越前敦賀の公文名 近江長浜の公文田 刀匠粟田口
私の奇妙な習癖として、ふと歴史的名称に類する地名看板を見た瞬間に一種のトランス状態に
陥る事がある。世知辛い現代では一々地名看板に驚いている人物は現代社会に順応できない変人
と軽蔑されてしまうか、または学者気質の向学の人物と評価判断されるかは微妙な問題ではある。
◆敦賀の公文名
敦賀市に行くと、「公文名/くもんみよう」なる地名看板に魅せられてしまう。素晴らしい
歴史的由緒ある地名ではないかと感激してしまうのである。名(みょう)は平安時代から中世の
国衙領や荘園において徴税のために設けられた単位である。私は敦賀に行くと五位川「五井川」
と言う地名に魅せられる。何故ならば藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代前期の
貴族・武将で藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国
敦賀の豪族・藤原有仁(忌部姓?)の娘婿にもなっていた人物だからだ。また『今昔物語集』の
中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から、敦賀の舘へ連れ帰った話が有名である。
◆「公文所(くもんじょ)」とは?
公文(くもん)とは、本来は律令制における公文書の総称であり、転じてこのような文書の取り扱う
官吏も指した。後世においては公家や寺院・荘園でも重要文書やそれを扱う担当者を指した。なお、
文書である公文の保管所や担当者の勤務場所を「公文所(くもんじょ)」と呼ぶ。出典: フリー
百科事典『ウィキペディア』 より
◆藤原利仁
平安時代 前期の人。
官位 従四位下、鎮守府将軍
主君 醍醐天皇
氏族 藤原北家魚名流
◆余談
この京都から敦賀のルートにあるのが滋賀県高島の剣熊や小荒路や越前疋田の愛発でもある。
滋賀県高島の剣熊に興味のある方は是非とも、当該ブログの「剣熊考」を順次お読みください。
◆近江中世の公文職「くもんしき」
応永十一年舜照なる者が近江国伊部郷公文職を粟田口十禅師に寄進していることが知られる。
伊部は近江浅井郡伊部であろう。
◆刀匠 粟田口 近江国浅井郡伊部に居住か?
天下の刀匠粟田口の知らない人はいないだろう。応永十一年「1394年」舜照なる者が近江国
伊部郷公文職を粟田口十禅師に寄進とあり、伊部にも刀匠や鍛冶に関する古地名があるはずだ。
◆伊部近辺の地名!に驚く!
先ずこの古図を近江国浅井郡小谷城の城下地名としてだけにとらわれるのではなく中世の国友
郷の如く小谷城以前から存在する鍛冶場の可能性を民俗学的な発想で模索したい。
①先ず伊部の集落地名は弓矢や冶金に関する地名の可能性「イベ」で古くヤマトタケル伝承も伝えられる。
②ズバリ鍛冶屋田の地名が残っている。これは「粟田口十禅師」に寄進された水田の事か?
③御屋敷は土豪「伊部氏」の居館か?
④塩唐は北陸から小谷に移送された塩小屋の唐櫃か?
⑤船場の辻は琵琶湖に通じる川湊と考えられる。
⑥金定も金属や冶金に関わる地名と推定される。
つまり「鍛冶」「食塩」「川湊」を考える地名要素が備わっている!
★番外対話者
長谷川先生!やはり先生は発想や切り口が常人と違うんだわ!この話かなり驚きかつ楽しいです!
2013年の長谷川博美 伊部講演の記録
主催:伊部の歴史を知ろう会様
雲雀山砦調査会:講師:長谷川博美
4月3日 10:00~15:00
催者 肥田嘉昭 先生
集合場所:長浜市伊部町 ひばり山交流会館2階
現地見学 雲雀山砦 同古墳群
◆粟田口とは ?
•京都粟田口は、古来近江(滋賀県)側から山科を経て京の街に入る際に使用された街道沿いにある。
京都七口のひとつで三条口・大津口とも呼ばれ、東海道・東山道から京都へと入る入口となっていた。
京都の粟田口の地名で鍛冶が住んでいたのが現在の京都市東山区粟田口鍛冶町とされる。
◆古典『宇治拾遺物語』の京都粟田口の
宇治拾遺物語にも次のように描写され、当時すでに鍛冶の一群が住していたことがわかる。
※「越後より鮭を馬に負せて二十駄ばかり、粟田口より京へ追入れけり、それに粟田口の鍛冶が居りける程に云々」
◆日本の中の公文名地名
公文名
読み方:クモミョウ(kumomyou)
所在 静岡県裾野市
公文名
読み方:クモンナ(kumonna)
所在 京都府舞鶴市
公文名
読み方:クモンミョウ(kumonmyou)
所在 富山県富山市
公文名
読み方:クモンミョウ(kumonmyou)
所在 福井県敦賀市
◆八風街道の公文職 塩津の公文職
永源寺町, 甲津畑, 甲津畑城, 速水信義, 甲津畑城は、速水氏の居城で、永仁2年( 1294)頃に興福寺領の甲津畑公文職に任ぜられ、その子信義は塩津の公文職も兼ねる 。
◆長浜市を散歩中に大変興味ある地名看板を発見!これには驚愕!
