必須長浜学 称名寺文書から 天正城郭を新発見する!重要見学会!
日時 令和3年5月15日土曜日
A探 訪 集落「通過」
1 大谷吉継出生伝説地 余呉町 小谷「元大谷」
B景観 眺望「遠望」
2 石田佐吉「三成」新谷山山系 称名寺柳ケ瀬 敵情視察地
C 新発見布陣遺構見学
3 摺墨砦 全長約300m 「大型布陣遺構/東野山城端城」
秀吉書状にある丹生谷の百姓の砦「隠れ城」か?
D 久太郎小屋砦 「西陣 東陣」
4 二ヶ所の土塁曲輪 一カ所の大堀切 現地遺構見学「東野山城出城」
E 堀秀政東野山城「本陣」
5 名人堀久太郎秀政の傑作土塁城郭
集合1電車 JR北陸線余呉駅10時10分
集合2車 余呉観光館駐車場10時
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美
会長 生月茂氏
補助 宮本氏
補助 田畑氏
参加費2500円弁 当付 資料付き
予約先ウッデイパル余呉城郭係
☎ 0749―86—4145
▼丹生谷方面に向かって高く構築された東野山城の東土塁
城郭ビイスタ論上文字クリック
北近江城郭 鳥瞰図 上文字クリック
必須長浜学 称名寺文書から 天正城郭を新発見する!重大記述!
城の中芯を的確に認識し歴史の真実を導く!
副題『人に騙されても城には騙されるな!』
◆はじめに
羽柴秀吉が残した『称名寺文書』下知状には
「致敵陣取急度出馬おしつむべく候。定北国者
はいくんたるべく候。然時は、余呉、丹生其外
在在所所の山々に、かくれいる土民百姓以下、
ことごとくまかりいで、後をしたい、ちゅうせ
つをはげまし、くびをとるともからにをきては、
あるひは知行をつかはし、あるひはたうざのい
ん物を可出、もしのぞみの儀あらば、しょやく
めんじょすべく候。此むね相心得、申しふれら
るべき者也。
仍如件
天正11年3月15日 筑前守 秀吉(花押)
称名寺
とあります。
現代文に長谷川が解説しますと、賤ケ岳合戦天正
11年に秀吉の敵の柴田勝家軍が余呉庄一体に陣取
った「陣城」を構えた秀吉自身は必ず急行して軍
勢を押し詰める「軍勢」を集中させる。北国勢
「柴田勢」は定めて「予定通り」に敗軍「敗北」
する事であろう。然るべき時には「その時」には
余呉、丹生の一般百姓の人々は、ことごとくまか
りでて「全ての人は出役」し秀吉に従軍して忠節
を励む事、敵の首級を追撃戦で取った輩「ともが
ら」においては知行「領地」を与える。また当座
の褒美恩賞を賞与させる。もし希望するものがあ
れば諸役免除「課税や徴用を一切免除」この秀吉
の趣旨を心得て民衆に申し触れる事「称名寺が民
衆に広報しなさい」よって件の如し
天正11年3月15日「1583年」
筑前守 秀吉(花押)
称名寺
と記録されています。戦国当時未だ「兵農分離」
が江戸期の様に確立されておらず、一般民も刀剣
武具を所有して隣村どうしの山林や土地境界論争
には村で生活する人々も弓矢の訓練武装し集落背
後の山城や隠れ砦を設置し何しろ警察が存在しな
い時代ですから自衛自治する惣村もあり現代では
既に研究解釈が進展たし。だから百姓は弓矢や刀
剣を所持してる。有名な明智光秀も山崎合戦の後
に農民の落ち武者狩に遭遇して落命しています。
本能寺の変後には家康は無事三河まで帰着します
が穴山信君「梅雪」は落ち武者狩に遭遇し落命し
ます。上記称名寺文書の「余呉、丹生其外在在
所所の山々に、かくれいる土民百姓以下」とは
武装した当時の農民と考えて間違いないでしょう。
