道にして異端論者のする事やぞ!

 

◆啓発者
人間社会における男性の特徴は肩書や名誉
や権威や名声や学歴や経歴を物差しに置い
て評価、権威ある有名な先生が言う事なら
絶対間違いないという信仰崇拝は時に危険

 

◆兵庫女性

何故こんなにも城郭ビイスタ論を素直に受け入

る柔軟な頭脳の持ち主と極端な否定論者が出る?

 

◆長谷川

これは簡単な事です。日本人は箸を使って食事

するマナー様式が定着しフォークとナイフには

苦手な傾向にある。ドイツのノコギリは押す事

が常識で日本のノコギリは引く事が常識です。

城を最初に学んだ時にビイスタ論を学ばなかっ

た人は当然学ばなかった事が常識で正論です。

人は一度学習した記憶や固定概念が固定する。

そこを人間観察社会学学的に冷静に観察する。

要するに人間は初めて学んだ事が親で見本だ。

 

▼小谷城 中の丸 京極丸 小丸 山王丸ビイスタ工法

◆長浜市民

小谷城まさか城郭ビイスタで設計されてた事は

市内では一度も聞いた事も解説も受けてない!

長谷川先生の城郭ビイスタ論が如何に凄いか?

また長浜城内のビイスタ論解説にも驚き納得!

◆高島市民

大溝城がビイスタ理論で出来てるなんて本当に驚き!

◆米原市民

まさか上平寺城苅安尾城にビイスタ工法あるとは!

夢に思わなかった一度も考えた事もなかったがな!

▼上平寺城苅安尾城

◆福井市民

福井城に城郭ビイスタがある事に本当驚きました!

◆福井県民 丸岡城が元来ビイスタ工法って全然しらなかった。

▼長谷川 安土城 城郭ビイスタ掛腺 挿入

◆直言家

正真正銘本物の城郭研究家ならば安土城の図

を一目見て扇型と看破し解説するだけの力量

なくばこれ完全に素人で偽物の城郭研究家だ。

城の基本的や学者の資質に社会が気付くべき!

 

◆長谷川

過激な舌禍は厳に控えて紳士的にお願いします。

明治以来城郭ビイスタ「扇の矩」を学会が顧み

る事を停止し城郭研究は文字を中心とする文系

学問の世界、文学部史学科の世界で語られる事

になり城郭ビイスタ論や規矩術は埋没しました。

図書館は図と書だから根本的に図を先ず見る事。

 

◆長谷川

幕末ので吉田松陰から佐久間象山への書簡には

日本の城には規矩が備わっていたと書いてます。

規矩「きく」は幾何学の事で繰り返される図形

の事。幕末まで城郭は幾何学を旨とし重んじた。

 

◆反論者

解らんな!全然頭に入って来ない。興味ない。

第一俺は50年城に生き続け5000城も見てる?

さあさあ全国のみなさん!私を崇敬しなさい!

 

◆対談者

ウチの犬も100回城に行ったけど縄張の事は知

らないんですよ。元気に楽しく走ってました。

 

◆一般主婦

私は子供の頃、糸取り、綾取りで遊んだから

長谷川先生の安土城ビイスタ論は一発で了解!

 

◆長谷川

築城の事を「城取り」と言い経始と言う。

そうです!貴方は糸取りをしていたから

あの天下の織田信長の居城、安土城の構図

安土城扇型ビイスタ工法を瞬時理解した!

信長、長秀、秀吉と同列で安土城を見た!

 

◆長谷川
城郭研究の歴史は男性を中心に推移して

城郭=イコール男性高齢者を中心とする

同好会が多い傾向にあるとも言えます。

 

◆民俗学や民俗学から見た「あや取り」

ブリタニカ第2百科事典を検索すると
「あや取り」を以下の如く解説してい
て興味深い!

「遊戯の一つ。1人がひもを結んで輪にし,
両手首にかけ,指でさばいて形を作る。これ
を他の1人が,指で別の形に変えながら自分
の手に移す。これを繰り返し,琴(こと),
鼓(つづみ),川などいろいろ形を変えて遊ぶ
。京阪地方では〈糸取り〉とも呼ぶ。古くか
ら世界各地に見られ,文化人類学や
位相幾何学の一分野として研究されている。

とある。



◆関東人

いやあ~大庭城の城郭ビイスタ感動したよ!

竪に横に城郭ってこんなふうに縄張たんだね!

◆関東人

いやいや全国に比類なき関東の名城武蔵杉山城

にも立派なビイスタ工法が用意周到に存在する。

ヤッパ!城郭ビイスタ論とは戦前戦後を通して

日本最高峰の城郭理論じやねいのかよ!だって

武蔵杉山城って関東一いや日本才最高峰級の城

だぜ!この城全国区でもよく知られた事なんだ!