※日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
田令でんりょう
(1)令の篇目(へんもく)の一つ。「養老(ようろう)令」(30編)にあっては、戸令と
賦役令の間、第九番目に配列されており、全37か条よりなっている。田の面積の単位から
始まり、★口分田★(くぶんでん)や功田(こうでん)・職田(しきでん)・位田(いでん)など
各種の田、あるいは荒廃田、空閑地に至る土地の規定、用益法などについて定めたもの
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
口分田★(くぶんでん)★とは、律令制において、民衆へ一律に支給された農地である。
北魏(中国)の均田制における露田が口分田の前身であると考えられている。その後
、唐律令に口分田の規定が置かれた。日本では、飛鳥時代に令(または律令)を制定
する際、唐の制度を参考としたため、唐と同様に★口分田が導入されたと考えられる。
※唐の口分田
624年、唐は前代隋の律令を参考として新たに律令を制定した。その中の田令において
口分田が規定されている。唐田令では、成年男子(丁男)に100畝(1項=約5ヘクタール)
を支給し、うち80畝(約4ヘクタール)を口分田として残りの20畝(約1ヘクタール)を
世業田(のち永業田に改称)とした。
※日本の口分田
日本の律令では、戸籍に基づいて6年に一回、口分田として6歳以上の男性へ2段(720歩=
約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が支給され、その収穫から徴税(
租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働
力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。
※日本の口分田の消滅
唐末期(8世紀末)には、大土地所有が拡大していき、呼応するように徐々に均田制が崩壊
していった。この流れの中で口分田も消滅していったと考えられる。
私の奇妙な習癖として、ふと歴史的名称に類する地名看板を見た瞬間に一種のトランス状態に
陥る事がある。世知辛い現代では一々地名看板に驚いている人物は現代社会に順応できない変人
と軽蔑されてしまうか、または学者気質の向学の人物と評価判断されるかは微妙な問題ではある。
◆敦賀の公文名
敦賀市に行くと、「公文名/くもんみよう」なる地名看板に魅せられてしまう。素晴らしい
歴史的由緒ある地名ではないかと感激してしまうのである。名(みょう)は平安時代から中世の
国衙領や荘園において徴税のために設けられた単位である。私は敦賀に行くと五位川「五井川」
と言う地名に魅せられる。何故ならば藤原 利仁(ふじわら の としひと)は、平安時代前期の
貴族・武将で藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)の子。越前国
敦賀の豪族・藤原有仁(忌部姓?)の娘婿にもなっていた人物だからだ。また『今昔物語集』の
中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から、敦賀の舘へ連れ帰った話が有名である。
◆「公文所(くもんじょ)」とは?
公文(くもん)とは、本来は律令制における公文書の総称であり、転じてこのような文書の取り扱う
官吏も指した。後世においては公家や寺院・荘園でも重要文書やそれを扱う担当者を指した。なお、
文書である公文の保管所や担当者の勤務場所を「公文所(くもんじょ)」と呼ぶ。出典: フリー
百科事典『ウィキペディア』 より
◆藤原利仁
平安時代 前期の人。
官位 従四位下、鎮守府将軍
主君 醍醐天皇
氏族 藤原北家魚名流
◆余談
この京都から敦賀のルートにあるのが滋賀県高島の剣熊や小荒路や越前疋田の愛発でもある。
滋賀県高島の剣熊に興味のある方は是非とも、当該ブログの「剣熊考」を順次お読みください。
◆近江中世の公文職「くもんしき」
応永十一年舜照なる者が近江国伊部郷公文職を粟田口十禅師に寄進していることが知られる。
伊部は近江浅井郡伊部であろう。
◆刀匠 粟田口 近江国浅井郡伊部に居住か?
天下の刀匠粟田口の知らない人はいないだろう。応永十一年「1394年」舜照なる者が近江国
伊部郷公文職を粟田口十禅師に寄進とあり、伊部にも刀匠や鍛冶に関する古地名があるはずだ。
◆伊部近辺の地名!に驚く!
