どうする家康 水野信元 刈谷城
◆質問者
長谷川先生の城郭解説を聞いてる
ものです。三河刈谷城を見ている
と1の城塀が切れています。
2の城塀が切れています。
3の枡形虎口があります。
4の枡形虎口があります。
5の食違虎口があります。
この12345は何なんです?
◆反論者
そんな阿呆な質問何の意味
がある長谷川風情が何だ!
◆長谷川
その通りですね!私は著書0
肩書0ブログ読者も0に近い
日本一無名城郭研究家です。
1日の読者様が20名様を超え
る事はブログ開設以来ありま
せんブログ上手く使えない。
◆質問者
12345は何なのですか?是非
解答をお願いしたいのです!
◆長谷川
ああ城やってる人ならば誰も
が知っている城郭ビイスタの
基本線この基本線を基順に城
とはビイスタ縄張されてます。
◆対談者
この様に扇型にビイスタ縄張
知ってる事は城をやってる人
は誰でも知っている事ですよ
この質問に答えられない人は
城郭案内や城郭解講師は無理!
▼刈谷城 ビイスタ工法
◆長谷川
ハイこの様に刈谷城はビイスタ
工法で縄張された城なのです。
質問者された方は初心者様な
のです。ここが一番重要な事
◆一般者
大河ドラマ どうする家康では
では水野信元の家康に対した時
態度がデカイように感じました。
◆対談者
松平元康「家康」の叔父に相当
する大名級の武将だからですよ。
◆名古屋人
私はNHk名古屋文化センターで
長谷川先生の『信長公記』長く
学びました先生の様々な雑学と
有職故実の豊富な知識で素晴ら
しい連続講座だったのですよ!
◆滋賀近江人
近江公民館で開催された講座
『城歩会』開催『信長公記』
講座大好評で講座満員でした。
◆名古屋人
長谷川先生から学んだ『信長公記』
では天正八年1585年8月20日の条に
は「小河かり屋」として登場した
城は現在一般には刈谷城とに認識
されていますね?
◆対談者
刈谷市の刈谷城の解説する為に
長谷川先生に簡単解説を願い。
▼三河刈谷城簡略解説図
◆長谷川
私は普段古城を見学される人々
にはこの様な城郭の細部を見学
される様に常に推進させて頂い
て県外遠方から御参集の皆様に
深く感謝を改めて申し述べます。
令和2年1月21日佐和山城見学会
◆対談者
時代は動いています。時間は
むなしく流れさりて昭和平成
は遠い昔の過去になってます
先ず先生から北近江浅井備前
守長政小谷城に城郭ビイスタ
工法が存在すると長谷川先生
の講座で説明を受けて電撃的
なカルチヤーショツクを私は
受けました令和の城郭世界に!
◆愛知人
私も行き慣れた犬山城に城郭
ビイスタがある事をブログで
初めて知り城の見方考え方が
大きく昭和平成との流れとは
異なってきてる令和の城郭観
と言えるかなと私は思います!
◆対談者
その新しい時代に相応しい令和
城郭理論として長谷川先生動画
『城郭ビイスタ』動画が着実に
動画視聴数が何と5000回突破!
◆反論者
イカン、イカン令和のビイスタ
動画など絶対見てはならん正当
城郭学ぶ者はワシに付いて来い!
第一愛知県刈谷の城にビイスタ
工法など絶対に存在する訳無い!
◆刈谷市民様
長谷川先生!ウチの町の城跡の
刈谷城は一流の城なのですか?
◆長谷川
刈谷城見事なクサビ型ビイスタ
工法を基調にして本城、二ノ郭
そして馬出を配置しております。
典型的なビイスタ工法の城です。
刈谷城一流の城と言える城郭!
◆みんな
すげえ!城郭ビイスタ論って
令和の城郭大理論なんだよ!
私達長谷川先生を発見した人
◆対談者
さてさて刈谷城の水野信元
信長に属した人物ですよね。
▼近江安土城ビイスタ
◆長谷川
信長の安土城にも太閤秀吉と
なった肥前名護屋城も扇型の
ビイスタで設計されています。
肥前名護屋城ビイスタ
◆愛知人
愛知刈谷城に扇型ビイスタ工法
が存在するのでしょうか?何か
ワクワクする歴史探偵物物読ん
でいるようで長谷川先生は城郭
金田一耕助先生と言う人もいる。
◆長谷川
クサビ型を拡張して扇型ビイスタ
へと進展した様子が読み取れます。
◆長谷川
この青腺の扇型ビイスタを観察
して下さい。城郭の各要所通過
しています。縄張の事を経始と
言うのですが正に扇型縄張です。
◆対談者
松平徳川系の城にはWビイスタ
の存在を指摘されてますが存在
致しますか?
◆長谷川
解説が解りにくくなるので赤腺
で扇型ビイスタを図示致します。
従い青腺と赤線が重複形態する
Wビイスタ工法と言えましょう。
▼刈谷城 Wビイスタ工法 複合型にも近い
◆みんな
これだ!これこそが!
令和の新城郭研究論だ!
城郭ビイスタ論知らず
して今後城郭語れない!
▼浜松城のビイスタ工法
▼徳川家康 初期江戸城 タブルビイスタ工法
▼徳川家 江戸城 タブルビイスタ工法
▼徳川家康 鳥羽山城重複ビイスタ
以下ウイッキペデイアより引用参照
施行してから「刈谷」と表記されるようになった。
刈谷城[編集]
現在の刈谷市城町1丁目にあった城。別名「亀城」と呼
ばれる。以下は、この「刈谷城」に関する記述である。
城の構造[編集]
入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸、
帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて
周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には
歴史[編集]
本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康の生母
父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏につい
た(織水同盟)ため松平氏を離縁された後も刈谷城近く
小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助
(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間
の合戦当時、水野信元は緒川城もしくはその周辺を守備
していたか、あるいは日和見をしていたものと考えられる。
また、『三河物語』の三河一向一揆の項目では、水野下野守
(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に
御越有。」と記述がある。なお、刈谷は、当初は「谷」では
なく「屋」を当てられていた。『三河物語』においても「屋」
を当てられている。また、『信長公記』の天正8年(1580年)
8月20日の項目においても「小河かり屋」と「屋」が当てられ
ている。その他にも、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛
数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられ
ている。従来、鳴海城から引き上げる途中の岡部元信により城主
の水野信近は討ち取られ、城は落城したと解釈されてきたが、
この判物には城に火を放ったとは書かれているものの攻め落とし
たとは書かれていないため、岡部隊は味方の支援を得られなかっ
たために落城させられずに駿河に戻ったとするのが近年の説である[1][2]。
水野信元は天正3年(1575年)佐久間信盛の讒にあい、信長から
武田方への内通を疑われ、命を受けた家康に殺害されるという
非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となる。後に信盛
1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、
本多氏(忠勝系、1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に
城主の交代があった(城主の詳細については刈谷藩を参照)。