城郭遺跡見学の衝撃と天正城郭遺跡の現実
◆一般者
長谷川さんの解説って何か宝塚歌劇団で言えば
「専科」の人や「オケボックスの音楽家」の様
になにか?特殊な専門性を感じてしまいますね!
◆長谷川
男役トップスターや娘役を鑑賞するのは良いの
ですが本当に渋い円熟の「専科」の人を見落と
さない鑑賞力や歌劇鑑賞も観点として重要なの
です。宝塚歌劇の品位や香気を保持してる人々
専科の役目を、見落としてならない事だと思い
ますよ。宝塚歌劇では大階段の一段一段も大切
ですが、城郭の段々「段筑技法」も見落とさな
い事がより丁寧で真面目な遺跡見学と言えます。
◆一般者
しかし長谷川先生は社会を観察するベクトルが
広く深い事に驚きます。着眼点や洞察力も深い。
◆対談者
ブログ「最新の研究動向紹介 - FC2」を読んで
ショクを受けました。杉山城問題と言われるも
のです。実際の城郭縄張理論とは難しいですね.
◆長谷川
そうでしたか?さて余呉町行市山山麓に多彩
な現地遺構が現実に実際に残っております。
少なくとも古戦場戦跡を見る為①~⑦の基本
を事前マスター認識しておいて下さると余呉
町の多数の城郭遺跡群は、10倍楽しめます!
◆長谷川
①の堀切はこの写真で凡そ解ると思います。
写真に背後に布陣遺構⑤も写っております。
②の防塁/塹壕などが写真にも写る現実です。
②の形状の塹壕は11月20日の城郭フオーラム
で詳しく神明山城とともに解説する予定です。
▼余呉町茂山陣所 前田利家「能登」利長「府中」らの陣跡
▼浅い壕の跡は時として雪解けの季節に私達に
壕が存在した事を晴天白日の残雪として私達
語りかけて来ます。これを素直に見学するか?
高飛車に敬遠し馬耳東風に無視するか?それ
貴方の気性や性格や城郭遺跡に対峙する姿勢
そのものとして一生ついて回る城郭見学主観
と言う事になります。雪が私に城郭の深奥を
語っているが是を読み取らない不遜な発想は
城郭遺跡を学ぶ精神的資質に欠けると言える。
◆質問者
元亀年間の志賀の陣では北国軍が高嶋衆江北衆
越前州都合3万の軍勢で比叡山に陣城を構えま
したが、天正11年賤ケ岳合戦では、越前、加賀
能登などの、所謂「織豊城郭」概念から外れた
陣城や戦陣を見い出す事が実際に可能ですか?
また両戦乱の気候的補給線「ロジステイック」
的な共通根は比較研究論として存在しますか?
◆長谷川
⦿ 志賀の陣の越前の朝倉氏
〇 賤ケ岳合戦の越前柴田軍
前者は冬期の冬将軍の到来により越前に引き返し
織田信長は自軍の危機を辛くも逃れて朝倉に勝利
します。後者は天正10年の清須会議で越前の大守
柴田勝家は羽柴秀吉軍の本拠たる江北長浜城の獲
得に至りますが冬将軍の到来とともに越前と近江
の通路を塞がれた柴田勝家は養子柴田勝豊の守る
長浜城を羽柴秀吉に攻めと取られてこれが遠因で
同11年江北賤ケ岳に於いて羽秀秀吉の前に敗軍し
越前朝倉と越前柴田の両者とは越の国の豪雪環境
に影響を受けたとも言えます。柴田勝家がもしも
長浜城を堅固に改築して長期籠城戦に耐え得る将
や兵糧を長浜に天正10年から投入していたならば
北陸方面の柴田方は要衝関ヶ原を確保しかつ美濃
織田信孝や伊勢の滝川一益と連合合策して、連携
し、加賀、能登、越前、北近江、美濃、伊勢の6
カ国の連合軍により壬申の乱の如く、羽柴秀吉を
犬上川や瀬田川で順次撃破して京洛へと上洛出来
ていたた可能性あります。その為に柴田は瀬田城
の山岡氏、甲賀鈴鹿方面の山中氏と連絡を取って
いました。そのような意味では北近江の長浜城に
柴田軍の最強の精鋭軍団を何故?置かなかったの
か?大局を見誤るミステイクを犯してたとも言え
ます。羽柴が長浜を奪取した段階で、旧織田方の
美濃伊勢東海方面の勢力と越前加賀能登の北陸の
勢力との分断を羽柴秀吉が見事に成し得たと言え
ます。要するに東海と北陸の両翼を結節する扇
の要が江北長浜の地理的要因だったと言えます。
其処を羽柴秀吉とは旧領を確実に確保しました。
◆反論者
長谷川さんの論説は慎重すぎると思いますが?