従って丹生谷に秀吉に味方する農民「武装予備勢力」
も山陰の砦や間道に砦の柵を結んび宿営していた
可能性は十分に高いと言えます。それ賤ヶ岳合戦の
主戦場とは一般に考えられていない丹生谷方面に
秀吉方の東野山城が土塁を高く現地に築いている
事でも解ります。そう言った単純明確な城郭構造
観察する基本こそが東野山城が丹生谷方面に備え
て防備していた事を城址を観察している人であれ
ば誰しも解る事。
丹生谷には砦が無いと最初から決め付けない事。
また羽柴秀長が丹生谷の小原へ賦役夫丸を黒田
村の人々に何故、申し付けか?秀吉が何故余呉
丹生の山々に隠れている、百姓に対して、称名
文書に書き残しているのか?全くその真意や意
味が解らない事になります。ですから城址を見
る事「城郭遺跡を的確冷静に観察する事は学門
の本質です」
◆結論
賤ヶ岳合戦の秀吉の書状にある丹生地区に今年
「余呉城郭研究会」が全く新しい新発見城郭を
発見してしまいました!図面も既に測量してお
ります。来る令和3年5月15日土曜日にみなさま
とともに砦を見学致します。全長300mに亘って
山尾根に凹凸や生々しく普請しています。どうぞ
皆様には是非宜しく御理解とご声援を賜ります事
を慎み御願い申し上げます。
◆対談者
長谷川先生の城郭教室は堅実で定評がある。
地に足が付いてる智と地が融合した裏打が。
インテリジエントスポーツ智的城郭勉強会!
城郭ビイスタ論クリックする。
◆某氏からの感謝電子メール
いつもご指導賜りありがとうございます。
先日は天神山砦の見学お世話になりました。
なかなか見ごたえがありました。ありがと
うございます。
◆みんな
この方は教育心理学を良く心得た元某町教育
長です!やはり智的理知的な方々なのですね!
城郭行楽観光より、学び体験生涯学習復活を!
◆レコード蒐集家
レコード盤中心の穴を見て是はレコードの中心
ではないと言うオーデイオ評論家は存在しない!
レコードの溝は外から内へと廻って掘削される。
◆みんな
そう、そう、至極当然!の事ですよ!道理です。
レコード評論家やオーデイオマニアがレコード
の中心の穴が解らないようではそれは論外の人、
基本の基本が解ってない事は彼の評論や言説が
レコード論も論文の体なしてない明確な証拠だ。
◆一般様
あなた何を言っておられるのですか?このブログ
レコードブログじや無いのです?関係ない話です!
◆長谷川
ちょつと待って下さいレコード蒐集家さんの説
は実は大変的確に的を得た極論です。古来城郭
の築城方法を記した本を『軍学書』や『兵法書』
と言うのですが城には内郭と外郭 内輪と外輪
がある事を軍学の基本で、中央本城と記してる。
▼八幡堀氏が地元で目にした軍学書の中央本城
なにやら喫茶店の紅茶やレコード盤そっくり!
◆喫茶店主
紅茶皿と紅茶カップの双方を見て紅茶の入った
中心カップを紅茶の本丸ではない紅茶皿こそが
紅茶セットの本丸と言う喫茶評論家は愚物だよ!
多くの大衆が紅茶を飲jまずバリバリ紅茶皿をば
食べるような愚行はしません紅茶の本丸は紅茶!
◆みんな
そう、そう、そう、当たり前の当たり前体操!
そう、そう、プリンの中心は皿でなくプリン!
皿食べられない!美味しいのはプリンが本丸!
皿を食べてこれぞプリン主郭と誰も言らない!
レモンの皮とレモンの中芯もちやんと解かる!
◆対談者
東野山の横堀をレコード盤に見立てるならば
レコード盤
の溝はAが中心でBが外周に相当致しますね!
横堀の配置見れば一目瞭然万人が解る事です!
