城郭 長谷川博美 基本記録

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衝撃!本能寺の変!秀吉の策略は離間計(りかんのけい)!

2021-10-28 04:49:05 | 戦国武将

衝撃!本能寺の変!秀吉の策略は離間計(りかんのけい)!
◆質問者
離間計(りかんのけい)とは何ですか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
宿敵の仲を裂くことで状況を打破する戦術。
敵勢力を二つに分断して勝利する策略です。

君臣=主君と家臣の中を引き裂く分断策戦。
親子=親子の血縁を齟齬分離し自軍が勝利。
割算=2を半分に分離1を痛撃して勝利する。

◆質問者
秀吉が実施した永禄期の君臣分離策とは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
織田信長の元で美濃斉藤氏と美濃三人衆を
調略「ひとたらし」により分離した功績!
これにより信長は尾張と美濃を併呑する!
もっとも斉藤義龍と父道三の親子関係を
分断したのも戦国の策略によるものです。
近江では六角氏が重臣後藤氏を突然殺害
した後藤騒動も君臣の和を裂く離間の計
用意周到に心理作戦を用いて敵の陣中に
疑心暗鬼を生じさせて敵に内乱を起す策。

◆質問者
秀吉が近江に潜入して実施した離間の計は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
 主君浅井氏と家臣堀樋口を分離した事です。
これにより織田方は長比城、鎌刃城、現在の
長浜市南部と米原市の全域を確保しました。
さらに天正年間に入り堀樋口氏を策略により
特に堀家の家宰樋口三郎兵衛を逃亡失脚させ
坂田郡を本格的に自領に組み入れて行きます。
織田方の丹羽長秀は浅井の磯野丹波守の佐和
山城を長期包囲して浅井氏磯野氏の主従関係
を破綻させ磯野を高嶋郡へ誘致する策略を用
いております。これも離間の計と言えます。


◆質問者
更に秀吉は北近江に侵入し施した離間の計は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
元亀年間になると秀吉は近江浅井氏の本城たる
小谷城浅井氏の重要支城、横山城の城代になり
ます。これは姉川合戦において勝利した結果に
おいて信長は木下藤吉郎に横山城「長浜市」の
城代を命じます。姉川合戦も浅井の本城小谷城
と支城横山城を分離させる策戦で離間の計です。

◆質問者
天正元年の小谷城攻めで秀吉が執った策戦とは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
虎御前山城から出陣し信長に大嶽城を落城させ
て秀吉自身は小谷城浅井久政と浅井長政の中間
に存在する京極丸を攻略して両者を離間分断し
小谷城落城を有効に導いてます。 これズバリ
離間の計の1つ分断策戦とも言えます。

◆質問者
その前に朝倉義景と朝倉景鏡を越前で離間させ
て景鏡に越前大守義景の首を討たせてたのは?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
主従を離間の計で分離させる事は秀吉いや戦国
期の常套策で、朝倉景鏡が先年美濃近江国境に
出張した折節に狡猾な秀吉は景鏡の内応準備を
初めてた可能性があります。景鏡は大軍を近江
美濃国境に派遣しながらも、淡白に越前に帰還
する不可解な軍事行動をしています。越前大野
郡白山神社権現には既に元亀年間に戦勝祈願し
た鰐口が残り織田の景鏡懐柔内応策は早くから
水面下で先行、進捗していた可能性があります。

◆質問者
秀吉は離間策もさる事なから連合策もしますか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
志賀の陣で佐和山城の丹羽長秀と横山城の秀吉が
連合合策して宇佐山城で窮地に陥った信長を救援
に向かいます。秀吉長秀の連合合策つまり、和算
の法則で山崎合戦、賤ケ岳合戦でも見事賤ケ岳に
合流し勝利します。一方秀吉は北国軍の柴田勝家
の柴田勝家とその前線指揮官、佐久間盛政の間に
布陣していた当時能登小丸城主と当時越前府中城
の前田利長父子を茂山から北国に引き上げさせて
叔父柴田勝家と甥佐久間盛政の強力な軍隊の本陣
と前線を分断させる「離間の計」を知らない間に
巧妙に行使し羽柴秀吉は北陸をも見事に制圧して
いく策略を展開しています。これ即ち敵の分断で
敵を割算で分離し自軍は連合して勝利する策略。
非常に解り易い!敵の2を割算で1として1を潰し
自分は肝心の合戦の要で1+1=2と連合する策で
す。

◆質問者
秀吉は明智光秀にも策略により勝利してますか?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
勿論です四国の長宗我部と織田信長の連携を分離
させ急遽、主君の信長に四国長宗我部討伐の軍を
起させたのは羽柴秀吉の策略そのものです、また
これにより主君、織田信長と明智光秀の君臣主従
関係を破綻させ「離間の計」をフルに行使し明智
に本能寺の変に至る事を導いている策士と言えま
す。本能寺の変の首謀者かつ現場采配は斉藤利三
であり斉藤氏は四国長宗我部氏家臣石谷氏と縁戚
という縁故関係にあり本来四国長宗我部氏との窓
口は斉藤利三/明智光秀が四国政策の取次役ですが
秀吉は見事に四国戦略の主導権を横領簒奪掌握し
て織田信長と外様新参大名と言える明智光秀と信
長の関係を齟齬や破綻をもたらしたのは羽柴秀吉
の離間の計に明智光秀が眩惑されぶらかされた事
になります。信長の本能寺での最期の衝撃的文言
『是非に及ばす』明智の謀反「さもありなん」の
肯定を意味する言語とも言えます秀吉の危機管理
能力や想定能力「読み」とも言える中国大返しは
準備万端事前に計画していたごとく疾風の速さで
秀吉は備中高松城そして姫路城「秀長」の留守を
経由して山崎合戦において電光の如く明智光秀に
勝利しています。これは秀吉の予定調和であり、
シュミレート策が的中した事を証明するものです。
秀吉の備中高松での毛利氏との手際よい講和自体
も不自然と言えます。普通敵将が兵を引く場合は
これに追い打ちをかけるのが毛利の兵法の常道な
のに秀吉とあっさり講和している不可解さ?一方
明智は成す事計画する事全て順調に行かず緩慢で
す。秀吉の離間の計は明智の頼みとする丹後細川
氏にも既に調略を施していた事でしょう。明智と
細川の関係を離間させていたのは秀吉の離間の計
そのものである可能性があります。同じく山崎合
戦本戦で本来は明智の与力、中川清秀、高山右近
も明智派閥から離間させて巧妙に自軍に導く調略
は真に見事です。一方明智は成すべき万策全てに
おいて不完全で緩慢とも言えます。本能寺変後の
シュミーレト策戦やビジョン展望を明智は持ち合
わていない。秀吉は、次々に策略や外交を成功さ
ていて、まるで事前準備した如く順調に事を運ん
でおります。そもそも播州姫路城を確保し、小寺
官兵衛を黒田官兵衛とて改名させ播州御着の小寺
勢力を、離間の計を用いて分断した事に始まりま
す。中国地方では秀吉は独断で備前岡山の宇喜多
氏との提携連合関係を主君信長に稟議書の提出な
く実施して主君信長から詮議を受けていますが、
これは天正3年段階の北陸方面で柴田勝家と意見
の齟齬を巡って秀吉は無断で長浜に帰還して信長
に叱責されています、秀吉の戦略、策略は主君の
信長をも凌駕する俊敏狡猾な頭脳の回転の速さの
持ち主と思われます。まさに敵の心理を洞察看破
する秀吉の人間心理読心術は「ひとたらし」調略