その難解な杉山を城郭ビイスタ論で解説する

つうなんざ並みの研究家じや出来る事じやない!

▼武蔵杉山城 中央型ビイスタ 放射ビイスタ

▼武蔵杉山城 扇型ビイスタ工法



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小谷城下の都市計画ビイスタ論

2022-05-21 06:51:15 | 城郭

小谷城下の都市計画ビイスタ論

そして甲津畑「東近江市」新城

 

◆対談者

この投稿最後まで読みましようね!

 

 

◆対談者

長谷川先生の提唱されている城郭ビイスタ論

日本城郭研究史において日本の城や城下を語

る上においても凄く重要な事だと最近痛感し

ています。特に近江守護職佐々木六角氏居城

観音寺城に壮大なビイスタ構造が存在した事

を知り衝撃を受けました。布施淡路丸なども

ちやんとビイスタ工法の様式で作られている。

 

◆対談者

また観音寺城下の石寺など都市計画ランド

スケープ論として非常に秀逸に感じました。

多数の城知識も大切ですが歴史城郭構造を

大観できる大きな視点を供えておられます。

◆対談者

浅井と六角に関してウイッキペディアを引用します

野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年

1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県

彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の

戦国大名浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角

承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、

浅井家の北近江における覇権が確立した。」とあり

北近江の小谷城を根拠とする浅井氏の城郭や城下

にもビイスタ工法が存在したのか御教示ください!

◆長谷川

近江浅井氏の本拠小谷城の大嶽城には見事に

ビイスタ工法を応用した堅固な山城群が存在

致します真に幾何学放射状縄張ビイスタ工法

の典型とさえ言える見事な幾何学の城です!

 

◆一般者

こんな事は誰も教えて呉れないこん

な事は初めて聞き驚いております。

 

◆対談者

始めて聞くとはどんな意味かしら?こんな事

ぐらい学者、城郭研究科なら気付いて当然!

 

◆対談者

さて

永禄13年/元亀元年(1570)
6月21日『信長公記』には


小谷城の「町を焼き払う」

と記録されていますがこの

町屋つまり小谷城の城下町

には都市計画やビイスタ論

が適応出来得るのですか?

 

「たけくらべに一両日御逗留なされ、

六月廿一日、浅井居城大谷(小谷)

へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、

斎藤新五、市橋九郎衛門、佐藤六

左衛門、塚本小大膳、不破河内、

丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り、

 

町を焼払ふ。

 

信長公は諸勢を召列れられ、虎御

前山へ御上がりなされ、一夜御陣を

居ゑさせられ、柴田修理、佐久間右

衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、

丹羽五郎左衛門、江州衆、仰付けられ、

在々所々谷々迄放火候なり」

と『信長公記』に明記されています。

 

◆長谷川

当時の小谷城下の様子は下図のような

城郭関連地名小字名称が残り凡そ小谷

城下がしのばれます。参照して下さい。

 

◆対談者

ダメ!駄目!ダメ!の参列発のダメ出しです!

長谷川さん寝ぼけた戯言を言わないで下さい!

質問は凡庸な知識より前進した具体的幾何学論

で小谷城の城下町には都市計画やビイスタ論が

存在し適応するか?です!ビイスタ工法が存在

したかと質問してる訳ですよ!本町などの地名

だけの文字づらを追う事などは図書館に行けば

誰でも朝飯前に調べられる事?それ新聞の受け

売りと同じ「人から聞いた」事の次元の問題!

 

本物の研究家とは

 

①新しい城を発見する能力を持っている。

 新城を発見出来る歴史地理能力を持つ!

 

②新しい城郭構造論ビイスタ工法を発見。

 新規理論を発見!新研究論を推進する!

 

この2点だと私は常に思っているのです。

もう既に解っている城の縄張図を描いて

も先人の論文を踏襲してもそれ所詮は研

究ではない「物まね」コピー模倣の世界!

長谷川さんは常に新しい城を発見する人。

長谷川さんは常に新しい理論を模索する。

これ学者や研究家の本質真髄を備えてる

事に何故?世間や社会は気付かないの?

小谷城下のビイスタ論を考察して下さい!

 

◆長谷川

そんな難解な事は私ごときが解明できま

せん!私の取柄は引っ込み試案の素朴人!

第一条里制度で言う浅井郡と伊香郡条里

による圃場区画も境目に相当する位置で

特に小谷城下の都市計画論ビイスタ論を

軽々に述べる事は学者として慎むべき事。

 

◆対談者

「喝」です!しつかりせい!天下の安土城

ビイスタ理論を述べた長谷川先生でしょう?