◆みんな
そう、そう、そう、そう、
内輪うちわ「内郭」内城
外輪そとわ「外郭」外城
城跡を見れば当然解ります!
★『人に騙されても城には騙されるな!』
そうそうそう中央本城です!
◆一般者
そりやそうだ当たり前の事を今更何を言いますか?
タイヤの中心は車軸、円の中心はコンパス主軸だ!
自転車の車輪の中心はタイヤじやなくて車軸です!
◆対談者
でもある本で東野山主郭がBと考え信じ込み盲信
する人もいる。Bに石碑が建てられて主郭と誤認
文字の力、石碑の力、刷り込み誘導はもう御免だ!
レコード中心はどこか?車輪の中心はどこなのよ!
みんな、みんな、丸暗記の刷り込みでなど御免だ!
俺達私達は感情のないロボットでも丸暗記丸複写の
コピー機じやない。自我の確立と冷静な判断が肝心!
◆城郭仙人様のありがたい格言
『人に騙されても!城に騙されるな!』名言です!
◆みんな
そんな馬鹿な事?城の中心を見て解らないのかな?
◆一般様
刷り込み学習って恐ろしいのです。卵からヒナに
なった、生後間もないカモの子カモ達は時にして
木の車の付いた模型にヒモを付けて人間が牽引す
ると自分達の本当の母親ではなく木の車に愚かに
も牽引されて列を作って追尾して行きます。動物
の持つ集団行動や集団本能や集団心理は恐しい事。
◆みんな
「かも」つて何の意味?簡単に騙される人間かな?
「生まれたばかりのカモの子供達」つて人間の何?
『人に騙されても!城に騙されるな!』ですかね?
◆八幡堀さん
僕は昔から織田信長の琵琶湖水上ネットワーク
とは、五行思想の影響を受けた一種五芒星形で
A①佐和山城「彦根松原で信長が大船を建造」
B②長浜城
C③安土城
D④坂本城
E⑤大溝城
文献や歴史時間軸からは佐和山城が筆頭で常識です!
その筆頭の常識や機能性を彦根城が受け継ぎました!
安土城の内湖、佐和山の松原内湖、大溝の乙女沼や
長浜城の旧観は内湖を要害として利用した水辺の城
そんなもの佐和山城は織田軍の丹羽長の管轄した城!
あいうえお、の「あ」
ABCDE、の「A」のような根本的筆頭順位です!
▼佐和山城つて元来、琵琶湖に面した湖の城なのよ!
◆長谷川
そうでした?真摯で親切な御教示を賜り感謝します。
実るほど頭を垂れる稲穂かな!皆様の真心に感謝!
◆対談者
長谷川先生一体今回の投稿の本質や趣旨は何です?
◆長谷川
喫茶店に例えれば単純明解な事です。
①紅茶カップには紅茶が入っている。
②紅茶カップの回りは紅茶皿がある。
③紅茶皿の外にテーブルがあります。
④テーブルは喫茶店の中に存在する。
⑤喫茶店の屋外にも世界が存在する。
◆対談者
ものすごく抽象的で分かりにくいです?
◆長谷川
それでは、更に解説致します。
①紅茶カップには紅茶が入っている。
A東野山城の主郭/本丸とはA郭である。
②紅茶カップの周りには紅茶皿がある。
B東野山城の外郭とは勿論B郭である。
③紅茶皿の外にテーブルがあります。
C東野山城の東側に丹生谷存在する。
④テーブルは喫茶店の中に存在する。
D東野山城とは長浜市余呉町東野山。
⑤喫茶店の屋外にも世界が存在する。
E東野山以外にも砦、兵員、作業員が居る。
喫茶店の外も世界がある事は誰も知ってる。
◆対談者
以下のA~Dは誰にでも解る基本的な事!
①A②B③C④D当然の事ながら①Aは
基本の基本、根本の根本と言う基礎的な事
本当の歴史城郭研究ならば①②③④の基本
をあやまたずに的確に考察出来る!