◆長谷川
研究の資質は軽薄即断形と熟慮探索探究型に
分かれます。これは一般社会でも熱心に研究
する人や淡白に即断切り捨てにする性格や主
観の違いが発生する場合があります。元亀や
天正の頃の陣城は四角□や〇円つまり方円の
形状に属していなければ城郭遺構と見なさな
い即断型の人もおれば私の様に現地の遺構を
丁寧に慎重に吟味しようとする人もいる事は
世の中に住む人間の性質や性格からくるもの
です。志賀の陣と賤ケ岳合戦の陣でも北国型
を思わせる、尾張東海地方をルーツとする城
とは異なる異形の陣城が両者の北国軍に存在
する事は否めない否定出来ない現実と言えます。
国か変われ城変わる如き現実は実際に存在する。
▼元亀年間 浅井朝倉 比叡山山中北国軍陣城
▼長谷川博美 下書き図「ラフ図/踏査図」
▼天正年間天正11年 賤ケ岳合戦 北国軍某陣所図
◆対談者
やっぱり長谷川先生の城郭ビイスタ論が話題に
なったり元亀の北国軍の陣城と天正の北国軍の
陣城の両者を鮮やかに照らし合わせて比較研究
される城郭研究の専門的資質には流石だと思い
ます。私達大衆の心理とは軽々に発表された説
を安易に信奉する社会的集団心理が存在します
からね歴史城郭研究の前に社会心理学を知って
おく位の慎重さが、常に不可欠かと思いますよ。
▼秀吉の賤ケ岳合戦後に書かれた書状には柴田
勝家が北国4カ国の軍勢を引き連れたと記録する。
◆長谷川
越前、加賀、能登、一部越中の将兵つまり北陸4
カ国の将兵の陣城が一体何か所、余呉山中に眠っ
ている事でしょうか?山中に行けども、行けども
天正11年の加賀、越前、能登、一部越中の将兵の
宿営していた無尽蔵とも言える状態で次々に山々、
嶺々に次から次へと私達現地見学者の目前に登場
して来ます。そもそも4カ国の将兵が長浜市余呉の
山岳部に如何様に陣を張っていたのか?仮に3万人
とも2万人とも言える将兵達が余呉に布陣していた
現実があるならば余呉北部に2万布陣していたとす
ると戦の中心の戦闘員、食料補給の兵站員、築城
普請に従事する非戦闘員/夫丸など含めて1000人が
野営し露営し雨露をしのぐ陣小屋の作事等も含め
て20カ所以上の、2万を収容する施設が現実には
必要と言えます。それが6カ所ほどの砦では歴史
的説得力現実性が無いと言えます。柴田方だけで
も現実には20カ所以上の陣営や要塞が存在してい
る現実の姿を確認してこそ、歴史の現実や史実を
知る事が出来ます。
つまり
するのに2万人のプレパブ住宅的陣小屋跡
を大体一日や一年で見学する事は到底無理
と言うものです。
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆一般様
城郭ビイスタ論が1400人の視聴者数を既に超え
ています。これは異常な事、破格な事だと思う。
◆対談者
地味ながら当然の事でしょう。戦前戦後を通じ
もはや戦後とは言えない令和の時代に登場した
日本城郭研究史上最も、城郭構造の核心を突い
た基本論説。これ知らなかったら城郭素人です。
▼武蔵杉山城ビイスタ工法
◆一般様
さて長谷川先生が指摘されるように行市山、別所山、
山、橡谷山、林谷山、大谷山には柴田勢2万の砦が
現地にひしめいて存在しているとの事、これらの砦
の地勢や地形はどのようなものでしょうか?
◆長谷川
余呉町小谷から行市山、別所山、橡谷山、林谷山、
大谷山の地形は木の葉の葉脈の様に複雑に分岐し
ていて無数の城塞が20カ所以上存在してしかも各
砦は天嶮の上に実に巧妙に砦の相互ネットワーク
を張り巡らされていて籠城側は谷川の水音水の手
自在、眼下の天嶮は秀吉軍を寄せ付けない要害を
形成しています。その様子を具に現地視察するに
はやはり実際には現地踏査した活きた現場検証が
最も有効と言えます。
◆質問者ズバリ聞きます。行市山、別所山、橡谷
山、林谷山、大谷山の複雑な地形な地形を誰より
も熟知していた羽柴秀吉方のブレーンとは誰です
か?