◆質問者
天正11年の賎ケ岳合戦における秀吉の策略は?

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
前哨戦において越中、能登、加賀、越前と
美濃織田信孝伊勢滝川一益を分断離間すべ
く江北長浜城を柴田勝家と柴田勝豊を離間
させて先ず秀吉は重要拠点旧領長浜を確保
します。この段階で賤ケ岳の合戦の前哨戦
初期策戦において秀吉が先手を完全に確保
したと言って過言でありません更に秀吉は
賤ケ岳本戦でも離間の計を行使致してます。
柴田軍2万の本陣勝家本隊と前線指揮官の
佐久間盛政を、大岩山砦、岩崎山砦などの
脆弱な囮の砦を用意して、これで「釣り」
柴田軍を二分する計略離間の計を用いて賤
ケ岳において佐久間を殲滅し柴田本隊を越前
北庄城で滅亡させます。一方事前に前田利家、
金森長近徳山秀現は合戦の事前に内応の約束
を秀吉は取り付けています。秀吉は相手を分
断し味方をプラスする割算と足し算、割算と
和算「÷」と「+」を巧妙に使い分けています。

◆質問者
秀吉と言う人は知らない間に敵対する勢力を
離間させ仲違いさせる極めて陰湿巧妙な神経
策戦を行使する人だと思いますが堅実な徳川
家康には「離間の計」の策略は通用しない筈!

◆長谷川 今更史朗【いまさらしろう】
いいえ秀吉は徳川家康と家臣石川数正を離間
の計を用いて自軍に調略して「ひとたらし」
して大局的には徳川に総合戦略で勝利します。

◆対談者
秀吉って陽性な性格だと思っていたらその反面
極めて陰湿な策略家で何故か人間的に嫌ですね?

◆長谷川
秀吉は晩年その本質が吐露されて政策のミス
とも言える大陸出兵や利休切腹、秀次切腹な
どの失策が増えます。彼の弟大和大納言たる
豊臣秀長の補佐や中庸の諫言が、如何に豊臣
政権に軌道修正や安定をもたらしていたかが
解ると思います。秀吉は社長、秀長は常務で
社長の暴投を秀長が堅実に捕手としてカバー
していたそれは播州の姫路城の秀長の守備や
江州賤ケ岳合戦の秀吉方の本陣と言える田上
山城を柴田方の攻撃から堅固に本塁を守りぬ
く地味な名捕手こそ常務豊臣秀長の本領です。

◆質問者
織田信長子息が離間計で家臣を虐殺した人は?

◆長谷川
天正12年の事
井 長時(あざい ながとき)は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての武将。織田氏の家臣。尾張国苅安賀
城主 
経歴[編集]
天正10年(1582年)の本能寺の変以前に父の遺領[1]
を継ぎ、尾張衆として織田信忠の軍団に組み込まれ
る。本能寺の変後は、尾張を領した織田信雄に仕え
る。岡田重孝・津川義冬、そして浅井長時田宮丸の
三人は「三家老」と呼ばれ、信雄家において大きな
影響力を持っていた。しかし、謀反の疑い(豊臣秀
吉の陰謀説あり)をかけられ、三家老はすべて信雄
の居城に誘い出された上で殺害された(『勢州軍記』)
『寛政重修諸家譜』では幼名の「田宮丸」で記され、
没年は16歳となっている。主君家臣の間で疑心暗鬼
を発生させる秀吉の本領は明智と信長を離間の計で
分断して残った明智を用意周到に滅ぼした策略によ
るものではないだろうか?
コメント (3)
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2つ玉を使う、戦国鉄砲名人2人 尾張一色城の謎

2021-04-21 17:31:00 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック
北近江城郭鳥瞰図 上文字クリック

★★
2つ玉を使う、戦国鉄砲名人2人 尾張一色城の謎

対談者
長谷川先生の比叡山山中の城郭図面は、異様に繊細で
詳細で。城址とは元来は複雑繊細なのですか?:剣術の
名手を手練れと言いますが長谷川先生も城郭の名手?


長谷川
城の先生は現地の遺跡が真の先生。現実を直視する。。



対談者
先週長浜市余呉町天神山城に柴田伊賀守家臣達が
築城した鉄砲用三重塹壕すごかったです。長谷川
先生ならではの卓抜した城址見学解説の冴えが有
りました。柴田伊賀守は天正11年頃鉄砲の生産地
近江長浜国友を支配しており、羽柴秀吉の軍門
に降り京都で病死した悲運の武将とも言えました。

長谷川
そうですか?私はこの12年定職や仕事や就職がなく
何百回、面接を受けるも全く不採用です、心身とも
心痛の連続、私の人生は疲弊し悲しい浪人生活です。
▼長谷川博美尾張小牧300人歴史講演過去写真


質問者
長浜市余呉町国安に鉄砲塹壕のある天神山城があり
ました。この国を冠する製鉄集団の集落が余呉庄に
は存在したのですか?

長谷川
不思議な事に平安時代頃余呉庄には国友名なる集落
が存在しました。現代も余呉には国友姓があります。
国安や国友は製鉄に関係する集落地名かと思います。

対談者
伊賀守を名乗る人は硝石や火薬や鉄砲に関係のある
人と民俗学的見解を述べられましたが伊賀を名乗る
鉄砲の名手は他に居ます?弾ける毬栗「いがぐり」
の様なイメージの砲術家は居ますか?

