古代中国殷王朝の城郭にビイスタ構造あり
安土城天主にビイスタ話題騒然!
◆学術家
長谷川先生の幾何学分析による
遺跡解説が学術的に非常に評価
が高い!だから動画視聴数が爆
発的に多い!日本中が騒然です!
◆一般者
そんなに城郭ビイスタ論
幾何学論が学術評価が高
いと私達は感じませんが?
◆有識者
非常に学術性が高い従っ
国内宮殿遺跡から中国の
4000年前の都城構造さえ
ビイスタ理論で証明可能
な事が長谷川先生の研究家
や国際城郭研究家としての
資質の高さを顕著に示唆!
▼纏向宮殿遺跡 長谷川幾何学解釈
◆一般者
長谷川さんは平凡なオッチヤンです。
ボーットとした何の取柄もなき凡人
◆学術家
過小評価だと思います。弥生の纏向
宮殿遺跡をこの様に幾何学的に解説
可能な日本研究者は不在で稀有です。
この様に解説出来るのは韓国や中国
の優秀な一部の学術家の一握りです
長谷川氏を国際的城郭遺跡研究家と
して私は見ています。もっと長谷川
氏は世間一般の然るべき教壇や講演
に立って然るべき隠れた逸材と評価
しても過言でないと私常々感じます。
◆長谷川
ご推薦や過分の賛辞に感謝致します
が私は民と交わり城学びする平凡で
素朴な虚飾なき研究家だと思います
「学民衆より湧き出る事こそ学問」
◆一般様
近年林立する大学府は少子化する
日本国の現状を鑑み学生が大学に
入学する様な名物教授タレント的
教授を招聘して大学経営の危機を
乗り越え自分の大学の利益利潤を
保持せんと心掛けており大学府の
研究進化や学術の進展を阻害して
るとも言われてます。有名教授が
おられる学府だから学術が高尚と
言えない現実社会問題も発生する。
近年「教育産業化弊害」とも言う。
◆学術家
私は長谷川氏の日本の五世紀豪族
舘の幾何学分析を長谷川氏が規矩
術を参考にしていとも簡潔に分析
されている新しき学術に触れ驚嘆!
▼三つ寺Ⅰ遺跡 幾何学分析 長谷川
◆学術家
日本大和の国の古代廃寺遺跡
毛原廃寺遺跡なんて何故こん
な伽藍配置なのか日本の考古
学者や歴史学者は誰一人とし
解明できない難題なのです。
◆学術家
でもある日偶然長谷川氏のブログ読んで
側頭しましたよ!これだこれだったんだ
と古代廃寺の伽藍配置の様相が手に取る
様に私には解ったそれは全身を強烈なる
閃光が貫いたような衝撃的事件に値する。
ズキューンゴルゴ13の500m射撃の様に
◆学術家
さて本日は中国商代の城郭の経始
つまり縄張術について長谷川氏に
私から長年温めてた質問をします。
紀元前17世紀頃~紀元前1046年も
昔の城郭都市国家です。今からは
3000年も前の城郭都市遺跡の事例
先ず中国河南省の鄭州商城の構造
を長谷川先生是非解説して下さい
鄭州商城の内郭を昔私は勉強研究
していました。しかし私には何故
この城が7角形か?いや気にもしな
いし長年正直 解りませんでした。
下図の1、2、3、4の城郭の隅角
がどの様に設計されたのか恐らく
何万人の人が考えても解らない事
でも長谷川氏なら側頭されるかと?
◆長谷川
黒線の城郭腺が「商代」のものです。
凹凸のある城壁は明代の築造ですね。
1970年代内郭しか判明していません
でした現代は2022年50年経過半世紀
の時が過ぎ方郭の内城も外城「外郭」
も判明してまいりました。古湖岸は
古代に湖や沼沢が存在した地形です。
◆長谷川
規矩術、ビイスタ工法の原理を応用
しますと内郭も外郭も私の加筆した
赤線の様に放射状測量技巧ビイスタ
で鄭州商城が縄張された事を読み取
れます。内城も外城の赤線の如くに
内側を方「四角」外側を「半円」に
縄張された事が読み取れると思います
従って何故?内郭が7角形なのかは
幾何学的に明確に判明可能ですよ。
▼鄭州商城 扇型ビイスタ工法
◆学術家
流石だ!城郭幾何学長谷川先生の洞察
力は並々ならぬ慧眼と資質に満ちてる
学者だ「規矩術」ビイスタ論の汎用性
普遍性が証明され3000年以上も前の城
にもビイスタ工法が存在した事を証明!