希代の城郭研究家がここで尻込みして何と

します?そもそも男子として生を受けて城に

足を踏み込んだ以上は千里の苦難を走破して

汗血馬の如く、龍馬の如く飛翔するのが男児

たる人の本懐です!難題に挑戦し新発見する

事こそ男児の本懐!城郭道の真骨頂骨です!

 

▼長崎出島ビイスタ論 だれが見てもビイスタ工法は一目瞭然!

▼近江小谷城 城下の小字名称

◆長谷川

確かに小字地名は貴重な城郭関連地名ですが

日本の五大戦国山城と呼ばれる小谷城下都市

計画はアバウト出来合いの無計画性都市景観

と言えないでしょう。天正3年まで羽柴秀吉

は小谷に在城した事は文献『信長公記』にも

明確に記録されています。小谷城下都市計画

町割りは自然地形に制約されながらも浅井氏

は素晴らしい城下経営のビジョン展望計画を

ビイスタ工法を用いて都市計画を営んだ事と

私は考えています。谷間は自然地形なが街区

を形成する明治期の地図を参照に小谷城下の

都市計画「ビイスタ工法」を検討してみます。

◆一般様

これはズバリ素晴らしい小谷城下ビイスタ工法!

北陸と東海を結ぶ北国道の隘路に堂々たる町屋に

戦国城下町をビイスタ工法を用いて城下経営した。

余呉城郭研究会!すげえ!流石に研究会は斬新だ。

◆長谷川

現代地名で言いますと清水谷を主軸とする

中央に★正中線があり当然清水谷の入り口を

防御する水堀跡が過去には存在しました。

郡上を中心とするビイスタ工法や現代小谷

寺方面へのビイスタ工法も読み取れますね。

小谷城下は用意周到に計画された都市計画

が施工されたのでしょう。更に検討します。

★正中線「構造物や建築物を構成する中心線」

◆みんな

長谷川先生は既存の城下の解説も斬新ながら

本当に城郭を研究しておられるから新城をも

発見される例が多いのです。その城は50年後

には城郭見学の場所に取り入りられている事

かと思います。しかし人間の生命に限りあり

学問の発展進捗には常に感情的反論を唱える

類例は人間社会には常に存在すると言えます。

 

◆長谷川

元亀元年(1570年)の

『信長公記』には次の様な記録があります。

「千種峠にて鉄砲打ち申すの事


五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城

へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止む

べきてだて仕り候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔、

布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(奔走)申し、

千種越えにて御下りなされ候。左候のところ、

杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎にたのまれ

、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、つれなく、十二、三間

隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。され

ども、天道昭覧にて、御身に少しづつ打ちかすり

、鰐の口を御のがれ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。」

とあります。

 

◆質問者

長谷川先生と東近江市の速水氏の

甲津畑の城を見学したいと思って

おります。

 

◆反論者

知ってるよ!それ永源寺町の人々なら

誰でも知っている城山の事でしよう?

 

◆対談者

ちょつと待ってください!既存の図書や

既存の観光案内に従って城址を探訪する

事は「カタログ型/目録型」の城郭行動

規範に従属する形骸論とも言えますよ。

甲津畑と速水氏は長い歴史履歴がある。

 

◆長谷川

そうなんです。甲津畑は長い歴史伝統

が残り歴代速水氏は甲津畑の時代に合わ

わせた要所に城郭を構えて変遷してきた

可能性があります。江戸時代の柳生陣屋

の裏山には中世の山城柳生城があるよう

にね、元亀の争乱の折に、織田信長は

岐阜への帰路を佐々木六角と浅井氏に

阻止され、布施氏や速水氏の先導にて

無事岐阜へと帰還しています。信長が

着目する近江の武将は非凡な築城能力

を持ち合わせていたと私は考えてます。

従って従来の城山だけでは速水氏築城

術を知る事は出来ません。信長は武将

の持つ人材を看破洞察して登用する事

関し優れた人傑にして、甲津畑の城山

だけ見て速水氏の能力は評価出来ない。

 

◆反論者

ふん!もう甲津畑には特異な構造を持つ

山城なんぞは絶対無いに決まってます!

 

◆みんな

何故決めつけるの?確認してから無いと

と答えなさいよ!それが常道で誠意的と

言うものでしょう?否定の言葉なら誰で

も出来るわ!新しく城塞を発見する事の

法が100倍も難しく困難を伴う事でしょ?