E東野山の東にも砦、兵員、作業員がいた事
を証明する文献や遺跡を導きだす学問的作業
行程を地道に実施する者ですよ!
学術研究家の城郭の金田一耕介の本質です!
下図の小原
摺墨
菅並
三カ所の丹生谷集落に着目して下さい。
◆長谷川
ああ!そうなんですかね?なんか訳わかりませんよね?
E東野山の外に砦、兵員、作業員がいる事を証明せよと
言う訳!なんですか!これは簡単ですね!何しろ、私は
滋賀県産の滋賀県育ちで奥の細道には絶対に迷いません。
◆びわこ様
琵琶湖産の鮎「あゆ」や琵琶湖産鮒「ふな」こそ本命魚!
狡猾獰猛なブラックバスや!ブルーギルは外来魚なのよ!
◆長谷川
丹生谷の近江国伊香郡小原の文献は★1を読んで下さい!
以下★1
対談者
私は、近江国伊香郡黒田村、長浜市木ノ本町黒田出身です。
黒田の人々は賤ケ岳合戦の時にどの様な賦役が課せられた?
◆長谷川
伊香郡黒田村の人々が、伊香郡丹生谷小原に賦役として
秀吉方に駆り出され使役された記録文献を解読致します。
時代=天正11年2月20日、西暦1583年
場所=近江国伊香郡黒田村から伊香郡余呉庄小原村「丹生谷」へ出役記録
文書=木下小一郎長秀(秀吉の弟/羽柴秀長合戦当時木ノ本、田上山城守将)
収録=東浅井郡志4巻p.132『西村文書』
原文=以下に紹介解説
〔木下長秀下知状〕当郷夫丸之事、家数九十間之内、四十五人 めんきょ仕候。残而四拾五人、明日小(大)原まで可出候。若 無沙汰おゐてハせいはい可仕候也。/(天正十一年)二月廿日 小一郎/長秀(花押)/くろた村/名主/百姓中
|
|
◆長谷川解説↓
『木下長秀下知状』=羽柴秀長が伊香郡黒田村に命令した書状
当郷夫丸之事=黒田村の人々にだされた合戦前の人足の事
家数九十間之内、=黒田村の戸数90軒のうち
四十五人めんきょ仕候。=45人の家主は賦役を免許する「免除する」
残而四拾五人、=残りの45人は
明日小(大)原まで可出候。=明日、2月21日丹生谷の小原まで出役せよ。
若無沙汰おゐてハせいはい可仕候也。=もし逃れる者は成敗「処刑」する。
(天正十一年)二月廿日=天正11年2月20日、西暦1583年
小一郎/長秀(花押)=羽柴小一郎秀長「当時は長秀」
くろた村/名主/百姓中=近江国黒田村の村長と村民へ
◆長谷川
藤吉郎の弟の小一郎が丹生谷の山村小原に黒田村の
半分を夫丸として派遣また小原には山村特有の小原
籠などの山の民の忘れ去られた伝統や真宗布教施設
「小原道場」も近年まで残っていたと言われてます。
つまり真宗の布教拠点、惣村の可能性もありますよ。
加えて拙稿「藤吉郎秀吉と山の民の民俗学的視点」
も読者各位様は再読して下さい。また丹生谷は高時
川と名を変えて伊香郡井口を中心に餅之井として北
近江の水田を潤す大切な水資源でもあります。秀吉
や秀長も治水治産も総合して高時川丹生川を意識し
ております。勿論淀川の水源の北限に相当致します。
なんと大坂湾に流れ込む淀川の源流が越前と近江の
国境栃ノ木峠にその分水嶺が存在すると言う事です。
◆対談者
驚きました!やはり東野山城の土塁が丹生谷方面を
意識して構築してる現実は秀吉が勝家の丹生谷から
の侵攻を警戒していた事を証明す現実や記録ですね!?
◆質問者
何故?伊香郡黒田村90戸の半分の45人を丹生谷の
小原に秀吉の弟、小一郎は派遣したでしょうか?
