城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

近江 金太郎ロード彷徨 1

2019-07-27 10:09:10 | 旅行
近江 金太郎ロード彷徨 1

 私が長浜農高校軽音楽部の演奏を聞いて感激したのたのは「西黒田まちづくりセンター」で
ある事を思い出した。ここは長浜市常喜町に相当すると思われるのだが?

 何気なく訪れた町であったが金太郎伝説と長閑な田園が風景が続く景観に心癒される。
滋賀県長浜市本庄町 芦柄神社の社殿も荘厳な雰囲気で興味ふかいものがあった。

 それにしても金太郎伝説が旧西黒田村には多いように今更ながら多い様に思う。
金太郎ロードと名付けても過言ではないだろう?


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伊香人の魂!中臣の魂!余呉湖を眼下に見下ろす古墳群

2019-05-30 09:49:09 | 旅行
伊香人の魂!中臣の魂!余呉湖を眼下に見下ろす古墳群  付録も読んで下さい。飯喰山古墳群です。

長谷川
 突然「オミシル」と言う古代人の人名を思い出しました。「オミシル」ってだれだっけ?
何度考えても思い出せませんでした。私は現在城郭講師として仕事は全くがありません。
歴史講演を依頼される事も全くありません。仕方なく落胆して『新撰姓氏錄』なる書物を
虚ろな気分で読んでおりました。この書物は平安時代初期の815年(弘仁6年)嵯峨天皇の
命により編纂された古代氏族名鑑です。左京神別上を読んでおりましたら伊香連が登場し
まして興味を抱きました。次のページを開くと何と探していた「オミシル」が登場します。

臣知人命と確かに書いてある。「オミシルヒトの命」私の記憶している「オミシル」です。

私は更に驚きました。しかし城郭講師の仕事も歴史講師の仕事も全くない虚脱状態の今の私には
「オミシル」に対して興味が更に湧いては来ません。虚な目をして放心状態で『延喜式神名帳』の

近江国伊香郡を読んでいるとなんと!伊香郡には、延喜式内社が46社もある。一郡の式内社が
多い事例として全国で三番目に多い事など伊香郡に住んでいる人なら誰でも知ってます。また私の
卒業した國學院大學や国史に詳しい人ならば誰でも知っている事案です。しかし私は「オミシル」
に拘っていて延喜式内社の乎彌神社「オミ神社」の名称がある事を喜びました。また隣りには
木之本黒田の大澤神社も記されて興味深いです。延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう
)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の事で当時の「官社」に指定
されていた全国の神社一覧ですが、先ほどの平安時代初期の815年(弘仁6年)に編纂された
『新撰姓氏錄』のほうか資料として、より古い事が解ります。それにしても今記している現在が
2019年であるから単純計算して『新撰姓氏錄』は2019年ー815年 = 1204年も前の記事です。

さて厳密に言って延喜式内社の乎彌神社が何処に存在したのか是を学術的に証明する事は無理
です単純に長浜市余呉町下余呉の江土ですと観光案内で説明する事は簡単ですが、城郭研究でも
神社研究でも学術的な研究家の立場で解説するとなると両者は非常に深く難しい分野と言えます。
研究と観光の分野は、全くの全く別野と言わざるを得ません。さて堅苦しい過ぎる事を言っても
話は前に進みません。早速現在の乎彌神社に行ってみる事にしました。現地に到着すると素晴らし
い駐車場と表示も調っており地元の皆様の方々には、深く謹んで感謝と敬意を表します。
私は余呉町出身ですから余呉駅に行くときには必ずこの神社の前を何度も通過しました。