 

◆長谷川

私の城郭の先生は現地の城郭です先生

は辛辣なほどに厳しくお前には甲津畑

の隠し城など到底読み取る事は不可能

だと新しい城郭遺跡を発見してこそ本

物の歴史地理を知る城郭の研究者だと

甲津畑の地形地理や交通史も含めて厳

しく城郭自体が私に問い掛けて来ます。

 

◆反論者

ふん!長谷川ごときが甲津畑に新城

を発見したら仰天するわ!しかし俺

俺は学問よりか員数の論理と人間の

多い所に集合する!それが俗世の人

間の本心と言うもので学問など無用!

 

◆みんな

本物の城郭の先生に本物の城郭遺跡

を見学解説して欲しい!どんな著名

な城に関する人が御当地に来られて

城郭遺跡を確実に調査し捉える事が

できる質実伴う先生の解説が欲しい!

 

◆田畑氏

ふふふふ本物に近道なし!ありえない

所に要害や砦を構えて敵を迎撃する事

は兵法の常だふふふふ近頃、フエーク

ニユースや、偽情報が町じう蔓延して

偽物が大流行する日本城郭ブームです。

▼イラストに南と表記された矢倉基壇の跡

▼イラストに西と書かれた部分の斜向する土塁

▲土塁が輪を描くように普請されてる。

文字どおり曲輪「くるわ」が存在する。

 

◆長谷川

甲津原某所に所在する新発見の城は

主郭部の全長が東西30間54.9mです。

土塁は主郭の南西北部にうねる様に

設定されています。その土塁の外郭

の強烈な竪堀群が残存しておりこの

城は西に防御を置いた非常に異形な

形態を示す城郭遺跡と言えましょう。

全国的視野から見れば連続竪堀群の

城と簡単に評価されるような全国区

的な観点からは評価されるべき城郭

で主郭中心部から放射状に連続竪堀

群を縄張りしてる事が読み取れます。

ディフエンス「防御正面」は西に設定

されていますがスゴイ砦の跡ですね!

◆探訪家

長谷川先生この砦の存在する場所を教えて

下さいよ!行きたくてウズウスしますよ!

 

◆長谷川

自分で城郭を探せるだけの力量歴史地理力

自ら身に着けてください!城の先生は城な

ので城と言う先生は丁寧に親切に城のある

場所を城を勉強しようとする場所へと人を

導いてくれます。城郭目録や城郭観光に載

っている「目録見学者」や「カタログ見学」

の方は既知の城を見学される人で私は城郭

分布調査員だったので分布図に矛盾があれ

ば欠落した部分を調査に行ってるだけの事

野球で言うと、一塁と三塁の図面があれば

「二塁」に相当する砦を調査に行くだけの

単純な事です。極めて素朴な事なのですよ。

 

◆対談者

貴方の崇拝する城郭の先生は何故?自ら

城郭を新発見されない訳よ?長谷川先生

と山に行くと何故この山に行かれます?

と質問すれば「城がある場所の地理地形

や交通史」勘案すると、ここに城郭があ

るから城郭を調査に行きますと言わます。

 

◆みんな

チョツト待て!野球の監督は二塁がある

事など当然知ってる訳!城で言うならば

2塁を「新砦」発見できない人とは?

もしかしら野球も城郭も知らない人?

 

◆長谷川

嫌味を言う事は紳士的城郭道そして

学問の「道」を探す事に反します!

社会とは官民仲良くよりよい学問

を進捗させて行く事が城郭道です。

コメント (2)
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浅井郡 長浜市 小谷城と架橋の可能性

2022-05-05 14:42:24 | 城郭
浅井郡 長浜市 小谷城と架橋の可能性
 
◆対談者
日本中の人々が余呉城郭研究会の城郭
ビイスタ動画を多数支持しておられる。
 
 
城郭ビイスタ論 上文字クリック
 
浅井郡の小谷城の事について書きます。
 
驚き。小谷城の深淵。東洋の楼閣の系譜
 
◆長谷川
この記事は純粋な城址見学者の初心者様
と長く城郭の本質と研究を知りたいと願
う人には有意義な内容かと思っています。
 
例えば家を訪問する場合の礼儀として玄
関から入りましょうと、基本を教えられ
ても何年たっても廊下や裏口から入る人
に何千回玄関から入りましょうと教えて
も是に従わない人も居られます。城址に
おいても虎口や城門跡を認識して城址に
入りましょうと何千回となえても虎口も
知らずに城址を縦横に歩かれる人が多い
のです。城址に対する思いやアプローチ
は千差万別ありこれが正解だと断言出来
ませんが家庭訪問する場合玄関から家に
入られる素朴で初心を忘れない人に対し
敬意と尊敬の念を、私は常に抱きます。
 
◆対話者
でも古城に行っても私達は何処が門の
跡なのか、虎口なのか、全く解らない
のです。長谷川先生から教示を受けた
数少ない数人だけが城跡の虎口を認識
出来るようになった訳ですよ!もしも
長谷川先生に出会わねば何千城も廻っ
ていても城址見学として完全失敗です!
それは家庭訪問の時は玄関から入る事
を習わずに何十年も塀から庭から入い
る「くせ」がついても気付かない事と
同じだと思います。家庭訪問の常識!
 