長谷川
流祖は稲富伊賀入道一夢(いちむ)。一夢流ともいうが
やはり「伊賀」でしょう?有名な砲術家と言えます。
たしか国友鉄砲資料館の資料で一夢と象嵌した鉄砲
が紹介されていました。

対談者
最近長谷川先生が訪れた城址で精巧な縄張りを過去に
持っていたであろう消滅した廃城は有るのでしょうか?

長谷川
この城はすで存在しない尾張地方のある城。地籍図を
参考にすると非常に優れた平面構造の城館であった事
が推測されます。
この段階であえて城名称は避けますす。先ず城館
への導入路はAから入り①の横矢から狙撃する様子
が解る。次にBからCに至る時に横矢②横矢③等の
側面攻撃を受ける。Dに至ると④から横矢を受ける。
C、D、E、Fと曲折土橋が設定されていたと私は
推定致します。Gに架橋した場合⑤⑥の横矢からも
挟撃する優れた平地城館の縄張りが推測されます。
全体的な構造も内城と外城をも持つ優れた根源的な
尾張織豊系列に属す城館と推定される平地城館です。

対談者
プロフエッショナルな弓矢や鉄砲銃撃手が縄張設計
した高度な平面構造をもつ平城と言える!城主は?

長谷川
たしかに素晴らしい弓鉄砲に精通した武士団が居住
した城の印象がありますが残念ながら現在地表面に
はこの城の跡が全く残っておりません。たしかに
長浜市余呉町天神山城でもこの城も導入路を複雑に
曲折させる繰り返しの曲輪の手法が採用されている
事です。これは曲折導入路の手法「繰り返し」です。

対談者
まさか黄色の土色で示された平地城館は伊賀守を
名乗る尾張愛知の武将の城館で、ないでしょうね?

長谷川
伊賀守の城ですよ!橋本伊賀守の城、愛知県稲沢市の
一色城の地籍図です!信長の鉄砲の師匠に相当する人。
▼2019年水堀の一部が発掘されております。地元有識様よりの御教示

▼愛知稲沢市一色城予備知識

▲一色城の規模は東西一町つまり約109m
南北四五十間つまり約82、35mの規模記しています。
また「内城」と「総城」本丸と外郭の二重構造と記
しており当時の尾張平地城館の規模がしのばれます。

対談者
尾張中嶋郡片原一色城橋本伊賀守なんて全く知らん!?

長谷川
知らないなんて言わせません!貴方はNHK名古屋
文化センターで私に付き『信長公記』を何度も読み
ましね?橋本 一巴はしもと いっぱ生年不詳 - 永禄
元年7月12日(1558年8月25日))は、戦国時代の
武将・砲術家。織田信長の火縄銃の師匠であった。
名は一把とも。また道求の名でも伝わる。官職名
として伊賀守を称した。 あの信長の鉄砲の先生の
橋本一巴ですよ!
★★鉄砲の二つ玉を鉄砲の名手です!

感激屋さん
一色城スゲエーわ!橋本一巴スゲエーわ!
なにより、織田信長の人材を見抜く才能が
桁外れに、どえりやあスゲエー!流石だわ!

質問者
一色城に関する地誌の記録で城の東に鎮守直会ノ社
アリとありますがその神社は現代の何処に相当致し
ますか?

長谷川
田畑氏の後方が現代の神明社。手前が一色城の石碑。

田畑喜久弘氏の履歴
元滋賀民俗学会会員
元多賀町議会議員
元余呉城郭研究会会長
愛知中世城郭研究会にも参加経験有
現NPO自然と歴史ロマンの会理事
現余呉城郭研究会名誉理事などなど

一般者
でも橋本一巴と近江国友鉄砲とは全く関係ないし?

長谷川
後世の記録、寛永10年(1633年)の『国友鉄炮記』
には、橋本一巴は天文18年(1549年)に鉄砲撃ちと
して世上に名高いことが信長の耳に達して召抱えら
れ、同年7月18日に、信長の命で国友村の鉄砲鍛冶・
国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文したという。

一般者
やはり鉄砲産地の近江国友村と橋本一巴は関係ある! 

対談者
愛知県稲沢市の一色城が弓鉄砲を非常に意識した城
だと仮定した場合、橋本一巴の実戦の模様を伝える
文献記録がありますか?

長谷川
文献『信長公記』永禄元年(1558年)の浮野の戦い
·「浮野合戦の事」より
一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべ
からず。此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉
の後へまはり、足場の能き方より浮野と云ふ所に御
人数備へられ、足軽かけられ候へぱ、三千計りうき
うきと罷り出で、相支へ候。
一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、
数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎
と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷
り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合
ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞
むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」
と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけた
る矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと
射立て候。もとより一巴も★★ニツ玉をこみ入れたる
つゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然
るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、
林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き
持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。
かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀と
の働き比類なき仕立なり。さて、其の日、清洲へ御人
数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず
千弐百五十余りあり。

【現代語訳】
一、永禄元年7月12日に清洲城から岩倉城へ30町
(約3.3km)もない直線距離では近いしかし、途
中に要害(大河など)あり、3里(12km)北から
大回りし、岩倉城の後へと回り、足場のよい方か
ら「浮野」(愛知県一宮市千秋町浮野道下)に出
向き軍隊を配し、先ずは足軽に攻めさせると、岩
倉城から三千人人が悠々と出撃して合戦となった。
一、永禄元年7月12日、午の剋(正午前後)、辰巳
(南東)へ向い攻めかかり、数刻(数時間)戦って
追い崩した。ここ、浅野という村(愛知県一宮市浅野)
に、林弥七郎(豊臣秀吉の御台所・ねねの父)という
弓の達人がいた。弓を持って退こうとしたが、橋本一巴
(織田信長の鉄砲術の師匠)という鉄砲の名人が渡り合
った(一騎打ちの勝負)。両者は以前から達人である事
を噂で知っていた、林弥七郎は、橋本一巴に背を向けた
ままで「(鉄砲の達人だからといって)助けはしないぞ
(殺すには惜しい達人だからといって、手を抜いて、
わざと外したりしないぞ)」と言うと、橋本一巴は
「心得たこちらも手を抜かない)」と返事した。林弥
七郎は、「あいか」(伊勢国相賀製?)の約4寸(12cm)
の「矢の根」(鏃)の茎を箆に挿し込んだ矢を手にし
て構え、振り返って橋本一巴に向かい、橋本一巴の脇の
下へ、深々と矢を突き立てた。橋本一巴も鉄砲玉を2個
込めた鉄砲を構えて撃ったので、林弥七郎は倒れた。
(林弥七郎と橋本一巴は相打ちだった。)これを見た
織田信長の御小姓衆・佐脇藤八が走り出て、林弥七郎
の首を取ろうとすると、林弥七郎は、倒れたままの姿
勢で太刀を抜き、佐脇藤八の左の肘を篭手もろともに
打ち落した。佐脇藤八は、果敢に立ち向かい、終に林
弥七郎の首を取った。このように林弥七郎の弓と太刀
の腕前はすごかった。さて、その日(永禄元年7月12
日)は、清洲へ退却し、翌日(永禄元年7月13日)、
首実検をすると、屈強の武士の首が1250以上集まった。

対談者
ニツ玉って一体何ですか?★★

長谷川★★
鉄砲玉を2個込めた被弾性の高い殺傷能力のある
鉄砲!従って当時の合戦でニツ玉鉄砲を使う砲術
家は名人級!