乎彌神社は鳥居や手水舎はじめ社殿も素晴らしい荘厳さを湛えています。

社伝には★臣知人命、海津見命、★梨津臣命の祭神が記されていました。★印の神名を覚えておいて下さい。

境内には親切な次の案内版もありました。とても楽しく有意義なひと時でした。
※神社は作られ神社は消える。
 さて、由緒案内版には貴重な伝承が記録されています。なんと式内社の「乃彌神社」乃美神社が
かって下余呉に存在したが天正11年の賎ケ岳合戦の影響で消えたとの事この伝承は神社史を考える上
では大変貴重です。神社とはその社を崇敬し奉斎する人々が移住したり消滅した場合には自然消滅致
します。下余呉の北組は乎彌神社を奉斎し南組は乃美神社を奉斎していたが北組南組仲良く協力して
今の乎彌神社にまとめられたようです。従って梨津臣命を祀る乃彌神社は消えた事になります。しかし
突然別の場所から神社遺跡が発見されたりまた資料が発見される場合もあり軽率には断定できません。


『帝王編年記』を※長谷川的に考察致します。
            文中で特筆すべきは長浜市(旧伊香郡)の余呉湖に伝わる羽衣伝説です。

古老傳曰 近江國伊香郡 與胡鄕 伊香小江 在鄕南也 天之八女 倶爲白鳥 自天而降 浴於江之南津 于時 伊香刀美 在於西山 遙見白鳥 其形奇異 因疑若是神人乎 往見之 實是神人也 於是 伊香刀美 卽生感愛 不得還去 竊遣白犬 盗取天羽衣 得隱弟衣 天女乃知 其兄七人 飛昇天上 其弟一人 不得飛去 天路永塞 卽爲地民 天女浴浦 今謂神浦是也 伊香刀美 與天女弟女 共爲室家 居於此處 天女浴浦 今謂神浦是也 兄名意美志留 弟名那志登美 女伊是理比咩 次名奈是理比賣 此伊香連等之先祖是也 後 母卽捜天羽衣 着而昇天 伊香刀美 獨守空床 唫詠不斷
※(長谷川的解説)
※1近江國伊香郡(旧滋賀県伊香郡/現長浜市北部)
※2與胡鄕 (余呉郷/長浜市余呉町)
※3伊香小江(余呉湖)
※4天之八女(大陸や半島から渡来した八人の乙女/貴人や貴族に仕える奏楽を乙女の事)
※5自天而降(大陸や半島から天下った事)
※6伊香刀美(中臣の烏賊津臣の事か?中臣の伊香津臣とも言う。)
※7神人(貴人や宮廷や神社に仕える人)
※8白犬(伊香津臣に仕える新羅系の従者か?)
※9七人(奈良の七姫伝説/神武東征神話に登場する姫達に類似か?)
※10天路永塞(大陸や都に帰る事を長年阻止された。)
※11天女浴浦 今謂神浦是也(禊みそぎ等の神事や神占をする神浦)(尾野路浜オノロ浜か?白木の森モリか?)
天女と伊香津臣の間に誕生した子供達
※12兄名意美志留=兄(臣知人命/オミシル)★
※13弟名那志登美=弟(梨津臣命/ナシトミ)★
※14女伊是理比咩=女性(イセリヒメ)
※15次名奈是理比賣 =二女(イイセリヒメ)
※16此伊香連等之先祖是也=(古代氏族伊香連達の先祖である。)
↓読み下し文
古老の伝へて曰へらく、近江の国伊香(いかご)の郡(こほり)。与胡(よご)の郷(さと)。伊香の小江(をうみ)。郷の南にあり。天の八女(やをとめ)、ともに白鳥(しらとり)となりて、天より降りて、江(うみ)の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遥かに白鳥を見るに、その形奇異(あや)し。因りてもし是れ神人(かみ)かと疑いて、往きて見るに、実に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、やがて感愛をおこして得還り去らず。窃(ひそ)かに白き犬を遣りて、天の羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隠しき。天女(あまつをとめ)、すなはち知(さと)りて、その兄(いろね)七人は天上に飛び昇るに、その弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、すなわち地民(くにつひと)となりき。天女の浴みし浦を、今、神の浦といふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女(いろと)と共に室家(をひとめ〈夫婦[2]〉)となりて、此処に居み、遂に男女(をとこをみな)を生みき。男二たり、女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟(おと)の名は那志登美(なしとみ)、女(むすめ)は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連(いかごのむらじ)等が先祖、是なり。後に母(いろは)、すなわち天の羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、独り空しき床を守りて、唫詠(ながめ〈吟詠)すること断(や)まざりき。