◆長谷川
 そうなんですか?そうでしょうか?
 
◆質問者
 彦根城の構成は
①(鐘之丸)ー(廊下橋)ー(天秤櫓)
となっています。
② 彦根城の鐘之丸は佐和山城から彦
根城に移城するとき一番に最初に作ら
れた彦根城の山城部の御殿の郭です。
 
★小谷城の伝鐘之丸「本丸」と伝中之
丸にも橋があったのではないでしょう?
 
◆長谷川
 ユニークな指摘ですね!彦根城鐘之丸
は我々城郭研究家から見ると城内で最高
の縄張りの築城技巧を見る事ができます。
またこの鐘之丸の縄張りは戦国武田遺臣
の早川氏が平素から鐘之丸を三国無双の
要害と日頃自慢していた防御を二重三重
に施した秀逸な縄張の城です。あなたの
指摘は小谷の鐘之丸と彦根の鐘の丸の比
較連想から出たもの思われますが素晴ら
しい発想と着眼であると、私は思います。
戦国乱世の時、浅井氏と武田氏は互いに
書状を交換し使者を立て連絡し合ってい
た事は知られています。浅井と武田は軍
事的技術にも交流があったかもしれませ
んね?たしか雨宮存徹と言う武田の使者
だったかもしれません?また小谷城前衛
を守る伝「御馬屋敷」も半円形に巨大な
土塁を引き回した東国とはまた別の意味
の馬出曲輪だったかも、しれませんね?
そう言う意味では彦根城の鐘の丸自体も
表御殿「北」と大手門「南」に降り降る
構造になっており一種の馬だし曲輪馬出
とも考えられます。
 
◆質問者
 長谷川先生?先生の復元図には小谷城
の中之丸の土塁にパックリと鐘之丸への
虎口が開いています。
 
◆長谷川
それは前から私も疑問を持ち不思議に思
っています。本丸建物跡の真壁の跡もこ
の橋に向けた痕跡がかすかにあります。
貴方の指摘の様に架橋がされていた時代
もあったのかもしれません?貴方の城址
観察力の素晴らしさに驚きます。たしか
に私の小谷城図の中之丸土塁はパックリ
と土塁に虎口の跡がある。西洋諸国では
国家の国賓が見えた時にすかさずレッド
カーペットを敷設する、人間の貴人にた
いする敬意の形は「橋」や「道」に潜在
していると思います。つまり足元にある。
 ↓廊下橋を推定復元する。
 
◆質問者
 私はこの様に武田流の山城廊下橋が小谷
城の「伝鐘之丸」に存在したのだと推測す
るんです!私は何も知らない初心者です。
いっまでも良い初心者として心掛けを忘れ
たくはありません。
 
◆長谷川
世阿弥の心境「老いてなお初心忘るるべ
からず」ですね。ここで私が貴方の見解
を高飛車に否定すれば、城址見学に臨む
人々の、考える力を萎縮させ否定する事に
なり貴方の考えには傾聴致します。
人間とはお押し着せと反発する心を持つ人
よりも、素直な初心に帰る謙虚さがとても
大事な時があります。今一度考え直す事も
 
◆長谷川
 信長の安土城や浅井の小谷城が現れる前
にも日本国王と、号した足利義満の北山第
には金閣と言う楼閣と天鏡閣と言う楼閣を
廊下橋で結節する様式が既に登場してます。
◆質問者
 私は城郭フオーラムや『城歩会』では
素直な心を持ち城址を観察される謙虚な人
の気持ちを長谷川先生は大切にされている
と信んじています。
 
◆長谷川
 ありがとうございます。城址見学に真剣
になればなるほど、時として、押し着せと
誤解されて大切な初心者様の純心な心を知
らない間に傷つけてしまう事もあり、深く
反省しています。また依然として城郭遺跡
見学の学習と城址探訪の観光の二つの大き
な目的や趣旨の違いを一般社会に理解して
もらう事の困難さを痛感し、長年にわたり
私は深く悩んでおります。私の支持者様は
全くこの世には存在しない私は人気ゼロ!
 