何よりも3000年前も500年前の城もが
人類のイデア「思考」が普遍的である
事に気付ける人は万人に一人でしよう。
◆長谷川
もう少し鄭州商城ビイスタを
考察しますと中央から城郭を
測量した中央型のビイスタも
存在致します。
◆みんな
すげえ!長谷川先生は日本の
砦だけに詳しいだけの先生と
誤解してました!
◆長谷川
この様な古代中国の測量技術をも採用
して唐人に安土城の瓦を唐様に焼成せ
しめたのが織田信長の安土城でありま
す。私、名古屋と米原で『信長公記』
の講師をさせていただいた事は幸甚
でございました。太田牛一は安土城
の障壁画に三皇五帝などの中国古代
聖人を描いた壁がある『信長公記』
に記述しています。安土城天主の
地下蔵なども鄭州商城つまり日本
国で言う殷の王様の城より影響を
受けたる城郭測量の系譜つまりは
城郭幾何学ビイスタの伝統なのです。
◆反論者
いい加減なデタラメ安土城論を
唱えるなよ!お前が安城天守
地下室に中央型放射状ビイスタ
理論を発見出来る訳がないわ
御前は馬鹿か愚鈍な奴めが!
◆長谷川
日本国大和朝廷の秋田城は典型的
なビイスタ工法を用いております。
◆長谷川
冷静に安土城天主地下蔵
の形状を分析しましようね。
これ明らかに幾何学測量
用いた中央ビイスタ工法!
▼安土城 扇型ビイスタ工法
◆反論者
これはしかり!もしかして俺
が本当はアンポンタンなの?
◆世話人様
そうなの、そうなの、そうなのよ!
アンポンタン様が反論して下さ
つた御かげで日本中の人々が
ビイスタ動画見始めた訳なの!
我等のビイスタ動画視聴数は
5000に伸びた!でもまだまだ
快進撃は続くと私は強い信念
を持っています。学は民衆よ
り湧き上がる吹き上げる怒涛
の鯨波は何処の人に止めら
れましょうか?城郭ビイスタ
論とは天が呼ぶ!人が知る!
国際城郭理論でなのですよ!
◆長谷川
規矩術の系譜は殷王朝の末孫箕子朝鮮
(きしちょうせん、紀元前12世紀? -
紀元前194年)は、中国の殷に出自を
持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。
古朝鮮の一つ。首都は王険城(平壌)
が遠因で殷の都や都城作りの手法と
は韓半島を経由して日本の都城や寺社
建築作りにも影響を与えたと私個人は
考えております。
◆みんな
スゴイわね!城郭ビイスタ論!本物!
◆学術家
それでは殷の城郭都市
偃師商城「えんし」のビイスタ
を解説をお願い申し上げます。
◆長谷川
先ず偃師商城は三段階で発達した事
が既に多くの人々に知られてます。
◆長谷川
偃師小城では日本の城で言う
相横矢 横矢 両袖 横矢歪
技巧が採用さています。右の
大城は睨み虎口や土塁腺の折りが
採用されています。従って日本の
城を見学する時も城郭遺跡の一周
が城郭遺跡見学の基本の基本です
◆学術家
小城の頃の幾何学ビイスタは
如何様なプラニングが存在で
したのでしょうか?