天之八女(大陸や半島から渡来した八人の乙女/貴人や貴族に仕える奏楽の乙女を思わせる当時の中国の遺物。↑

余呉湖を眼下に見下ろす古墳群
伊香連の先祖に相当する古代豪族が『帝王編年記』の記述にあるような余呉湖を西の眼下に見下ろす様な山頂には
多数存在致します。先の乎彌神社の南に相当する山中にも古墳が存在致します。特に余呉湖を西に見下ろす古墳群と
しては滋賀県長浜市木之本町黒田字保崎谷の保崎谷古墳群が圧巻の迫力で訪れる人を魅了致します。この古墳群の
伊香連の先祖の古墳とは断定出来ませんが?岩崎山、大岩山、賎ケ岳を縦走される方は当古墳群を是非見学して下さい。
観光案内版は現地には全く御座いません。しかし私が城郭遺跡見学で言う様に看板が無くとも即刻遺跡であると認識
できる観察能力を各自が身に付けられますと城郭遺跡見学や古墳遺跡見学は俄然数倍の楽しさ興味深さで楽しめると
私は思います。長谷川先生城郭遺跡を解説して下さい。古墳を解説して下さいでは無くて楽しみながら遺跡を観察認識
できる。人生を楽しめる事も大切かと思います。自転車に乗る事は素晴らしい。でも何千回自転車を見ても自転車には
乗れません。何度水泳の練習を座敷の布団でしても泳ぐ事はできません。自転車に乗る事、水泳出来る事。の楽しさは
実践しないと解りません。城址も古墳も実践して体感される事を老婆心ながらお勧め申上げます。
下図は長谷川博美、保崎古墳群イラストです。
左の円墳と右の前方後円墳から成立しています。
特に左の台状に加工された巨大な円墳は賎ケ岳合戦の古戦場「茶臼山」でもあります。

下図は黒田観音坂にある大和型には属さない真に奇妙な形状の古様の古墳が存在致します。

楯築遺跡(たてつきいせき、楯築墳丘墓<たてつきふんきゅうぼ)は、岡山県倉敷市矢部
にある墳丘墓。形状は双方中円形墳丘墓に似た前方部が微妙にズレタ墳丘墓なのですが
遠く離れた滋賀県も時代は違いますが近江の国の東近江でも造出部が微妙にズレタ古墳の観察が楽しめるのです。

さてこれ等の墳丘墓は古代の地方王の王墓なのでしょうか?
それとも2箇所の造出部は春秋の先祖の祀りをした痕跡なのでしょうか?
いろいろと考えながら古墳や古城を楽しく注意して見学いたしましよう。「微笑」

付録 飯喰山古墳群見学記
   いたべやまこふんぐん
古墳郡の見学の仕方は群集墳や古墳群の場合は主墳も陪塚も全部見学致しましょう。時に古墳群を包み込む
平場がつまり古墳群の墓域を示す城郭遺跡で言うところの帯郭に相当する場所も視認されると楽しいです。
時代 古墳時代
所在地 滋賀県東浅井郡湖北町河毛 飯喰山 いたべやま にあります。簡単に登れる岡の様な山です。
古墳群の全容や全体像は私のイラスト素描を御覧ください。

遺構概要
古墳群は円墳ほか前方後円墳1+円墳数墓。
さて主墳は前方後円墳とも前方後方墳とも判断ができないほど前方部が欠損しています。
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 31 m
後円部 直 径 19 m
高 さ 3.5 m
前方部 先端幅 10 m
高 さ 1.2 m
後円部は険しくせり上がって方墳の角を思わせる部位もあります。

