驚愕 日本史の盲点 長崎出島と西役所の幾何学設計
◆対談者
享保18年刊行(1733年)
『築地指南』巻3は江戸軍学に
影響された幻想図だと考えま
した。▼
◆対談者
ところが武家棟梁徳川将軍の
牙城江戸城本丸と西の丸等に
この図式と同じ測量法が存在
する事を長谷川先生が指摘を
され驚いたんです。江戸城▼
◆対談者
更に驚いた事は豊臣政権の大老
として右大臣/内大臣徳川家康
俗に言う「内府」が豊臣政権の
の後半に政務を執っていた城郭
小幡山伏見城にも扇型の放射状
測量痕跡がある事を長谷川先生
が指摘され再度驚いたのです!
◆長谷川
ビイスタがつまりは扇が2枚
重なるような城郭測量方法を
私はWビイスタと分類してま
す徳川に関係する城郭に多い
傾向がある事は私の研究では
解って来ました。
◆対談者
そうよね!城郭ビイスタ理論
とは昭和や平成には出現しな
かった新しい令和の城郭理論
だと言えます。是非この理論
を知っておく事が令和の城郭
を理解する認識する重要点と
なると私は考えております!
◆対談者
さて江戸時代になると徳川
幕府は島原のキリシタンの
反乱に鑑み鎖国策を採用し
ましたが唯一オランダ船の
みの寄港を長崎出島に認め
長崎にオランダ学(蘭学)の
聖地、海外学術の拠点たる
蘭学が勃興するに至りまし
た。この出島の監督監査を
する機関が長崎「西役所」
だと言う事になりますが
徳川直轄長崎監視施設たる
西役所「奉行所」自体とは
徳川直営と言って良い事だ
と私は思います。この出島
を眼下に監視する為の徳川
の見張城郭こそが長崎奉行
所西役所だと思うのです。
ならば西役所には徳川W
ビイスタの縄張が潜在する
と私は推理している訳です。
◆長谷川
これは困りましたね!
私にはツテがない事!
私には人気がない事!
私には肩書が無い事!
私には支持者も弟子
も全くなくて孤島にて
孤立生活している様な
世の中と完全に隔絶を
した孤独不人気学者と
言う事で長崎奉行所の
西役所に城郭ビイスタ
があるなどの事は不明!
◆対談者
長谷川先生!喝ですよ!
先生は講師として最善を
尽くして城郭を詳細繊細
に解説される先生です!
城跡なのに城ではない等
の向学心ある民衆の心を
へし折るこころない言動
を長谷川先生はされない
その真心と誠実さこそに
学問の良心や真実の解答
が降臨すると思いますよ。
◆長谷川
これは学者として怒られて
しまいました。人は失敗し
怒られてこそ進化するもの
貴方から受けた質問に挑戦
する事にいたします。
◆みんな&対談者
そうだ!そうだ!高校野球
でも10対0で負けていても
必死に食らいつく学校の姿
こそ神々しい光彩を放つ!
民の中に埋没した長谷川
先生を我々一部の少数は
令和城郭研究の鈎を握る
キーマン重要人物だと考
ています。民こそ社会の
主役であり民の学問こそ
が民間学「城郭研究」だ
と思いますアスフアルト
を割って新芽が出て来る
柔軟な植物の生命の胎動
泥中より開花する蓮の花
美しさ長谷川先生に奇跡
の民間学を期待致します!
◆見学会参加者
私は長谷川先生と安土城
天主台地下蔵に登りまし
た。先生は塔心礎の中心
から八方に測量されてる
と解説され鳥肌が立った。
◆見学退会者
何を言ってんだか?この
無名5流学者など無視×3。
◆質問者
長崎奉行西役所に中央から
城郭を測量した痕跡はある?
◆長谷川
邪念を捨てて心を空にして
虚心坦懐に図を見れば家相
学的見地も含めた中央測量
点は必ずや読み取れます!
▼長崎奉行所西役所中心点
◆対談者
そら見て見なさい!城を見る
とは心を開いて心眼で見るの!
◆見学退会者
ふん!しようもない事を言う!
それなら徳川Wビイスタとか
言う測量技術を西役所が使って
いるか?そんな事ありえない!
日本の城の測量法が存在する
ハズがない!長谷川説など✖!
◆長谷川
これ本当に困りましたよね!
まさか徳川の長崎出島監視所
の西役所に徳川Wビイスタが
存在するなど夢に思わない!
◆みんな&対談者
ヤッタースゴイ読みの深さだ
寒気がしてきました。長谷川
城郭学の超深堀マニアック学
◆冷静質問者
長崎出島と西役所の縄張を
冷静客観的に長谷川先生に
解説を願いたい?
◆長谷川
先ず長崎出島の扇型ビイスタ
は1から縄張測量されています。
次に「荷揚場」「大波戸」に
向けてビイスタ測量されてる。
◆長谷川
私なにも奇説を唱える為に
偏向した理論を唱える事を
するつもりは毛頭ありませ
ん神君家康伊賀越えの途次
に支援した三重四日市宿屋
陣屋などもこのタイプ縄張
藤堂高虎が縄張関与した近江
膳所城の元来の縄張も徳川の意向
を汲んだものです。方円自在縄張
をする事が縄張巧者と言う事です。
◆出島 1634年 徳川幕府が開設
出島(でじま、英語: Dejima、オランダ語: Deshima)は、
1634年江戸幕府が対外政策の一環として長崎に築造した
日本初の本格的な人工島[2]、扇型で面積は3,969坪(
約1.5ヘクタール)。1636年から1639年までは対
ポルトガル貿易、1641年から1859年まではオランダ
東インド会社(AVOC、アムステルダムに本部のある
VOC)を通して対オランダ貿易が行われた。
◆
長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、
安政2年(1855年)から江戸幕府が海軍士官養成のため
長崎で実施した海軍伝習のことをさす名称。
延宝元(1673)年に、時の長崎奉行牛込忠左衛門によって
東屋敷が立山(現在、県立美術博物館がある所)に移された
ため、江戸町の役所は西役所と呼ばれるようになりました。