◆長谷川
小城には御覧のようにクサビ型の
ビイスタ工法が読み取れます。
◆長谷川
小城にはまた御覧のような
重複型のビイスタ工法さえ
も読取れます。
◆ウイッキペデイアより4引用
盤龍城遺跡(ばんりゅうじょういせき、盘龙城、
拼音: Pánlóngchéng、Panlongcheng)は、
中国湖北省の長江北岸の武漢市黄陂区にある
都市遺跡。武漢市中心部から東北にある盤龍湖
付近の丘の上から発見された。長江流域で発見
されている唯一の殷代の都市遺跡であり、
河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化(殷の初期
の中心地だったとも考えられる)との結びつき
が強く、黄河流域の二里岡文化がその絶頂期に
遠く離れた長江沿岸にまで達していたことを示
している。二里岡文化の遺跡でも最大の発掘地
(最盛期で1平方km)。盤龍城付近は二里岡文化
に先行する二里頭文化の時期からまばらに人が
住んでおり、20万平方mの範囲にいくつかの集落
が点在していた。二里岡文化初期に入って以後、
盤龍城の集落は突然巨大化し、中心部の城壁内部
が75,000平方m、全体で1平方kmという大きな都市
にまで成長する。多くの青銅器が出土しており、
中心地付近で銅の出土が少なかった二里岡文化が、
長江中流の銅山や銅資源を確保するため、盤龍城
に前哨あるいは植民地を築いたとみられている。
盤龍城における建築様式や銅器の製造方法は、
二里岡文化で用いられた技術と同じものである。
しかし盤龍城で作られる陶器の様式は、黄河流域
の二里岡や鄭州のものとは異なっている。豪族の
埋葬方法も盤龍城と二里岡ではほぼ同一である。
盤龍城後期の地層の発掘結果からは、二里岡文化
の後期以降の様式は見られず、この時期に二里岡文化
が長江付近から退場したと見られる。盤龍城は以
後緩やかに衰退し二里岡文化の終焉とともに放棄
された。盤龍城の衰退は、呉城文化の中心であった
呉城が長江流域の中心として黄河流域との交易など
を行い拡大した時期と重なっており、呉城が盤龍城の
衰退に何らかの影響を与えた可能性がある。
◆長谷川
盤龍城遺跡ばんりゅうじょういせき
もビイスタ工法で築城されています。
▼盤龍城 長谷川ビイスタ考察
◆洹北商城と殷墟小屯の都市計画
長谷川考察
洹北商城は正方形しかし小屯宮殿遺跡そして
王陵区は緻密な都市計画が読み取れる
◆学術家
素晴らしい普遍性を含む比較研究論
ですね!正方形に宮殿や城が形成さ
れていない場合は放射状グリッド線
によって城郭の形が形成されたと考
える事が出来きます。人間が測量す
る場合の普遍性を思い知らされます。
◆長谷川
偃師大城は更に規模を大きくし
商城の規模を拡大していますね。
これも重複型のビイスタ工法!
◆長谷川
また偃師大城は別角度の縄張り
計測地点も読み取る事が可能。
◆学術家
何という常識にとらわれない自由
かつ冷静な分析考察をされ驚愕で
す。頭脳が柔らかく柔軟思考です
◆出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』
偃師商城遺跡(えんししょうじょういせき)、
または尸郷溝商城遺跡(しきょうこうしょう
同年秋に発掘調査が始まり、専門家の検証を
経て殷文化の遺跡と確認された。城邑の形は
長方形で、大城・内城・宮城という三重の城
壁が建てられている。大城は長さが南北が約1
700メートル余り、東西が約1215メートルで、
総面積は1.9平方メートルを超える。すでに7
つの城門が発見されている。城壁の厚さは上
部が14メートル、下部が19メートルで、現在
の高さは2.3メートルである。外側には堀があ
る。内城の形も長方形で、長さは南北が
約1100メートル、東西が約740メートルである。
城壁の厚さは6-7メートルで、大城と同様の形
態をしている。内城の西壁・南壁と大城の
城壁は重なっている。中央には宮城の遺構が
あり、形は正方形に近く、四方に厚さ約2メー
トルの土壁が建てられている。周囲の長さは
約800メートル強で、すぐ外を厚さ約3メート
ルの土壁に囲まれている。南に宮門があり、
その中に正殿の遺構があり、左右に配殿がある、
附近の宮殿は主に正殿を中心に展開されており、
大型排水施設と池苑が設けられている。池苑の
主要部分は長方形であり、長さは東西が約130
メートル、南北が約20メートルで、深さは
約1.5メートルである。そばにある水渠は堀に
繋がっており、独立した水系をなしている。
城邑の東北と西南には1つずつ小城が建て
られている、形はほぼ正方形で、周囲の長さ
は約200メートルである。周囲には厚さ2メー
トルの土塀が築かれている。城内には家屋と