一般様★★
ニツ玉鉄砲を使うのは橋本一巴だけと言うこと
ですね?

長谷川       ★★
いいえ!杉谷善住坊もニツ玉を使う鉄砲名人な
のです!

『信長公記』元亀元年 
「千種峠にて鉄炮打ち申すの事 
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の
菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ
候。左候ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木
左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄炮
を相構え、情なく十二、三間隔て、信長公を差
し付け、★★二つ玉にて打ち申し候。されども、
天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鍔
の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州
岐阜御帰陣。」

とあります。鉄砲名人杉谷善住坊は六角承禎に
依頼されて織田信長を★★2っ玉の鉄砲で狙撃
したが信長の身体にかする程度で信長は無事
千種峠を超えたと記録しています。

質問者
杉谷善住坊はどこの出身ですか?

長谷川
三重県菰野町の杉谷と言う説と滋賀県江南市杉谷城と
言う2説がありますが詳しく解っていません。

▼長谷川博美 三重県菰野町 講演の過去写真
コメント (2)
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驚愕! 明智光秀と木俣土佐守守勝 この元主従の2つの天守

2021-02-09 09:16:00 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック
一般様
湖北出身の脇坂安治は明智光秀一時従軍し
て丹波黒井城攻めで活躍したとの事、明智
が滅亡後湖北の連中の地縁を頼って秀吉の
陣栄に参加してやがて賤ケ岳7本槍として
活躍できたと聞いてます。しかし明智と
脇坂を結ぶ地理的な遠さを感じてしまいます。

長谷川
明智は織田の外様勢力です。虎御前山城内の
織田諸将の陣営には加えてもらえませんしか
し一部の伝承には明智は東浅井郡湖北町山脇
山に陣を取ったとされています。実は山脇山
と脇坂屋敷は約一キロほどしか離れてません
明智山脇山布陣の時節に脇坂氏は明智に従軍
つまり雇用してもらったのだと推測されます。

一般
で山脇山明智光秀砦など無いと言うのが常識。

長谷川
陣城というものを見る能力のない人なは無いと
言います。しかし現実に山脇山城は存在します。
▼長谷川博美図


大河愛好家A
大河麒麟が来る最終回を見て完全に茫然と
しています。あまりにもあつけない最期だ

長谷川
私は本能寺の変の以前に突然明智光秀の
もとから去る菊丸と言う徳川と明智の間
を行き来する「岡村さん」と言う忍者の
演出を楽しみました。何しろ歴史上の中
では明智と徳川の間を行き来するの木俣
土佐守と言う徳川家康から密命を受けて
暗躍する人物は木俣氏に限られますから
ね!架空人物「菊丸」と言う形で消え失せ
る画像演出も大変秀逸で楽しませて頂いた。

芸能愛好家
岡村さんて芸能人として華がない様にも
思える、大河でも華のない、庶民として
全く目立たない謎の人物して登場してる。

長谷川
とんでもない過小評価です。岡村さんが
新人漫才師の頃此れを見た。審査委員で
作家の藤本義一氏が岡村君は数年に一度
しか出てこない特殊な光彩を放つ逸材で
ですと評価していた事にあります。人を
見る人間を洞察する事に特殊な能力を発揮
する人を慧眼ある人物と古来より言います。
要するに凡百の人が凡人と見た人が実は
非凡な才能を不思議に発揮する社会現象
はよく社会でも発生する事でもあります。
大河に菊丸を登場させた事は秀逸な演出。

一般者
ふうん~一般からみると全然解らないわ!

長谷川
明智光秀の坂本城は文献『兼己卿記』には
天守と小天守が記録されています。二基の
天守、大小天守という解釈もも出来ますね。
近江志賀郡の明智の戦績には2カ所の天守
構造を持つ山城も実は存在致します。勿論
藤堂高虎も名古屋城築城の際は大小天守を
設定している。

質問者
名築城家 藤堂高虎の出身は何処ですか?
彦根の城下町には伊賀町と言う地名もある。

長谷川
近江国 犬上郡 在士 藤堂村ですね。

質問者
近江国 犬上郡 徳川譜代 彦根藩 井伊家の家老は?

長谷川
 木俣土佐守守勝は近江彦根藩の家老で
傑物として名将としてよく知られてます。
またある時期木俣は徳川から離れて明智
光秀の小納戸役として、あの明智光秀に
仕官しておりました。小納戸役とは明智
光秀の書簡や文書類を管理保管する重要
な役目です。木俣は本能寺の変の折には
既に徳川家康に帰順して家康の伊賀越え
を案内して徳川の無事三河帰還を支えて
おります。

質問者
明智光秀は近江国犬上郡多賀の佐目出身
説や当地には城郭遺跡を長谷川先生及び
田畑喜弘氏の尽力により発見計測された。

長谷川
明智光秀=近江国犬上郡多賀佐目出身説『淡海温故録』
     ※坂本城を安土城以前に創築した名築城家

藤堂高虎=近江国犬上郡在士藤堂村 出身 豊臣方から
     徳川家康に臣従した徳川方の顧問的名築城家

木俣土佐=元明智光秀家臣 小納戸役
     近江犬上郡彦根藩井伊家家老
     ある時は明智にある時は徳川の監査官目付役

質問者
さて豊臣政権から徳川政権へと移行して伊賀の国の
伊賀上野城の城主、豊臣方の筒井伊賀守定次は徳川
方の藤堂高虎に伊賀上野城を明け渡しますがその時
の伊賀上野城譲渡の受け取りの際の徳川の監査役は
見届け役とは一体誰なのでしょうか?