◆長谷川
この『西村文書 』は天正11年賤ケ岳合戦の前哨
に相当する2月20に秀吉の弟「小一郎」が発令し
ています。余呉天神山城が完成するのが3月です
また秀吉は柴田伊賀衆の天神山城の陣小屋を3月
の晦日に、処分する書状も秀長に与えております。
柴田勝家方の佐久間玄蕃らが行市山に陣取り戦局
が変化した事を生々しく証明しています。黒田村
の人の半分を小原村に夫丸として派遣させた事は
小原村の人口が少なく黒田村から丹生谷を柴田軍
の南進を封鎖する柵による隘路封鎖や樹木を伐採
倒壊させ柴田方の丹生谷方面からの南下を防ぎ塞
ぐ工作をしたと理解致します。また黒田村の半分
の人員は3月中旬より黒田山「大岩山砦」の賦役を
課したと私は推測致する。秀吉や秀長は適度に弱い
臨時の城郭黒田山「大岩山砦」作り血気に逸り焦る
柴田方の佐久間玄蕃勢を、引き付ける為の、脆弱
な陣城であった事は現地大岩山を一目見れば解る。
現地大岩山砦を通過するだけのハイキングは
戦国の実際の実情を把握する事は出来ません。
わざわざ城郭の基本堀切を意識的に掘削して
ない、土塁も低く、大岩山を構える事により
佐久間を引出し柴田本隊を2分の1に分離し
賤ケ岳で丹羽と羽柴で合流して破る秀吉方の
戦術シュミレーションが簡単に読み取れます。
桶狭間合戦でも丸根、鷲津の2砦を囮城と化して
して今川本体と松平隊を2分の1に分離させ乾坤
一擲の勝負を仕掛けるが戦国尾張人の信長の策戦。
賤ケ岳合戦では2つの城を囮「おとり城」として
岩崎山城、大岩山城を是に相当すると思います。
◆長谷川 戦国2対1のおびきだし策戦の理論
先ず1+1は2です。
また2ー1は1です。
敵が分解離散した時に強烈なスポット攻撃を
敵のシンボル象徴的武将に加えて是を叩いて
崩す戦法!世に言う「賤ケ岳崩れ」ですよ!
各個分散撃破とも言います。
●桶狭間合戦で織田信長は大守今川義元と松平
元康を大高城の周囲に鷲津丸根2砦を永禄2年
から築かせて永禄3年の桶狭間本戦では義元
と元康「家康」を2ー1=1の原理で撃破した。
信長は今川義元の首級のみを狙い是を得た。
スポット照射攻撃とも本陣直撃とも言える。
●毛利元就の厳島合戦
毛利は陶晴賢の2万の軍勢を厳島の宮島城と
言う囮砦「おとりの城」を築城して陶氏を
厳島の窮地に誘い込み、毛利と村上水軍が
1+1=2原理で合流し陶晴賢の首級を得た。
●山崎の合戦
中国派遣軍の羽柴秀吉は四国派遣軍副将格
の丹羽長秀と織田信孝をも動員して山崎の
合戦で明智光秀軍に1+1=2いや2+1=3の
原理で山崎合戦に勝利した。これも丹羽と
羽柴の連合合策と言えます。光秀は1の兵力
で敗れるべくして敗れた!光秀の首を得た!