おそらくこの記事を読みすごく興味が湧く
人は、城址大好き人間さんではなく初心者
様であると確信しております。何故ならば
私も初心者であり、私に城を教えてくれた
のは城址自身なんです。本当の城の先生と
は城郭遺跡そのものが一番偉大な先生だと
私は常に思います。先生から目を離さい事
城址が先生ですから、城址を見る事、観察
する人が一名さまで増える事を祈ります。
 
◆質問者
 先生!正確な第一文献級資料『信長公記』
も私は長谷川先生から学び、浅井備前守長政
最期の様子も読みました。もし小谷城の本丸
こと「伝鐘之丸」に仮に織田浅井の戦闘の
最中に橋が存在していたと仮定したら、小谷
城本丸「伝鐘之丸」には橋から織田軍が侵入
して浅井長政は本丸で最期の自害を遂げられ
ません!つまり長政は本丸で耐えられず他の
屋鋪に移るしかなかった事でしょう?
 
◆長谷川
貴方はおそらく浅井長政の最期の場所が本丸
でなく赤尾美作屋敷であった事を指摘したい
のでしょう?貴方も謙虚な初心者、講師の私
も謙虚な初心者です。さあさあ歴史の現場!
小谷城址へと向かいましよう。そこにはきっ
と何か現実や証拠や真実が残っている事でし
ょう!
◆質問者 
 先生2018/11/17この痕跡をウッデイパル
城郭フオーラムでこの現地解説してください!
長谷川
資料 城郭関係資 A4全10ページ
2018/11/17 土曜日
場所 JR北陸線河毛駅東口(無料駐車場あり)
送迎バス 城址まで送迎バスあり。
講師 長谷川博美 会長 田畑喜久弘氏は
(救援救難担当スタッフ)、
資料 城郭関係資 A4全10ページ
特徴 城址までの送迎バス。御弁当。講師と
サポターさん 参加費3000円用意 各自雨具、
水筒飲料、歩きやすい靴と服装で願い致します。
 
▼当日参加された初心と深淵を求める同志の皆様
▲何度も小谷城を見学された方が多数なの
に何故今一度長谷川と小谷城を見学したい
と思われたのか?私には全く解らないです。
 
2019/10/8 追加記事
 
先ずこの記事を読む前に非常に大切な日本史
歴史の中に通相概念があります。それは神社
に於いても「神渡り」「渡御/とぎよ」など
の言葉に貴人が何かを渡る習慣が記されてい
ます。先ず「殿のお渡り」などの言葉が登場
する事です。身分の高い人が橋などを渡り
移動し出御する習慣です。
 
『信長公記』でも信長が正式に天主に移り住む
件を以下の様に表現しています。天正10年の
記述に
 
五月三日、信長公、御下り、路次は山中より坂本
へ、御小性計り召し列れられ、御舟にて直ちに
安土御帰城。
 
五月十一日、吉日に付きて、信長、御天主へ御移徒。
 
中世の貴族社会では引越しを移徙(いし∥わたまし)
と呼んだ事だ。この言葉は昔日の古典『平家物語』
にも 源義経の登場を わたらせます と表現して
いる。事である。
 
小谷城本丸に仮に架橋されていたとして一体どこの
偉い殿様が本丸「鐘の丸」に わたらせます ので
あろうか?それは浅井氏より中世の貴族武士階層の
上である北近江守護職の京極氏が京極丸より橋を
渡り出仰されるつまり御屋方様「守護職」は京極
氏と言う事になるのではないだろうか?浅井は実質
江北の守護代の役割を担った武家と私は考える京極
の下と言う解釈が室町幕府にあったかもしれません?
◆長谷川
城郭ビイスタ論の見地から延べれば
貴方が言われる架橋のポイントから
中之丸、京極丸、小丸、山王丸をも
ふくむ城郭設計基本構想城郭ビイスタ
工法が存在した可能性もあると思う。
 
◆みんな
このビイスタ画像全く鳥肌立ちます!
小谷城がこんな風に設計されてる事
なんて日本の解説書にだれも書いて
ないでもこの赤色写真のビイスタ工
法線を見たら雷に打たれた如き衝撃
が走る!日本の城郭縄張水準驚異的!
 
◆特別質問?
『天文三年浅井備前守宿所饗応記』の殿中での
浅井亮政の席次を見ると決して上位の階級でない
様に思われますが?
長谷川
浅井三代の初期段階ですから亮政の席次は当時
として未だ大名級ではなく中堅に着席してます。
また座席の中央には正中線がありますね!
 