◆長谷川
行市山、別所山、橡谷山、林谷山、大谷山の複雑
な地形な地形を誰より精通していた人物とは当然
余呉町大谷「元来大谷」出身説がある大谷吉次で
ありましょう。木の葉の葉脈の様に分岐した複雑
な地形太田谷「おおたんだ」を手に取る様に秀吉
に報告リポートできたのは大谷紀之助「慶松」を
於いて秀吉傘下には存在しません。秀吉は柴田方
の行市山山麓布陣の陣営を見て北国街道側正面か
ら此れを正面攻撃する事は不可能と判断したと思
います。現代でも当時の柴田方陣営の跡を見学者
の皆様と見聞すると本当に驚くばかりの砦の連鎖
連珠砦の巨大連合体が山尾に数多く残っています。
◆質問者
秀吉は柴田方の行市山山麓軍勢をどのように攻略
しましたか?
◆長谷川
なだらかな余呉湖の海山の比較的緩やかな地形に
堀切も高い切岸も存在しない大岩山陣と岩崎山陣
をワザと巧妙に構築し柴田勢を引き付ける「囮の
砦」として構築させ是に佐久間軍を引き付けて彼
を粉砕する「誘きだし策戦」を展開し賤ケ岳勝利
に導いております。佐久間盛政は勇猛果敢なれど
も合戦の趨勢を決定左右する大局観を洞察する事
なく大岩山岩崎山二カ所を占拠勝利し緒戦の勝利
に酔ってこの敵中に留まります。頃合いを見て秀
吉に内応していた前田利家の突然の退却劇により
柴田佐久間軍は賤ケ岳合戦に敗北してしまう事に
なると言う事です。
◆質問者
中国の兵法三六計に秀吉の計略は該当しますか?
◆長谷川
先ず
『調虎離山』 -
敵を本拠地から誘い出し、味方に有利な地形で戦う。
これは佐久間を行市山から誘い出し賤ケ岳で破る策
と全く同じです。
『抛磚引玉』
- 自分にとっては必要のないものを囮にし、敵を
おびき寄せる。
これは秀吉は大岩山岩崎山に佐久間盛政をおびき
寄せる典型的な戦法です。
◆一般様
さてウイッキペデイアから引用します。
「ニッチ市場(にっちしじょう、Niche market)
とは市場全体の一部を構成する特定のニーズ
(需要、客層)を持つ規模の小さい市場のこと。
狭義には、その中でも商品やサービスの供給・
提供が行われていない市場とされる。隙間市場
(すきましじょう)ともいう。 出典:wiki」
◆長谷川
【のび太/弘道館】様から到着した「ニッチ市場」
と言う文言です。注意しなけばならない事は全く
顧客見込みのない消滅型少数マイナー市場やマニ
アック超オタク型趣味と誤解せずに確実に少数で
あるが発掘すべ市場が確実に気付く事だと、私は
解釈致します。お気楽な観光とは異なる、デープ
「深い」観光需要リアル観光見聞派とも言えます。
◆対談者
「ニッチ城郭案内解説」という観点から検討すれ
ばNHK名古屋文化センターの現地城郭見学会や
「シャトー、コンフエルジュ」を務められ全国の
城を講師とし巡られた経験やウッデイパル余呉で
12年経年開催されて来た。賤ケ岳合戦城郭フーオ
ラムでの長谷川先生の現地城郭遺跡解説は城郭初
心者様でも手取り足取り土の城郭遺跡の見学観察
の仕方を元「滋賀県中世城郭分布調査/現地調査員」
としての堅実な経験や体験に裏打ちされた経験で
解説されている本物のスゴサさ実力だと私達は感じ
ます。城郭観察研究し続けた結果が城郭ビイスタ論!
◆城郭フオーラム参加者
先日の大谷山砦柏谷砦橡谷山砦見学会は現実に
は7箇所もの城郭遺跡を私達は見学して賤ケ岳
合戦のおびただしい数万の軍勢が駐屯していた
「インフラ/城郭施設の跡/砦跡」を7カ所を見学
できた感激や喜びがある。個性的な現地城塞が
発する非日常性の現地城郭遺跡の生々しい迫力
に驚きましたあの見学会は一生に一度の価値あ
る本当に「城郭見学一期一会」素晴らしい価値!
◆城郭フオーラム/スタッフ様
あの砦群などまだまだ序の口なのよ!林間を行
くと突然50mもの完全削平を伴う驚愕の遺跡が
出現し遺跡は佐久間玄蕃盛政の陣より巨大です。
◆おっちやん
大岩山砦級の城郭がボンボン眼前に次々余呉の
山中に出現して新城郭発見の連続で驚きです!
◆おばちやん
これは年配の主婦層には確実に解ると事かと
思いますが、長浜北部で冠婚葬祭を各家庭
で経験した場合いは主婦連は20人集合する
まぜ事「寄合」ならば御飯茶碗は20個事前
に用意しますし。汁椀を20碗は段取りとし
して当然準備します。勿論20膳の用意ぬかり
なく用意し増します。越前柴田軍勢2万人の
が行市山に布陣した場合には各千人を収容す
る20膳に相当する曲輪は当然存在して然るべ
き20膳が20曲輪に相当すると私は物事の当然
の理で考えますわ、これ物事の当然の理屈よ!