●越前金ケ崎城手筒山2城の戦い
信長は越前朝倉義景を討伐すべく越前敦賀の
2塁「2城」へ若狭から兵員ととも侵攻したが
浅井朝倉は1+1=2の原理で織田信長を挟撃
した、信長は即刻京都へ急遽帰還して無事、
どうも、浅井、朝倉は、特に手筒山城なと゛
は存外攻略しやすい、中世山城のままであり
どうも、越前敦賀の2塁「2城」は朝倉方から
見れば信長を越前敦賀に誘殺する為の2城で
ある可能性もある。信長は俊敏に金ケ崎より
退避した、浅井朝倉は1+1=2=勝利の原理
を見逃してしまった事になり朝倉義景が鈍い。
●志賀の陣
織田信長は畿内の三好方の野田福島に出陣し
たいた。浅井、朝倉、高島郡衆は何と3万もの
兵員を動員して三好1+浅井朝倉1=2の原理で
織田信長を挟撃しようと画策し、比叡山延暦
寺も浅井朝倉に味方して織田信長は窮地に立
つたここでも朝倉義景が越前に越冬の為引き
あげ信長包囲網の連携が実質機能しなかった。
●小牧長久手の戦い
徳川家康と織田信雄は1+1=2の原理で羽柴
秀吉に対抗し戦闘において徳川家康は勝利
したが秀吉は調略により織田信雄と和議を
締結し2-1=1の原理で徳川家康に調略に
より勝利、つまり戦闘より総合戦略で勝利。
英語の戦闘=バトル「局地戦闘」
英語の戦闘=ウオー「総合戦略」
対談者
解った!ひらめいた!脳内でスパークした!
だから初期、羽柴秀吉方の天神山城は東西2城
あるのか?しかも秀吉はこの天神山城を予想
以上に立派に作り過ぎてしまった!これは
秀吉方の策戦失敗だった、天神山城出来過ぎ
では、佐久間方が是に喰いつかない訳なのよ!
だから初期の柴田伊賀守の陣小屋や堀秀政の
陣小屋だった久太郎小屋の撤収を秀吉は秀長
に命じている訳ですね!
長谷川
確かに東野山城は丹生谷をも警戒しております。
B郭隅に隅櫓基壇が残っているのも丹生谷遠見
の為の隅櫓と私は解釈致します。
◆対談者
何故東野山城の主郭でもないBの郭に東野山砦の石碑が
あるのでしょうか?全国の善良素朴な城郭見学者や有識
者は納得や合点が全く行きません!もしBの場所を主郭
や本丸と誤認する城郭研究家が居たと仮定したら研究家
や学究家としての資質やセンスはゼロです学者としての
信頼や人望も失墜する事は必至と思われますが?如何?
◆長谷川
よく城址石碑は地権者様の許可を得てから建てる事が常
です。前回投稿の愛知県稲沢市の尾張一色城も城址石碑
は城址東側に建てられていました。石碑は必ず城跡中央
に建てられると限らないのが日本の冷静な社会観察です。
◆長谷川
田畑氏が2021年に報告された滋賀県内の城館も
Aが主郭でBが副郭でCDEGが外郭であると
解りますCが主郭と述べたらミスジャジで誤審!
◆対談者
長谷川先生もう一度、東野山城の中心部、救芯部つまり
昔のレコードで言うならLPレコードの中心の穴、哺乳
類なら「へそ」に相当部分を初心に帰り解説して下さい!
◆長谷川
A郭
城郭構造理論の基礎として先ずA郭の東丹生谷側に対して
高土塁を高々と築き東の丹生谷側を意識し横堀を掘削する。
B郭
B郭の東丹生谷側に対して高土塁を高々と築き東丹生谷側
を意識し横堀を掘削する。B郭はA郭の外に存在致します。
城郭の根本理論から言いますとAが内城/主郭/本丸に相当し
B郭がA郭の外郭施設/外郭/である事は単純素朴に解ります。
また丹生谷方面に構えられた竪堀、竪土塁も意味が深いです。
◆一般様
でもね?石柱石碑があれば一般観光客や旅行者は安心安堵
して写真をパチリと撮影して満足して帰るものなのですよ。
◆対談者
長谷川先生!B郭を主郭や公然と本丸と広言する人も居る?
◆長谷川
ここで冷静に社会観察しましょう現代社会の常識として
政治家は一体どこに自分の選挙本拠地を定め移住します?