 
★中国陶器より学ぶ城郭及び楼閣論
対話者
 以前行った継体天皇の陵墓とも推定される高槻の
今城塚古墳の復元埴輪には宮門や先導する巫女や武
人埴輪が並べてありましたね?あれに似た物は中国
にありますか?巻向弥生遺跡の神殿の様な形式が?
対話者
 わたしこの写真見て長谷川先生に学んだ正中線
がわかります。中央の目に見えない線があります。
一般者
 わからんね!そんな正中線なんて生まれて一度も
聞いた事ないよ!ふんそんもん知るか私は知らん!
対話者
 神社に行くとき鳥居の中央は神様が通る道だから
神職も氏子も決して中央の正中線は日本古来の常識
として通りません!それは日本の文化の常識です!
対話者
 この正中線が理解できるようになってから俄然!
遺跡見学が城址見学が非常に楽しくなって来ました。
長谷川
話を戻します。埴輪の行列とは?
高槻 今城塚古墳( いましろづかこふん)古墳の事
ですね?これどうです?外門があり従者が正中線を
さけて左右に並び邸宅は院房形式になっており前門、
中門、内門、主殿に分け表現されています。たいへん
楽しい陶器です。
長谷川
そうそう簡単な正中線は安土城にも纏向古代宮殿
遺跡にも、存在する事を気付く事が城址を遺跡を
見学する人の、心を養う事が大切かと思いますね!
▼肥前名古屋城 城郭ビイスタ
▼近江 安土城 城郭ビイスタ
▼纏向宮殿 宮殿ビイスタ配置
 
◆長谷川
 そうそう岐阜の大野町の古墳もそうでしたけっけね?▲
◆一般者
もしかして?長谷川先生ってスゴイ人じやないの?
 
◆対話者
 長谷川先生のブログの安土のセミナリオ解釈論は
非常に斬新で驚きました。目が覚める思いでした。
 
◆長谷川
 そうでしたか?ありがとうございます。僕は平凡
◆対話者
日本の城郭や楼閣の起源やルーツは何処にあると
思いますか?
◆長谷川
漢字のルーツや起源は中国の古代象形文字が起源
です城郭も同じではないのでしょうか?
◆対話者
小谷城の柳の馬場や飛鳥宮のエビノコ郭の様な
副郭も中国には有りますか?
◆長谷川
 上図は近江小谷城の千畳敷大広間や本丸「鐘の丸」
の私の図です。黒金門や殿舎が壮麗に配置され本丸
には礎石を用いた楼閣がその礎石から推定されます。
◆対話者
中国の陶器にも前門の側面に腰郭や側面郭と思しき
ものがあります。側室と言う言葉の起源も連想する
 
◆長谷川
同時に中門の左右を監視する三重の見張り櫓や後方
の主殿にも注目。小谷城の黒金門の左右の櫓台にも
陶器と比較し注目しておいて下さい。もっとも中国
では兵馬俑に代表される「俑」よう、と呼んでます。
 
◆対話者
以前現地見学学習に行きました。玄蕃尾城の東にも
側面郭があった?彦根城の天秤櫓も門の左右に櫓が
設定されています。これ羽柴秀吉の長浜城から移設
されたとか?また長浜城は小谷城から移設されたと
聞いておりますが?
 
◆長谷川
さてどうなんでしょうか?真実は私には解りません。
正門の左右を守衛する楼閣は京都宇治の平等院鳳凰
堂や奥州の藤原氏の毛通寺などに影響を与えている
と思います。もっともその起源は東洋史学的見地か
ら見ると、やはり、中国起源の城郭や楼閣の流れを
くむと、私は思います。また足利義満の北山弟には
金閣と天鏡閣と言う華麗な楼閣を結節する橋、があ
ったとされます。
 
◆長谷川
陣城の場合は横郭や脇備えに相当するのではないでし
ょうか?
 
◆対話者
 それにしても中国の陶器には正門とは別の脇門や
裏門が見えて楽しい。京極丸の並び虎口や高土塁の
東の腰郭本丸東の赤尾郭をも連想します。そして
京極丸西北下段の枡形虎口も思いだします。
 
◆対話者
信長の安土城には天主と殿舎を結ぶ空中回廊が存在
したと言う人も居る。また岐阜城の空中回廊も余り
にも私には突飛な発想だと思うのですか?
 