◆長谷川
でも歴史を文字で必死に覚えた歴史通の人々
は行市山城塞群を6カ所の砦として固く固定
概念で焼き付けた記憶で、歴史解釈をします。
おばちやんの様に20人なら20膳が必ず必要と
2万人なら1000人の陣所が20カ所とは解釈で
きない頭脳の硬さ、固定概念が文字歴史派の
方には存在します。おばちやんの方が見積も
り現実感や現実性で物事を理解解釈できるが
文字頭脳の人にはこれを理解認識できない
優等生的記暗記型の弱点も存在致します。
◆長谷川
佐久間盛政の行市山城一カ所を巨大だと勝手に
解釈し勝手な幻想歴史解釈を抱く事はもうなさ
らない様にお願いを申上げます。佐久間盛政の
行市山城は全長約55mの土塁、それに対し林谷
山城の土塁は全長400mです。柴田勝家の玄蕃
尾城は巨大ですが林谷山陣城は小谷城の番所
から山王丸まで約400mに匹敵する長さの天正
の万里の長城と言っても良い見応え十分120%
の織豊系陣城遺跡です。能登加賀越前の将兵
が山々峰々尾崎に群集し布陣して陣城を築城
している様子が、目の当たりに見学できます。
◆対談者
そんなの考えたら常識で解る事よ!ジヤンボ
ジエット機の操縦席は機長、副機長、機関士
などの機体の運行を指揮管理する小さな小部
屋です。それに対しジャンボジェツト機の客
席は400席もある。佐久間盛政の行市山陣城
は小さくて当然です!旅客機の主体は400名
乗客を収容するスペース「空間」がある事。
操縦室だけ見て、客室を見なくては旅客機
の本質意味理解できない12月18日の中谷山
砦林谷山砦の全長400mに驚嘆する素朴で素
直な感性や感覚を社会の人々に持ってもらわ
ないと困ります!城郭見学は素直さ正直な心
とストレーな感性がとても重要だと思います!
◆一般様
何で50カ所も60カ所もの陣営の跡があるのか?
加賀、越中、越前、能登の将兵が陣取っていた
跡を私たち素人は全く解らずに行市山山系を通
過して物々しい賎ヶ岳合戦の戦跡を見逃してる
のでしょうか?遺跡の見学の仕方ポイントを教
て、頂けませんか?私は戦国時代の甲冑に興味
があります。それと同時に城塞の様子も心得て
実際日本の武士道の現実を見て見たいのです?
◆長谷川
柴田方の北陸大名は羽柴秀吉に敗れた敗者の
立場です彼等は秀吉に敗れた敗軍の将です。
だから大谷山林谷山に存在ひしめき合う多数
の城を「敗軍の将、兵を語らず」の如く一切
布陣位位置や武将は現代も語られる事はなく
歴史に埋もれた敗者の現実が残されています。
敗者とて立派な城を構えていた事は玄蕃尾城
を見れば容易に理解認識出来る事でしょう!
◆長谷川
多数の城郭遺跡が野外博物館の様に存在します
がこれらの多数の遺跡を戦国史や歴史好きの人
に認知認識してもらう事は大変困難を要します。
調査し図面化したものは20カ所50カ所と増えて
くる。しかしです!物凄い現地の要塞群の迫力
は歴史を文字のみで学ぼうとする文字歴史派か
らは全く意味をなさない戦国の現場と言う事に
なります。今私が述べている文言は所詮文字と
言う人間の使う伝達記号の羅列にしか過ぎない
のです。現場を視察視察する社長や歴史上の人
物が時にいますが彼等は帳簿や文字に現れた統
計や数値だけではなく実際の現場の現実「イン
フラ/設備」を視察に来ている訳です。社長が
突然工場訪問して工場の裏手にある資材置き場
にある帳簿に上がっていない監査から漏れた現
物を視察視察して会社の現実を把握する人も居
る訳です。現場に現れる「信長」や「秀吉」の
心理とは現実確認、現実認識、現実把握ですよ。
◆長谷川
それら余呉の城塞や砦の跡の規模が大きくと
も現代人は以下の条件で見学地を決定します。
A有名な城址である事
B名所観光地である事
C書籍パンフに紹介された城
D城の看板がある
Cみんなが行くから行ってみたい
異常ABCDは肩書見物
カタログ見物
目録見物
と言う事になり現地遺構第一重視派
ではない事が解ります。それぞれの
見学や城へのアプローチは10人十色
が存在すると言う事でみんな仲良く!