長谷川
伊賀上野城の新城主は近江犬上郡在士出身の藤堂
高虎です。また伊賀上野城の譲渡を見届ける徳川
方の目付や監査役は木俣土佐守守勝がその役目を
担っております。つまり傑物木俣は明智の小納戸
役も経験し徳川に帰順してからも徳川雄藩井伊家
の目付役としても徳川家康から派遣された重要な
人物であり家康の目の役割の目付を担当していた
と言う高い評価を与えられた徳川家康政権の重要
な人物と言う事になります。彦根藩主井伊家江戸
から国元彦根に帰ったおりには井伊家は先ず木俣
屋敷に挨拶をしてから彦根城内に帰るしきたりが
江戸時代も長く続いております。木俣は表向きは
井伊家の家臣しかしその実力権限は徳川譜代歴代
の有力家臣にして大名級と言って過言でいない。

さて次に

以前の長谷川の投稿で
「日本贈答歴史のヤミ 
信長、明智の贈答品を即刻却下」で

この投稿で私は二次資料『淡海温故録』にある
近江国犬上郡佐目の明智光秀が武田勝頼に内通し
ていた事から織田信長に武田との策謀を疑われた
件を記述した。武田と明智が内通していたと言
う一見空想や荒唐無稽ともとれる内容の『淡海温
故録』の記述なのであるが?しかし

文献『信長公記』の西暦1580年の記録である
原文を引用するならば

『信長公記』 巻十二 天正八年

四月十五日、丹波より、惟任日向 、
御馬進上のところに、すなわち、
「 日向 に下さる 」の由にて、
御返しなされ侯。

◆と簡潔に記されている。この光秀の献納
した名馬は武田から明智に送られた木曽駒
や甲斐駒と推定すると武田から丹波の光秀
の所へと送られた名馬であつた可能性は全
くゼロとは言えないであろう。しかし信長
は光秀の献上した名馬を即刻、送り主の光秀
自身へと送り返す当時の武家社会の贈答の
常識の掟や儀礼に反する異様な行動を取って
いる事にある。献納された名馬を即刻返納
する信長の深意は未だに詳しく判明してい
ない。

▼何故か?徳川家に伝承された伝明智秀満の甲冑
 この兜の装飾はウサギの耳ではなく騎馬の耳。

◆彦根藩の傑物 木俣守勝と明智光秀との城郭共通根

木俣土佐守守勝は近江彦根藩の家老で
傑物として名将としてよく知られている。
木俣氏は三重の櫓がそびえる彦根城土佐
郭に平素は一城の如く住まいし、政務は
彦根城の西の丸の三重の櫓で政務を執っ
た事は彦根藩『井伊年譜』に記される。
▼彦根城 山崎郭模型 
▼彦根城 西の丸 三重櫓模型

藩主をさしおいて彦根城内に2箇所もの
天守級の櫓を構えていた人物とは徳川
家でも大名級と、目される木俣土佐守
守勝がその白眉といえる人傑と言える。
イエズス会の宣教師
『フロイス日本史』中の明智光秀評として
●「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
●「裏切りや密会を好む」
●「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略
を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。
友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習し
たと吹聴していた」
●「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」
●「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」
「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な
器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に
贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜
ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好
や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう
心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、
一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らが
そうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、
それは本心からの涙に見えるほどであった」
●「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」
「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
●「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、
ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
等の光秀評が宣教師ルイス、フロイスが記している。

かつて明智光秀と木俣守勝は主従関係にあっ
た事は良く知られている。また木俣のかって
主君、明智光秀は文献『兼己卿記』に光秀の
居城坂本城に天守、小天守があった事実を記
録している。明智の坂本城は宣教師が日本で
は安土城に次いで二番目に立派な城と記録し
ており荘厳な天守閣であったと事が推定され
る。また木俣守勝は明智光秀の小納戸役をも
務めていた優秀な人物で彼の役目は明智光秀
の機密文書の保管係りでもあった事が判明し
ている。つまり明智の秘密を握り知る武将と
言えよう。さて明智が木俣ほどの人物人傑を
雇用していた事は流石と言わざるを得ない。
しかし木俣土佐守守勝はウッキペデイアを
以下の如く引用すると、明智光秀、本能寺
の変、徳川家康、井伊家では家康の君命に
より武田旧臣の連中を雇用する事に成功し
ている人物と言えよう。彦根藩が武田家と
由縁が深い事も、再考すべき事であろう。

以下はウッキペデイア木俣守勝より引用

守勝は幼い時から徳川家康に仕え、元亀
元年(1570年)に元服した。家族とのい
さかいから出奔して明智光秀に仕え、戦功
により50石を与えられて織田信長にも拝謁
を許された。後に徳川家に復帰、天正10年
(1582年)の伊賀越えでは地理に明るい
守勝が家康の三河国帰国を助けた。その
直後の天正壬午の乱では、滅亡した武田氏
旧臣の招聘を命じられ、成瀬正一らの案内
で甲斐国に入り、一条・山県・土屋・原の組
に属していた旧臣を招聘することに成功した。
徳川家康は彼らを井伊直政の傘下に組み入れて
「甲州同心衆」として再編し、守勝にはその
統率を命じた。これが縁で直政の寄騎になった
と考えられる(『寛政譜』井伊直政条には西郷
正友(正員)・椋原正直(政直)が同時に直政
に付けられたとされる)。こうした功績によっ
て2000石を与えられた。 その後、天正18年
(1590年)の関東仕置によって直政が上野国箕輪
に入ると、守勝は3000石を与えられた。この箕輪
時代に井伊家臣団は再編され、直政の寄騎であった
徳川家臣は井伊家臣へと転属されて「御付人」と
称されるようになる。その中でも守勝は筆頭として
位置づけられ、後に徳川御三家などに見られた付家老
の先駆的存在となる。関ヶ原の戦い後、近江国佐和山
を与えられた直政からは、長年の功労によって
「村雨の壺」が与えられた。 慶長7年(1602年)に井伊
直政が亡くなり、直継が跡を継ぐと、徳川家康から鈴木
重好とともに直継の補佐と佐和山城に代わる彦根城の
築城を命じられる。また、直継からも加増を受けて合わ
せて4000石を与えられた。ところが、慶長10年(1605年)
に病気がちの守勝に代わって鈴木重好が政務の中心となる
と、同輩の椋原正直や西郷重員(正員の子)らは重好父子
が不正を行っていると家康に告発した。守勝は重好父子の
弁護をしたものの、家康は重好を追放して守勝に政務を行
わせ、重好の息子である鈴木重辰や椋原正直・西郷重員ら
に和解の起請文を書かせて事態を収めた。重辰が井伊家に
留まれたのは、守勝が政務復帰の条件として重辰を許すこ
とを挙げたからだとされている(ただし、この騒動の詳し
い史料が守勝の子孫である木俣守貞の編纂した『木俣留』
であるため、守勝の対応に関しては作為が含まれている
可能性もある)。慶長13年(1608年)には改易された
筒井氏の伊賀上野城を主君・直継とともに受け取っている。
慶長15年(1610年)に守勝が病に倒れると、家康から薬を
贈られるなど懸命な治療が行われたものの、静養先の京都
で死去し、金戒光明寺に葬られた。 
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明智本能寺に来ず!柴田賎ケ岳に来ず!