先ずこの古図を近江国浅井郡小谷城の城下地名としてだけにとらわれるのではなく中世の国友
郷の如く小谷城以前から存在する鍛冶場の可能性を民俗学的な発想で模索したい。
①先ず伊部の集落地名は弓矢や冶金に関する地名の可能性「イベ」で古くヤマトタケル伝承も伝えられる。
②ズバリ鍛冶屋田の地名が残っている。これは「粟田口十禅師」に寄進された水田の事か?
③御屋敷は土豪「伊部氏」の居館か?
④塩唐は北陸から小谷に移送された塩小屋の唐櫃か?
⑤船場の辻は琵琶湖に通じる川湊と考えられる。
⑥金定も金属や冶金に関わる地名と推定される。
つまり「鍛冶」「食塩」「川湊」を考える地名要素が備わっている!
★番外対話者
長谷川先生!やはり先生は発想や切り口が常人と違うんだわ!この話かなり驚きかつ楽しいです!
2013年の長谷川博美 伊部講演の記録
主催:伊部の歴史を知ろう会様
雲雀山砦調査会:講師:長谷川博美
4月3日 10:00~15:00
催者 肥田嘉昭 先生
集合場所:長浜市伊部町 ひばり山交流会館2階
現地見学 雲雀山砦 同古墳群
◆粟田口とは ?
•京都粟田口は、古来近江(滋賀県)側から山科を経て京の街に入る際に使用された街道沿いにある。
京都七口のひとつで三条口・大津口とも呼ばれ、東海道・東山道から京都へと入る入口となっていた。
京都の粟田口の地名で鍛冶が住んでいたのが現在の京都市東山区粟田口鍛冶町とされる。
◆古典『宇治拾遺物語』の京都粟田口の
宇治拾遺物語にも次のように描写され、当時すでに鍛冶の一群が住していたことがわかる。
※「越後より鮭を馬に負せて二十駄ばかり、粟田口より京へ追入れけり、それに粟田口の鍛冶が居りける程に云々」
◆日本の中の公文名地名
公文名
読み方:クモミョウ(kumomyou)
所在 静岡県裾野市
公文名
読み方:クモンナ(kumonna)
所在 京都府舞鶴市
公文名
読み方:クモンミョウ(kumonmyou)
所在 富山県富山市
公文名
読み方:クモンミョウ(kumonmyou)
所在 福井県敦賀市
◆八風街道の公文職 塩津の公文職
永源寺町, 甲津畑, 甲津畑城, 速水信義, 甲津畑城は、速水氏の居城で、永仁2年( 1294)頃に興福寺領の甲津畑公文職に任ぜられ、その子信義は塩津の公文職も兼ねる 。
◆長浜市を散歩中に大変興味ある地名看板を発見!これには驚愕!
※日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
田令でんりょう
(1)令の篇目(へんもく)の一つ。「養老(ようろう)令」(30編)にあっては、戸令と
賦役令の間、第九番目に配列されており、全37か条よりなっている。田の面積の単位から
始まり、★口分田★(くぶんでん)や功田(こうでん)・職田(しきでん)・位田(いでん)など
各種の田、あるいは荒廃田、空閑地に至る土地の規定、用益法などについて定めたもの
※出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
口分田★(くぶんでん)★とは、律令制において、民衆へ一律に支給された農地である。
北魏(中国)の均田制における露田が口分田の前身であると考えられている。その後
、唐律令に口分田の規定が置かれた。日本では、飛鳥時代に令(または律令)を制定
する際、唐の制度を参考としたため、唐と同様に★口分田が導入されたと考えられる。
※唐の口分田
624年、唐は前代隋の律令を参考として新たに律令を制定した。その中の田令において
口分田が規定されている。唐田令では、成年男子(丁男)に100畝(1項=約5ヘクタール)
を支給し、うち80畝(約4ヘクタール)を口分田として残りの20畝(約1ヘクタール)を
世業田(のち永業田に改称)とした。
※日本の口分田
日本の律令では、戸籍に基づいて6年に一回、口分田として6歳以上の男性へ2段(720歩=
約24アール)、女性へはその3分の2(480歩=約16アール)が支給され、その収穫から徴税(
租)が行われるとされていた。口分田を給付することは、人々を一定の耕地に縛り付け、労働
力徴発を確実に確保できる最良の方法であった。
※日本の口分田の消滅
唐末期(8世紀末)には、大土地所有が拡大していき、呼応するように徐々に均田制が崩壊
していった。この流れの中で口分田も消滅していったと考えられる。