前方部は祠により欠損していると思われます。しかし前方部は大きく開いて後期古墳の様子を思わせます。

東側面から主墳の様子です。なかなか迫力があり魅力的です。

南西部にも周溝を認める円墳が残っておりワクワク致します。「微笑」







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美濃国府跡見学と日本の漢字文化と吉備国

2019-05-29 04:55:44 | 旅行
美濃国府跡見学と日本の漢字文化と吉備国
※美濃国府跡跡
 美濃国の史跡に強い憧れと、尊敬を元来抱いている私は以前から訪れたかつた美濃の国府を1人訪れました。
美濃の国の中心の役割をはたす官庁があった場所とは如何なる場所か?考えるだけで私はワクワクしてきます。
美濃国府跡(みのこくふあと)は岐阜県不破郡垂井町府中に所在する古代の官衙遺跡で 濃尾平野の西端にあり
東西を川に挟まれた微高地上に位置する。律令制下の美濃国の中心また不破の関を管轄する役割のあった施設。
写真は現地案内より

※魅惑の府中地名
 巨大な大国の武蔵国府中遺跡にも強い関心と憧れを持っていますが、私は府中地名がある場所に行くと強い
興味と関心を抱きます。美濃国の府中の雰囲気とは如何なるものか?当時の社会や府中の人々の事を想像する
と感慨深いものがあります。
写真は現地案内版より

※長い古墳時代の終焉
 日本各地には古墳を築造する葬祭の時代が概略3世紀から6世紀まで長く続きまたしたが文字を全を使って
政務を記録する国家体制や「薄葬令」古墳を作らない法令が出来ると、やがて古墳の時代は終焉を迎えます。
※りつりょうこっか(律令国家)体制
律令を制定して統治の基本とする国家。中国の隋、唐で確立し、朝鮮をはじめ周辺諸国に波及しました。日本
では七世紀中頃形成され、大宝律令の成立で完成し整然とした官制の下、多くの漢字の読み書きが出来る人の
官僚がこれに従事し、班田収授により人民に一定の耕地を給す代わりに、租・調・庸・雑徭などの税を課して
日本の事務的及び実務的な管理を推進します。荘園制の進展などにより公地公民制が破綻する10世紀頃まで
律令の時代がつづいたとされてます。
※漢字を使う人々と古墳葬送に従事した人々の明暗
 日本は現在でも漢字を使う国として漢字の本家の中国よりも漢字を長く使う事になりました日本の神話や古典
『古事記』『日本書紀』の原文は全て漢字で記されています。令和の年号の引用原典となった『万葉集』も漢字
の羅列です日本の古い神社を記した『延喜式神名帳』や祝詞も漢字で記されています。例えば純日本文学の歌集
とされ令和の年号の元となった万葉集の以下の原文を現代日本人が読めますか?また一方で、古墳を作る作業や
古墳に関わる葬祭を担当し職業として従事していた氏族は衰運を迎えたと考えられています。

梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

なのですが現代日本人からみたら漢文調であり現代人には理解し難い、しかもこの詩の原典
が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」
が元ネタや、下敷きに、なっていると言われていおります。つまり、漢文、漢学、の文化です。
※古代において文字の読み書きも和語「倭語「やまとことば」も話せ人々とはだれか?
古墳の中からも既に額田部「ぬかたべ」の文字や雄略天皇を意味する文字が発見されていますが『新撰姓氏錄』なる
書物を一度御覧下さい。多くの氏族がその先祖を中国や朝鮮から日本に来た事を人々を先祖として、記しています。
当時のの日本の貴族の子弟は学門として漢学を学んでいた事でしょうが先祖から受継いだ、漢字、暦法、方学風水や
灌漑に用いる水田を潤す灌漑池の築堤技術や築都、築城、や寺院や仏像や仏典、等に精通した当時のエリート集団
とも言えると思います。現代においても日本人は元号や漢字を使っております。

※吉備国の事
吉備国とは、後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国にあたる広大な国。 後代は、単に吉備といえば美作
を含めないことが多かった時期もあった。 現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前、備中
、美作、備後(岡山県と広島県東部)を指して使用される。律制の国では(備前国/備中国/備後国/美作国)に相当する。
吉備国(きびのくに)古代日本の地方国家ながら。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(
佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有巨大な勢力 別名は吉備道(きびのみち、
きびどう)備州(びしゅう)とも言われますが、なによりも私が関心ある事は吉備が大和型の古墳に使われる円筒埴輪
の元祖ルーツである。特殊器台形土器に魅力を感じます。
★質問者
 当時の中国つまり唐の時代の文官の服装とはどの様なものでしょうか?
長谷川
 私は詳しくは知りませんが唐の文官は写真の様な「文史」の服装だったと私は推測します。