2021-01-28 19:26:41 | 戦国武将
城郭ビイスタ論 上文字クリック

明智本能寺に来ず!柴田賎ケ岳に来ず!

◆柴田勝家は賎ケ岳には来てない!

◆一般者
今回の投稿のキモ要点とは何でしょうか?
例えばハンバガ―会社の社長はハンバー店
に来ないのが通例です。お偉いさんは現場
に来ませんね?抜き打ち工場現場視察社長
もいるとか?運転手の「手」の語源とは何?
選手の「手」の語源とは何?深いのでは?

◆長谷川
世の中には現場視察する社長はおられます。
信長は桶狭間合戦の現場をリサーチし現場
に居合わせたからこそ今川義元を打ち取り
足利義昭の為の二条城の築城現場にも信長
は現場に足を運んでいます。現場主義とは
唯物論現実論的思考の人間の行動理論原理
と言えます。天正10年織田信長は本能寺と
いう現場に居たからこそ、明智光秀の派遣
した軍勢に包囲されその生涯を閉じました。
一方光秀は果たして本能寺の歴史の現場へ
と現実に足を運んだタイプの管理職や人間
でしょうか?軍法軍学の常識や定型を重視
する型式主義の人間が明智光秀ならば現場
の本能寺に派遣された将兵は自分が一体誰
を何の為に攻撃しているのか現実には解ら
ないのが実態でしょう。2、26事件におい
ても事件を起した幹部達は処刑されました
が何も知らず直属指揮官に従った一般兵士
は無罪と言う事になっております。この兵
こそ何も知らずに軍務に従軍した「手の者」
現場に派遣された一般兵と言えます。この
手の者の意味こそ今回の投稿の重要点です。

◆神道の手長
神道有職故実では宮司の祝詞奏上とは別に
神饌「神への供物」を殿中において中継し
て行く所役を「手長」とも言います祭祀に
直接従事する人の事を言います。

◆対談者
天正11年4月「1583年」の羽柴秀吉と柴田勝家に
よる賎ケ岳の戦いでは北国軍の総大将柴田勝家は
賎ケ岳に実際には来ていませんね!?

◆長谷川
実際、賎ケ岳合戦当日は柴田勝家は「近江伊香郡
」現在の滋賀県長浜市木之本町賎ケ岳の現場には
行っておりません。実際の柴田軍の先鋒隊つまり
第一陣の佐久間玄蕃盛政の先手が賎ケ岳の近隣へ
布陣して本隊の柴田勝家は[近江余呉庄今市狐塚」
現在の滋賀県長浜市今市に布陣して勝家は佐久間
玄蕃盛政の大岩山岩崎山の攻略を後方援護する為
に第二陣つまり先手ではなく第二陣に本陣を構え
ていました。「控えの役割を」勝家が担いました。

◆長谷川
もし柴田勝家が余呉今市狐塚本陣で最期の戦いを演じ
たら歴史教科書は余呉庄狐塚の戦い柴田勝家の最期と
歴史年表1583年狐塚の決戦と掲載された事でしょう。
しかし柴田は自らの馬標「馬印」を側近の毛受庄助に
託して越前北庄城に帰って最期を迎える事になりま
す。余呉で戦死した死体を秀吉方が取り調べると死体
は勝家ではなく影武者を演じた毛受庄助だった件です。
さて文献『信長公記』で本能寺の変に直接来ていたら
ば光秀の馬標が見えたと書いてません。だから森蘭丸
は信長に「明智の手の者とみえます」と明智から派遣
された兵と述べています。

◆長谷川
永禄3年桶狭間合戦では主戦場は大高城へ先陣の
松平元康が兵糧送り込みと鷲津丸根2砦の合戦で
今川の手先先陣となって働いたのは松平元康です
が本陣の駿河、遠江、三河、の大守とされる今川
義元の本陣は大高よりはるか遠方の今川義元本陣
を織田信長が義元本陣をダイレクト直撃した戦い!
信長は先陣の鷲津丸根砦を前年より普請構築して
義元先陣をこれに引き付けて自分は義元本隊へと
突撃する策戦にでた先陣の松平元康ではなく控え
の後方部隊の控え「今川義元本隊」を直撃に成功!
一方本能寺の変で『信長公記』は「明智の手の者と
思われる」と報告していますね?光秀本隊でない。

◆観光客
それなら賎ケ岳山頂の柴田勝家像は全く根拠なき
馬鹿馬鹿しい、フエイクや作り物なのでしょうか?

◆対談者
観光と歴史は別物、全く別次元の分野なのですよ!
観光は一般大衆が現実歴史を検分する分野でない!
観光は幻想やロマンを楽しみ歴史城郭は現実世界!
やはりそこには大きな文化的理解における側面の
巨大な断層と亀裂が厳然と存在しているのですよ!
幻想を好む人間が真実現実史実を求める人間性か?

◆野球愛好者
そりや野球でも監督つまり全軍の指揮はベンチで
指揮を執り投手陣は先発、中次、リリーフ押えと
順番に順次登場致します。先発し完投する投手も
勿論いますが、一番最初に登板するのが先発隊と
言う事になります。先発先陣は必須と言う事です。
また必ず予備投手陣「控え投手」も用意してます。

対談者
長谷川先生はNHK名古屋文化センターや米原市
近江公民館で『信長公記』の解説講師を長期的に
担当されていました。その解説内容は某学芸委員
や元大学教授までも聴講される秀逸な解析と分析
力を発揮された実に原文の真意をよく読み砕いた
内容で私元受講生として大変充実しておりました。
是非この様な講座や講演を拝聴したいと思います。


◆対談者
文献『信長公記』の本能寺の変の解説の時も信長
の寵臣「森蘭丸」「乱丸」が本能寺を包囲攻撃し
た際に「敵は明智の手の者と見えます」と報告し
た記事に対して長谷川先生はこの文言は明智光秀
が本能寺門前に到着したのではなく明智の手の者
と表現している事から光秀に指示され本能寺包囲
隊が本能寺に到着しただけで光秀本人は本能寺へ
到着していない可能性がこの文言から解ると言わ
れまして、これには受講者一同あっと驚きました。