◆長谷川
織田信長なる人は現代で言うならば、日本史専攻の
学生でなく広く東洋史学の文化文物に広範に智識を
持っていた有識者でスケールの大きな人物でしょう。
 
◆長谷川
秀吉の大坂城の極楽橋や竹生島舟廊下橋を思い浮か
べて連想して下さい。また柴田勝家の北庄城には
『柴田退治記』には天主と小天守を廊下で結んだ
記録があります。『吉田兼見卿記』と言う文献資料
にも明智光秀の坂本城には天主と小天主があり兼見
と光秀は小天守で食事をしていますよ。それにごく
身近にある名古屋城も小天守に一度入ってから回廊
状の橋を通り大天守へと至る経路を持っています。
もしかしたら大小天守を経由する伝統は中国起源か
もしれませんね?柴田の居城北之庄城の九重の天守
を記した秀吉の書簡も柴田の陣城、玄蕃尾城から推
測すると巨大で石の扉を用いた堅固な楼閣であった
可能性があります。
◆対話者
そんな事言われましても大天守と小天守を廊下で連結
する奇妙な発想が私には理解できないんです。たしか
に犬上郡の男鬼城の本丸には先生が言われる様に大櫓
と小櫓が土塁で連結されている様子を私は観察しまし
たが大天守と小天守を廊下で連結する奇妙な発想自体
が納得できないし。
 
◆長谷川
米子城は二基の天守が存在した事で至極有名ですが?
さて
 大小の楼閣を土塁連結する事自体、男鬼城が北近江
守護職京極氏に関係ある城郭遺跡である可能性を秘め
ているかも知れませんね?「微笑」
◆対話者
あのう~私は男鬼城の大櫓跡や大櫓に登るための石の
階段もちやんと見ました別の櫓台もちゃんと覚えてる
 
◆長谷川
ちやんと真剣勝負で見学している人はその遺構を認識
して覚えているものです!見る気があるか?無いか?
 
◆対話者
長谷川先生!玄蕃尾城は5間四方の天守台の跡があり
ました。しかし天守北の土塁には虎口の痕跡がある。
◆長谷川
よく丁寧に観察しておられますね!天守礎石は現地に
残っていますが現実に楼閣が存在したのか?正方形の
櫓台ですので建物は寺院の様な宝形つくりの形式かも
しれません?またその虎口の外に橋があったとすると
想定するとこの様な形になるかもしれません?
◆長谷川
 ちなみに名古屋城には、もう一カ所「小天守」を
連結させる計画があったのですが中止になってます
◆一般者
私は全くその発想や話についていけません解らない!
 
◆長谷川
そうでしょうか?日本の城郭の中心部に大小の天守が
存在する事がそんなに違和感がありますか?佐和山城
も何度も城主が変わってます様々な様式の天守が存在
した可能性は全く無いのでしょうか?佐和山にはコビ
キAとコビキBの二種の瓦が採取されていますから!
少なくとも二種類の天守が存在した可能性はゼロでは
無いと思います。
◆対話者
 さあどうした物か?私には全く想像が出来ませんね!
 
◆長谷川
この中国の陶器なんかどうですか?
中国東洋に於いては極めて普通です。
この写真は中国河南省鄭州博物館で
売られていた書籍に掲載されたもの。
◆対話者
 すごいです!天主に相当する楼閣には複数の欄干や正門
を守る左右の櫓も観察できます。しかし小天主に相当する
建物に空中架橋する事には驚く。
 
◆長谷川
 それだけでありません。小天守に相当する建物には二重
の石落しつまり日本の城郭で言う南蛮造りの様な特殊な
構造になっており、しかも小天主台には楼閣基底部に塀を回
 
して石落しをより有効にならしめる工夫がある。
◆対話者
 そこまで見るんですね?長谷川先生は?
 
◆長谷川
そりやそうよ!中国の楼閣は各階安土城の様に壁が着色され
たものや7層の楼閣もある。
◆対話者
すばらやしい!でもね我が国の古代の唐子、鉤遺跡の様な
井楼は中国に無い!
◆長谷川
あったらどうしますか!?
中国は漢字の親元。城郭の親元であり。
文化のルーツだと私は思いますが。
 
◆対話者
ありやまあ!あっけない!井戸と井楼と亀はつきもの。
彦根城は井伊さんの金亀城だし。彦根城天守の守護神
だった亀の置物は、竹生嶋の宝物館にありましたね?
 
◆長谷川
だって織田信長は安土城を築くにあたって(1576年築城、
天守閣の完成は1579年)その瓦の製作を明(みん/現在
の中国)の人、一観(いっかん)に命じてますよね?
焼き上げた軒瓦の前面には蒔絵の技術を応用して金箔が
貼られて現実に出土してます。
 
◆対話者
小谷城の貯水槽から亀のモチーフをした10㎝の銅鏡が
出土しましたね?中国
にも亀をモチーフにした銅鏡が
あるのでしょうか?
 
◆長谷川
小谷城の銅鏡の亀は明瞭でありませんが、中国には
月宮鏡と言う形式があります。
◆対話者
長谷川先生?もしかしたら滋賀県内の明智の事もっと
知ってるんじやないですか?
 
◆長谷川
さあ~どうでしょうかねえ?
 

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