◆対談者
そりやもう人口の多い、有権者の多い、数多く得票可能な
票田獲得地域に移住したり住所を変更して得票率を上げる。
市民の多い地域、人口の多い地域有利が数の論理の基本で
政治家として当選可能で。現代社会は数の論理が基本です。
大衆迎合、大衆獲得、大衆普及、ホピユリズム数の多い事
が勝組の必勝パターン員数の論理、現代社会の勝組の法則!
◆一般者
解りました!城址に石碑の立てられた場所を主郭だと解説
した方が数多くの観光客や一般大衆の総意や共感歓心また
社会的支持がえられる、純粋純朴な潔く清々しい研究者の
大切な真心など何の役にも立たない!正直者こそが、馬鹿
を見る厳しい厳然とした冷徹空虚な現実社会がそこ存在!
◆長谷川
ああそうなんですか?僕は白は白、黒は黒と純粋な少年の
ように発言するから万年負け組の貧乏クジ素浪人と言う事?
◆素朴純粋さん
長谷川先生、東野山は丹生谷方面に高土塁を構えています。
これは丹生谷方面つまり高時川丹生谷上流を秀吉方が警戒
していると私は洞察推察致します!これは城郭構造を見れ
ば誰でも解る事です。▼北国街道では無く丹生谷に土塁が
高い!私は純粋素朴だから城址をあるがままに見学します。
◆長谷川
ここで城郭の基本を再確認しましよう!
二月の節分は「鬼は外福は内です」が
城と当然「堀は外、土塁は内」が定番原則です。
◆長谷川
貴方は純粋無垢に城址を観察されています!では
全国の皆様に近江国伊香郡の丹生谷、余呉谷や旧
浅井郡の塩津谷を概念的に図説いたしましよう!
非常に単純化した概念図にしてみました東野山城
の土塁は意外にも余呉谷ではなく、丹生谷方面に
土塁を高く、横堀を深く、構えております。これ
城郭として東野山は丹生谷方面からの柴田勢力の
南進も警戒して丹生谷方面に土塁を高く築いてる。
もし羽柴秀吉の傘下に属する兵員や役夫が丹生谷
方面に派遣されてた文献を発見したら東野山城の
本丸問題も何故東野山城の土塁が丹生谷側が高い
のか氷塊されると私は思います。まあ私は観光の
案内人やら人気取商売人と別の世界の研究家です。
◆対談者
もし丹生谷方面に当時坂田郡と犬上郡の境目の城
佐和山城主の堀秀政が進駐した場合菅並の神社や
仏閣の備品を坂田郡に戦利品として持ち帰ったと
考えられませんか?
◆長谷川
丹生谷の近江国伊香郡菅並の文献は?
★2読んで下さい!
長谷川★2菅並の文献
確かに、伊香郡菅並村の梵鐘は坂田郡に移動して
おります。米原町史資料編p.320 米原町顔乗寺蔵
によりますと梵鐘の年号は応安1年8月1日とあり
西暦1368年と言う古い梵鐘です。〔願乗寺鐘銘〕
には近江国伊香郡余呉庄菅並之村岩本寺六所権現鐘也
と明確に余呉庄丹生谷菅並村と記録されております。
対談者
これは梵鐘が伊香郡余呉から坂田郡米原に移動した事。
長谷川
丹生谷の近江国伊香郡摺墨の遺跡は★3を読んで下さい!
対談者★3
すでに余呉城郭研究会では上の摺墨にも合戦時の砦を長谷川先生
宮本さん花井さん田畑さんが発見されている事に大変に驚きます。
▼摺墨砦の食違い虎口現場写真 織豊系の特徴を示している!
▼摺墨砦、別郭の砦写真と砦図面
▼やはり犬走を基本に砦が構築されている。
▼犬走の見学は城跡見学第一歩に基本です4月24日磯山城見学する。
◆対談者
やはり余呉城郭研究会は丹生谷の小原、菅並、摺墨そして
東野山砦の土塁が丹生谷方面に向かって高い事を洞察して
おられます。スゴイ歴史研究の進捗です。私達の知らない
賤ケ岳合戦の実態の一面を知る事が出来ました感謝します。