◆大河ドラマ視聴者
あっと驚きませんよ!光秀が本能寺に来てないとは?
冗談言わないで下さい!明智が紅蓮に燃える本能寺
や焼け落ちた本能寺の煙にくすぶる瓦礫を見る場面
は映画やドラマでは再々登場して是が史実なんです。

◆対談者
それドラマでしょう?演劇効果や脚色の世界ですよ?
私が今討論している世界は真実現実の歴史事実です!
それ子供の頃から何度も見せられた刷り込み学習よ!
人間はウソを100回学習したら必ず信じ込む習性よ!
城だって石垣や天守の印象が焼き付き土から成る城
を大衆とは見ようとしませんのよ!これが城の本命。

◆長谷川
まあまあ、みなさん興奮した、論議をなさらずに是非
冷静に考えて見ましょう!古来より軍陣の先鋒戦陣に
立つ人を「先手」せんて、さきて、「先陣」せんじん
等と呼び慣わしております。「何がしの手の者」とは
首謀者から派遣された「手配された者」の文意があり
ます。手とは手先の意味があり寄親や総大将は本陣に
どっしりと控えて先陣の戦果の様相や様子や戦況報告
が遂次到着報告を待機する行軍こそ常識!近江、甲賀
の郡中惣と呼ばれる土豪連合体においても各土豪の城
の周囲には自分達の配下に守らせる端城が記録されて
ます。これは「手端城」てばしの城とも呼ばれる本領
の最も外にある城の事を意味します。従って「手」は
中世において、支配下の軍勢や兵員の事を意味します。
『信長公記』の本能寺の変の記述には「敵は明智の手
の者と見えます」と表現されていたら当然明智本隊で
はなく明智の指令に従った「明智の手の者」明智光秀
に従った「手先の軍勢」と言う事が文面から読み取れ
ます。是を逆説的に捉えるのならば明智光秀の本隊と
は少なくとも本能寺の外の別の場所に光秀が控えてい
た事を文献『信長公記』は暗喩しております。

◆大河ドラマ視聴者
そんな馬鹿な事は長谷川氏の勝手な推測でしょうが!?
明智が本能寺の変当日どこかに居たとでも言うのかい!

◆対談者
ドラマ「劇」と歴史「現実」は別の次元でしょうがな?
劇は演劇であり創作脚色ありの演劇部門の世界ですよ?
私が今話題にしているのは現実歴史の世界の事ですわ!
長谷川先生と図書館の書物や新聞にも掲載されてない
大きな城を発見したり城郭遺跡発見したりする瞬間は
つくづく長谷川先生の分析解説は冷静的確さに驚きます!

◆明智光秀は本能寺に来ていない。
◆明智光秀本能寺不在説の件のニユースによると
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山
県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書
いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川
図書館近世史料館所蔵、3巻本)。史料の存在は一部で知
られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた
。このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員
(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
 萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した
上巻にある。寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の
斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に
関わった利宗(としむね)が、おいで加賀藩士の井上清左衛門
に語った内容として収録されていた。利三と、光秀重臣の
明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、
光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと
書かれている。奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために
書き残し、他人に見せることは厳禁とある。萩原さんは
「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、
重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、
信頼性が高い記述ではないか」とみる。光秀本人が本能寺を
襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の
吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに「惟任日向守
(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されてい
たためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。



◆長谷川
本能寺襲撃隊と信長危機の報告を聞きつけて京都へと
帰洛する四国攻めの為に大坂にいた四国攻めの総大将
織田信孝の軍勢やその副将丹羽長秀や畿内在住の織田
諸将が信長の本能寺救援に駆けつける事を防ぐ為には
鳥羽布陣でしょう。
鳥羽伏見は関西方面から京都に入る交通の要衝です。
戊申戦争でも鳥羽伏見の戦いが展開され関ヶ原合戦
の前哨戦でも伏見城の戦いが展開された要衝の地です。

◆一般者
しかし、そんな事言っても本能寺の門前に光秀が登場
しなければ演劇にならにないしドラマの絵に成らない。

◆長谷川
そこに創作劇つまり演劇と歴史事実の断層があります。
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東海 北陸 近畿  長谷川博美講演と利便の米原駅

2021-01-11 09:00:05 | 戦国武将
東海 北陸 近畿  長谷川博美講演と利便の米原駅
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◆長谷川先生はどの様な人と学習研修したい?

◆長谷川
当然の事ながらBCDEとローマ字を学んだ人
には先入観や大脳生理学で言う記憶の固定化が
進捗して基本のAを素直に学習する事は不可能
です。城郭でも考古学の発見も時に全く専門外
の人やでPCで言うリセット状態の人が発見!
猿集団においても塩水でリンゴを洗うのは小猿
と言う全く先入観のない猿が衛生的にリンゴを
洗う合理性と体験を獲得し猿山のボスは保守的
つまり全く歴史城郭民俗学に興味ない方々です。

◆対談者
このブログは歴史城郭に興味ある人ではなくて
純粋無、全く素人の人に発信されいる訳ですね?

◆長谷川
そうです。石垣のある城は日本に存在する城の
10/1にも満たない。員数理論から言うと城とは
元来、土+成=城であって本来城には石垣など
無かったのが日本の城の源流であり主流ですよ。
登山や山歩きしたら日、本中に城山地名が多数
存在し堀切や曲輪と呼ばれる人口開削地が必ず
あります。

◆対談者
でも人間には既知記憶は初期記憶が子供の頃か
ら形成されますね?人間とは子供の頃石垣の城
に登山したり時代劇で石垣と天守を繰返し繰り
し見せられて反復学習されて固定概念が形成
されていて、これ絶対大脳生理学や記憶概念
としてイメージとして印象が焼き付いている。
つまり登山や山歩きやハイキングで城跡へと
行っているのに石垣城郭から入門したリダー
は土の中世城郭を見逃します。つまり日本の
城の100パーセントの90%を本来の城として
見落としている事になりますね?中には学府
で勉強された人が本物の城址を意図的に城郭
遺跡でないと公衆の面前で公然と否定される。
何で否定されるのか多くの有識者は知ってる。

◆一般様
じやあそれって重箱に入った弁当だけが本物
御弁当だと重箱入りの弁当が米を使った食品
であり、チャハーンやカレーライスや丼物に
入ってしいる日本本来の日本米は米じや無い
と同じ位、日本の米食品や餅文化をも含めて
公然と否定「米文化を否定している事になる」
城って一体何ぞ、日本の城とは何処にある?