★質問者
 唐の文官が手に持っているのはコンビニ便利店の菓子パンどすか?美味しそうどすな?
長谷川
 当時の中国の文官を象徴する笏「しやく」だと私は思います。中国読みなら「コッ」です。日本では朝廷の公事を行う時、
備忘の為に式次第を笏紙(しゃくがみ/しゃくし)という紙に書き笏の裏に貼って用います。後に重要な儀式や神事に際して
、威儀を正すため木笏をに持つようになります。
★質問者
 唐の時代の文官(文史)はまるで聖徳大使の親戚の(おっちやん)みたいですが?
長谷川
 貴方の感性柔軟で素晴らしいと思います。なぜなら当時の東洋文化はグローバル化が進み漢字文化が日本にも
伝来し波及した事を思わせる内容です。また平安時代の神社の神像も時に、笏を持っている事や神社の狛犬の文化
の起源も古代オリエント、古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角を持つ。邪悪を避けるといわれる避邪も韓半島
を伝播して日本には狛犬「こまいぬ」として日本に伝来し継続した文化と言えましょう。

★質問者
 長谷川先生、会話が飛躍し過ぎていませんか?中国の唐時代の中国語など日本人は話せませんよ?
長谷川
 阿倍 仲麻呂(アベノナカマロ)と言う優秀な日本人がおります。彼は文武天皇2年〈698年〉から 宝亀元年〈770年〉1月)は、奈良時代の遣唐留学生で姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍比羅夫アベノヒラフの孫。中務大輔ナカツカサノタユウ・阿倍船守アベノフナモリの長男。 唐名での名前は「朝衡/晁衡」(ちょうこう)です。唐で国家の試験に合格、唐朝で諸官を歴任し、高官になり
日本へは帰国できず中国で亡くなっています。 唐の大学で学び科挙に合格し唐の玄宗に仕えた。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。仲麻呂は唐の朝廷で主に文化系の役職を務めた当時の国際的「超」エリートの文官です。天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使(正三品)になりベトナムに赴任し総督を務めます。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間ハノイの安南都護府に在任、天平神護2年(766年)安南節度使を務め最後は潞州 ろしゅう 大都督(従二品)を贈られ日本に帰る事はなく宝亀元年(770年)73歳で中国で亡くなった国際的に活躍し語学に精通した人物です。





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美濃 野古墳群見学記 4

2019-05-12 16:56:13 | 旅行
美濃 野古墳群見学記 4
南屋敷西古墳見学
南屋敷西古墳平面図 前方部がより広く開いている。後期大和型前方後円墳の特徴か?

後円部には一部欠損の痕が見られるも、美しい墳丘を観察する事が可能である。

後円部には周壕の痕跡を観察する事が出来る。壕の外には周堤らしき遺構も確認できる。

南屋敷西古墳前方部写真。非常に墳丘が美しい。墳丘のクビレ部分も細く低い。











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美濃国 野古墳群 見学記2

2019-05-12 09:00:34 | 旅行
美濃国 野古墳群 見学記2
以下は美濃大野町の野古墳群の現地案内版の見取り図である。
織田河内守屋敷跡の案内にも注目頂きたい。所謂平地居館であろう。

 さて下図は不動塚古墳の現地解説版である。前方部が現況では低く短く改変されているが残念である。

しかし見事な迫力のある古墳である。さてさて織田河内守屋敷跡の土塁も累々と残っており、驚くばかりだ。
下の写真の左側は城郭遺跡の土塁である。右の墳丘が第8号墳であ。奥に高く見えるのが先程の不動塚古墳。
ついでに土塁も見学する。古墳と平地居館の双方が楽しめて2倍の楽しさがある。

以下は現地の案内版である。参考にして頂きたい。素晴らしい金メッキの銅鏡が出土している。

以下の写真は大野町役場で頂いたパンフレットである参考にした頂きたい。

以下の写真は私が撮影した7号墳である。




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