長谷川
葡萄が一個から成立しないように葡萄は一房
から成立しています。滋賀の賤ケ岳城塞群や
甲賀、伊賀、伊勢に分布する城館群もまるで
大洋を群をなして回遊する魚群の如く存在し
ます。また大名の城、大名に従属する国人の
城、国人に従属する土豪の城、自治独立権を
保有していた堺の街も惣村の城。また真宗に
属していた北近江湖北10ヵ寺も寺院城郭です。
寺院勢力が寺内を守る城寺内町も全国にある。

一般様
大坂石山本本願寺も城なんですか?

◆長谷川
城も城だ!あの織田信長を突き飛ばし籠城し
跳ね除けた日本屈指の名城の中の名城にして
鉄壁の法城、石山本願寺城は超有名な城です。
後に豊臣秀吉や改修しまた徳川氏も改築した。
ですが大名の城もあれば農民の城も山村の城
も日本史の中に存在する。其れを否定するか
否定しないかは貴方の度量次第。現代日本に
も県庁があり市役所があり町役場があり町内
会館があり集会所がある如くにかって中世に
は何処にでも城や砦や関所や見張所等が存在
した。其れを全否定したら歴史学否定する事。

◆一般者
映画『七人の侍』は何故?海外から高評化?

長谷川
当然の事でしょう。あの集落は武士の居ない
農民が治める惣村自治集落です。しかし山賊
が集落を繰返し襲撃して安全な自治生活を営
めない谷間のある集落を山賊から護る為には
七人の侍を自治集落は雇用して谷間の集落の
上手と下手に堀を掘りバリケードの柵を築く
それは近江菅浦荘の様に集落の東西に要害門
つまり集落防衛門を要塞を構えている越前の
都とも言える一乗谷城にも谷の上手に上城戸
下手に下城戸と言う堅固な城門を築いている。
映画『七人の侍』とは日本中世の自治集落の
惣村防衛合戦絵巻として外国有識者は高評価
しています。つまり日本人よりも海外の人が
日本の中世史を深く咀嚼理解している。でも
日本人の大衆は黒沢監督の娯楽大衆映画とし
か評価していない。映画『七人の侍』あれは
優れた中世惣村集落の城郭防衛戦映画ですね!
映画『七人の侍』は村人の要請に従い要塞化
した様子を再現しようとした優れた映画です。

◆質問者
『七人の侍』デモクラシー「民主主義」がある?

◆長谷川
中世の自治集落では「寄合」とよばれる合議制度
がありました。映画七人の侍でも村人と侍の会議
が開催つされ村の防衛策を協議してます。寄合で
す。議会制民主主義のような形式が惣村に存在し
ました。近江堅田も惣村で堅田に七人の侍の様に
一般民とは別に「殿輩衆」とのばら衆と呼ばれる
武士も居住しておりました。堅田は自主独立自由
の自治都市です。一時、あの反骨の一休禅師また
真宗の蓮如上人も滞在した自主独立の琵琶湖の水
を堀として行き込んだ都市堅田城です。また湖上
を行く舟に「上乗」とよばれる水上交通税も徴収
しておりました。

▼建設途中の米原駅前、米原市役所 新庁舎の様子


◆長浜さん
長谷川先生には
①長浜臨湖
②長浜文芸会館
③長浜サンパレス
④浅井文化ホール
⑤ウツデイパル余呉等長浜市内の施設で
単発巡回歴史城郭講演をして希望します!
▼過去写真

◆長谷川
何故でしょうか?

◆登山様
長谷川先生って意外にも雑誌『岳人』や長浜市
のタウン誌『みい~な』にも登場してますよ!
長浜さん
私は歴史紀行、城址ハイキング、城郭探訪
単なる山行から脱皮、進化、深化して城郭
遺跡を冷静見学できるように進歩しました。
先生を知る事で生涯学習の貴重な機会得た!
長谷川先生と対面すると素朴純粋な学者で
ある事が即解らないが徐々に解るのですよ!

◆一般様
良いですね!昨日より今日!今日より明日
と城郭遺跡見学者へと人生進歩進展する人。

◆長浜さん
長谷川先生に会う機会が無かったら、私は
今も山行を続ける観光行楽のままだった?

◆湖南さん
先生キャリアは古く滋賀県現地城郭調査員と
我々滋賀の産んだメイド、イン滋賀の研究家
長谷川父子として伝説の人で城郭本舗です!

◆一般様
本舗って「しにせ」老舗や超熟のベテラン?
特化した職人的な一般とは違う達人の世界?

◆長谷川
別に、深くないですよ。英語のABCDや
仮名のイロハの様に基本に忠実なだけの事
極めてベーシックな基本と基礎の素朴な人。


◆滋賀城郭さん
元滋賀県中世城郭分布調査の調査員
長谷川さんですよ。城郭解説は図書
から仕入れた物じやなくて現地遺跡
調査測量から立脚して解説されます。
背広は裏打あり。本格文書は折り紙
あり、と同じ土壌や土台が違います。
観光城ガイドと別の城郭遺跡解説者。
だから小谷城解説しますとブログに
登場したら城人はいろめき立ちます!

◆米原「まいはら」さん
長谷川先生は長浜余呉出身で典型的
な湖北人気質の人しかしもう米原に
は44年も歴然と居住され近江坂田郡
人ではありませんか!だから長谷川
先生は米原の事を「まいはら」発音
するもう歴然たる坂田米原の人です!
愛知岐阜三重東海方面では著名な人

それが全く米原では無名なんて事は
米原市民にとっては宝の持ち腐れで
滋賀民俗学会理事長の粕淵先生とも
面識があり長谷川先生には城郭より
も民俗学、有職故事、地理地名学や
多岐にわたる総合歴史学を交通利便
の米原駅近隣で講座を私達は希望!

◆名古屋さん
それ良いですね!長谷川先生のNHK名古屋
文化センターでの『信長公記』解説は長年に
亘り長期人気歴史解読講座として定評がある。

◆岐阜さん
米原駅前って名古屋岐阜や大垣から近いの!
先生の講演や講座は楽しく為になるんです!

兵庫さん
長谷川先生支持者は兵庫県に多いのですよ!
新快速「米原行」に搭乗して講演に即行く!
近江さん
米原市近江公民館とでの『信長公記』解説も素晴らしかった!
一般様
それにしても長谷川先生書籍って何千回も
使ってもうボロボロ手で本が擦り減ってる。

長谷川
古代中国では紙が開発される以前は竹束
を紐で連結した竹に書いていたんですよ。
今でも手紙を竹簡と言うのは是が起源と。
歴史城郭?軽いノリでは語れませんね!



コメント (2)
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